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工藤直子「こどものころに みた空は」[2024年03月31日(Sun)]

27℃!
3月のちょうど終わりに、夏日とは。

今年、元旦の大震災といい、人間の暦と符節を合わせるようにして、なのか、それとも全くそんなものとお構いなしにアチラの都合で、というのか。


***


こどものころに みた空は   工藤直子


ひとはみな
みえないポケットに
こどものころにみた空の ひとひらを
ハンカチのように おりたたんで
入れているんじゃなかろうか

そして
あおむいて あくびして
目が ぱちくりしたときやなんかに
はらりと ハンカチがひろがり
そこから
あの日の風や ひかりが
こぼれてくるんじゃなかろうか

「こどものじかん」というのは
「人間」のじかんを
はるかに 超えて ひろがっているようにおもう
生まれるまえからあって
死んだあとまで つづいているようにおもう


『工藤直子詩集』(ハルキ文庫、2002年)より


◆子どものころに見た3月の空と言えば、未だ雪の残るリンゴ畑で見た空だろう。

3月の畑では余分な枝を落とす剪定と並行して「カビハダケ」と呼ぶ作業をする。これは母や子どもの仕事で、リンゴの木に隠れている虫を除くために、コテで樹皮を掻き落とす。
コテや、小さめの草掻き状の道具でカサブタのような皮をこそげ落とすのだが、力任せにガリガリやった時など、小さなゴミが目に入ることがある。

母を呼ぶと、どれどれ、と言いながら、頬被りしていた白い布を口で湿らして手際良く取ってくれたものだ。
そのあと、未だジガジガする目で、母親の肩越しに見た青空。お日様の匂いを含んだ木綿に包まれながら、冷たい風からもしばし護られていたような記憶。




白寿ホールでチャイコフスキーを聴く[2024年03月30日(Sat)]

白寿ホールに初めて出かけた。

*先日の長旅の最後、PASMOを紛失したので、駅で新しいのを買おうと思ったら、券売機に「PASMO購入」の表示が無い。駅員さんに訊いたら、ICチップが不足しているので取り扱っていないのだと言う。やむなく紙の切符を買った。数年ぶりだろう。

――半導体、薬、ドライバー、介護スタッフ……足りぬものばかり。大丈夫か、ニッポン?

***

240330白寿ホール外 DSC_0298.jpg

白寿生化学研究所本社ビルの7Fに白寿ホールはある。

音が良い。ピアノ・ソロ、デュオ、トリオ、それぞれ、聞こえ方は当然違うのだが、それぞれがバランス良く、しかも粒だって音が聞こえて来る感じで、なるほど室内楽演奏に人気があるわけだと思った。


240330白寿ホールチャイコフスキー1 DSC_0384.jpg

◆〈チャイコフスキーが聴きたい〉と銘打った作曲家シリーズのVol.2。
演奏はピアノ:野上真梨子、ヴァイオリン:石原悠企、チェロ:藤原秀章の皆さん。

曲目は弦楽四重奏曲第1番の第二楽章「アンダンテ・カンタービレ」(チェロ&ピアノ版)に始まり、後半はピアノ三重奏曲イ短調「偉大な芸術家の思い出に」。チャイコフスキーの親友のピアニスト、ニコライ・ルビンシテインを追悼して作曲されたものだ。

名演だった。
曲が集結に向かい、テーマが再び現れるところでポロポロ涙がこぼれて来た。
音楽は葬送行進曲へと進む。そのあいだ頭に浮かんだのは「悼むとは、思い出すことだ。それも、より良く思い出すことだ。」という誰かの言葉だった。

ちょうど今日は母の死から一週間。先日の葬儀で導師から「行年九十九」(数え年)にちなんだ話があったばかり。奇しくも今日のホールの名前「白寿」も九十九歳を意味する。一つの結縁(けちえん)を感じてしまった。

ホール内、前方に座った方もハンカチを顔に当てていた。
ロビーに出てみたら、アンケート用紙にペンを走らせている人たちもいっぱい。

志のある、良い演奏会だった。

*ヴァイオリンの石原悠企さんが書いたプログラム・ノートによれば、この「偉大なる芸術家の思い出に」は後世のロシア人作曲家に大きな影響を与え、ピアノ三重奏曲を追悼音楽として作曲する伝統が確立された、という。そうした作曲家として、アレンスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチの名が挙げてあった。
探して聴いてみよう。


井手則雄「鳥」[2024年03月29日(Fri)]


鳥   井手則雄

風よささむけて鳴れ
この断崖を駈けおりるときに
しかもなお
心を痛ませるまばゆい黄昏
むらさきの額 雨の石廊 鞭の鳴る孤独

永いことだつたな西方への逃亡は
わしら亡命者が漸くに辿りついた
故郷の断崖で路は杜切れる
路は中空につづき天の肩にとどいているか

お前 鳥ならば そこをかけよ

見はるかす幻覚
色錆びた無為の夕もや
耕地に農夫の祈り痩せて
アンヂェラスは待てど響かず
帰りつく千尺の落盤の下に
潰れはてようとする屋根 屋根
この荒凉はいつおわるのか
更にもえるか怒りの太陽は

いまは断崖の勾配に映える
血ぬられた歌を残して
帰郷を祝う歌とてはなく
解放の時より前に鐘は鳴るまい

お前 鳥ならば 此処ををかけよ



木島始・編『列島詩人集』(土曜美術社出版販売、1997年)より。

◆詩人・彫刻家の井手則雄(1916-1986)は長崎県に生まれた。

1986年1月、滞在中であった福島県双葉郡富岡町小浜の海岸で不慮の事故のために死去したという。その縁でと思うが富岡町の図書館には井手の作品や寄贈図書による文庫があるそうだ。

以上は、下記サイトに拠った。
「井手則雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9929.html
(閲覧日 2024-03-29)
いわきアリオス(いわき芸術文化交流館)のブログの20年3月18日記事、特集「地域に根差す若き演劇人の芽」ー『うつほの襞/漂流の景』ツアーレポートー(「エンゲキ☆アリペ」第24号)
https://iwaki-alios.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=02279


◆この詩の「アンヂェラス(の鐘)」「千尺の落盤」「怒りの太陽」は、ナガサキの頭上に炸裂した原爆を表しているだろう。
*アンジェラスの鐘……浦上天主堂の鐘。「アンジェラス」は聖母マリアの受胎告知を記念する祈りのこと。

◆一方、奇しくも、詩人ゆかりの福島県富岡町は、フクイチの原発過酷事故によって、町の面積の約7%にあたる460ヘクタールが帰還困難区域に指定されて来た。
この内、220haはこの2月に「特定帰還居住区域」と指定され、帰宅可能となったというが、帰宅の意向を示しているのは244世帯のうち、92世帯にとどまるという。まさに「帰郷を祝う歌とてはなく」の状況といわざるを得ない。  
NHK 福島NEWS WEB 2024/2/16記事〈 富岡町の帰還困難区域の一部「特定帰還居住区域」に認定〉

◆断崖が帰還を阻み、故郷への路は途切れているように見えても、あるいは朽ち果てようとする家々は絶望しか感じさせないとしても、怒りの太陽に身を投じることこそむしろ本懐、と言わんばかりに、帰心は鳥のごとく天翔けよと願う。



井手則雄「パレスチナへ」[2024年03月29日(Fri)]


パレスチナへ  井手則雄


太陽は衛星を
羊水に包んで
ゆるくぶらさがっている

砂漠の空は
黄色い硝煙に
霞んでいたが
道はまっすぐ刺さっていき
生誕は明日だ
もう引返せない

行手はパレスチナ
炎にただれ
どろどろと轟いて
道々に漂う死臭

不安な胎児が
ぼとりと砂に落ちるとき
ヨルダンの水は
其処を浸すか
ベイルートからも追われる
土地なき流離の民

武器を放すな 愛を離すな

ぼくは一枚の聖画
頑なに俯向いて
嬰児を抱くイコンを持っている
五〇年もここに掛かっていたろうか

そっと外すと
白い余白が
くっきり浮かぶ

イスラエルの馬鹿
生れるキリストは
また殺される


木島始・編『列島詩人集』(土曜美術社出版販売、1997年)に拠った。

井手則雄(1916-1986)は詩人・彫刻家。
詩誌『列島』には創刊号から関わり、詩、評論等を発表した。
彫刻では鉄を用いた作品が多い。

小西忠彦氏のブログ「鉄の詩」によれば、「パレスチナへ」は、1982年、ベイルートのパレスチナ難民キャンプにおいて、レバノンに侵攻したイスラエル軍が包囲する中、レバノン右派民兵がパレスチナ人を大量虐殺したサブラ・シャティーラ事件をふまえる。「ベイルートからも追われる」とはそのことを指す。
井手の第四詩集『白の夏』(詩学社、1983年)所載の詩。

小西忠彦ブログ〈鉄の詩〉「パレスチナへ」
http://ironpoem.seesaa.net/article/288531010.html

◆「武器を放すな 愛を離すな」は、「武器を抜き放つな 愛を身から離すな」の意味であろう。
「はなす」の漢字の使い分けに留意する必要がある。決して武力容認ではない。

◆嬰児が死ぬためにこの地上に生まれ落ちる、などということが、どうしてあり得るのか?





椎名麟三〈ときもなく/世界もなし〉[2024年03月27日(Wed)]


富姫のうた 3  椎名麟三


死んだ者は自由
何もえらばなくてもいいもの
ときもなく
世界もなし
風に舞う木の葉のように
ただ虚空にただよう


戯曲姫山物語――二幕七場」より
木島始・編『列島詩人集』(土曜美術社出版販売、1997年)に拠った。


◆上の詩に徴すれば、生きている限りは「えらぶ」ことがつきまとう。何を食べるか、どんな仕事に就くか、どこに住み、誰を人生のパートナーとして選ぶか……。

悩み抜いて生きることが面倒になることさえある。
だが、逆に言えば、悩むことは生きている証拠、とも言える。

◆であるなら、「えらぶ自由」が奪われることは死を押しつけられるに等しい。

詩中「ときもなく」とある。しばしば歴史修正主義者は権力者にとって不都合な真実を隠して、特定の歴史を押しつける。この場合は「とき」=歴史が殺される。それは、歴史の中に確かに生きていた人々もその存在を抹消されることだ。高崎市の県立公園「群馬の森」にあった朝鮮人追悼碑の撤去はそのような例の一つ。

ガザの南部に押し込められ、住む自由どころか、食べるものさえ奪われるのは、息をしてよい「世界もなし」の状態、つまり、死の宣告にほかならない。それをも「自由」と称するのは、殺す側の屁理屈に過ぎない。





帰路の山々[2024年03月27日(Wed)]

◆帰途、車を停めてもらい、ふるさとから見える山々を撮った――

DSC_0340.jpg

岩木山。左方には、かつて父や叔父が耕した田んぼが広がる。


DSCN7841-Y.JPG

小学校近くの橋を渡ったところから見る梵珠山


DSC_0350.jpg

同じ地点から遠望する八甲田連峰。



谷村新司「群青」[2024年03月26日(Tue)]


群青  谷村新司


空を染めてゆく この雪が静かに
海に積もりて 浪を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせ 貴方を 眠らせる
手折れば散る 薄紫の
野辺に咲きたる 一輪の
花に似て儚(はかな)きは人の命か
せめて海に散れ 想いが届かば
せめて海に咲け 心の冬薔薇(そうび)

老いた足どりで 想いを巡らせ
海に向いて 一人立たずめば
我より咲きに逝(い)く 不幸は許せど
残りて哀しみを 抱く身のつらさよ
君を背おい 歩いた日の
ぬくもり背中に 消えかけて
泣けと如く群青の海に降る雪
砂に腹這(はらば)いて 海の声を聞く
待っていておくれ もうすぐ還るよ

空を染めてゆく この雪が静かに
海に積もりて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせて 貴方を眠らせる

谷村新司「スーパーベスト」(Pax Musica PSCR-5308、1994年)より


◆谷村新司の「群青」は現代の挽歌だ。
これを母の葬儀で流してもらいたいと思っていたんだが……と、喪主である兄はいう。
CDで初めて聞かせてもらった。

◆母の通夜のあと、兄妹弟たちで明日の打ち合わせをしている間、妹の孫(母にとってはひ孫)がおもちゃで遊んでいるので思い出したのだろう、兄が同じ年頃だった時の記憶を語り出した。
未だ若かった母が、樽を運ぶリヤカーの後を泣きながら歩いていたという。
樽には女の人が入っていて動かない。やがてリヤカーはススキ野原へと入ってゆく。
――母の母親の野辺送りだったのだ。

この話は、知らなかった母親の姿を見いだすと同時に、幼年時代の兄の姿をもイメージさせる。当方は生まれたばかり、下の妹・弟は未だ存在しない。

◆そうした原風景を持つ兄と、弟妹たちが抱く母親像とは微妙に異なる部分があるようだ。
いわば、モデルを囲んで画学生たちがデッサンしているとき、対象となるモデルは一人なのに、学生たちの描き出す像は全く違ったものになる、というのと似通っているだろうか。


吉本隆明「崩壊期」[2024年03月24日(Sun)]


崩壊期  吉本隆明

遠いところに小さな回想がある
回想のなかに真昼の小さな風景がある
幼年が追ひかけていつた風景
もうすべての購
(あがな)ひうるものは購ひつくしわれらに崩壊ははじまろうとしてゐる
決定された方向にゆきつくしたわれらの愛と憎しみ
想外のことに見まはれることのない低落した生存
われらの影には自愛の痛手がつきまとつてゐる
何処へともなく歩み出してゐることで
無下な復讐もうけてゐる
外界から崩れかかってくる未来の風景と
われらのこころの支点をくつがへす回想のなかの風景と
けつきよくわれらはほそぼそとした路を
きわめて不興気にゆかうとしてゐる
われらは帰心を喪ひつくし
まるで鋼のようにくすんだ季節のなかをつきぬけて
まるでメカニズムのやうに
まるで揺動することなく
時をうちけそうとしてゐる
この歩みが抗ふことに似てうち克ちがたく苦痛であるのは
われらのうちと外とに崩壊の時が重なつてくるからだ



『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫、1992年)より

◆モスクワでのテロ事件にこの詩の最終行を重ね合わせずにいられない。
題名にもある《崩壊》が、我々の暮らす社会の内外に、繕いようのない形で陸続と起きる時代。
これでもかこれでもかと繰り返される悲劇。

◆「われら」――詩に限らず、現代の言葉として用いることのまれになった一語。
「われら」が存在することを見失わないこと、「われら」と認識する視座、「われら」として協働する意思――つまり「われ」を他者に開き、他者の視線や価値観をも取り込み研ぎ澄ます生き方、あきらめや撤退を乗り越えようとする、細いファイバーをよじり合わせ太い芯にするしぶとくしたたかな歩み――困難に立ち向かう、細々としていても確かに先へと通じている道とは、そこに見い出しうるものだろう。




母のロクハラ[2024年03月23日(Sat)]

◆母逝く。享年九十八。

繰り返し語る思い出の中に、「ロクハラ」という地名がよく出てきた。どこのロクハラかと思って聞くと、岩手県の「六原」という所らしい。地図を検索してみたら北上川の西岸にあたる(現在は岩手県胆沢郡金ケ崎町六原)。

昭和20年、国が一つの終末に近づく頃に、銃後の若い女性たちが集められ、合宿教練のような日々を過ごしたらしい。
北上川で顔を洗い、ランニングし、畑にズラリと育ったトウモロコシを見ては、ため息をついて思ったそうだ――家にいれば、思いっきり食べられるのになァ――。
そこで栽培されていたトウモロコシは軍馬の飼料だったとのこと。人間が食べてもおいしいのか分からないが、馬がうらやましいと思えるほど空腹を抱えた青春であったことは確かだ。(現在の地図では岩手県立農業大学校があったりするから当時から農場などがあったのだろう。)

◆大正15年生まれ。詩人で同年に生まれた人に茨木のり子がいる(学年では我が母の方が一つ上か)。そのせいで、茨木の「わたしが一番きれいだったとき」に歌われた意気の良さ、戦時中押し込めたものを一挙に解き放つ昂然とした気分を、青春時代の母に重ねるようにして読んで来た。

◆母の長兄は戦争最末期に赤紙が来て、1945(昭和20)年6月にフィリピン、マニラ市攻防戦で戦死している(ルソン島リザール州モンタルパンで没した旨、靖国神社の合祀記録で確認できた)。
遺骨はない。
最近母方の戸籍謄本を見る機会があった。
驚いたのは、長兄の妻(我が母にとっては義姉)の実家の長男も、45年5月に同じルソン島のクラーク地区で戦死していたことだ。
ともに長男である。一家の跡取りを失った二つの家族が戦後味わった困難は想像するに余りある。

◆出征する長兄を見送ろうと、義姉とともに弘前駅(陸軍第八師団があった)に駆けつけたものの、見つけることが叶わぬまま汽車は行ってしまった、という話も母は繰り返し語った。
やはり無念を抱えたままの戦後だったということだろう。

向こうの世界で、長兄を見つけることができていますように。
ほかの兄たちや、最も慕っていた姉にも再会して、末っ子(津軽のことばでは「ヨデコ」or自称としては縮めて「ヨデ」)として、いっぱいいっぱい可愛がられていますように。




吉野弘「雲と空と」[2024年03月22日(Fri)]


雲と空と  吉野弘


奔放な
しかし不安な生たちの
精いっぱいの試みのように
はげしく形を変え
押し合い ひしめきながら
流れる雲たち。

そのかたわらを
どこまでも
はてのない青さで
やさしく つきそってゆく
空。

空の
いつわりのやさしさ。

途方もない大虚無を
永遠のように粧う
空の
いつわりのやさしさ。


『幻・方法』(愛蔵版 日本図書センター、2006年)より


◆上の復刊詩集では、前回の「雲について」の次に載っている。内容的にも対を成すと言って良い。
併せて読むと、「雲について」の分かりにくかった詩句、たとえば結びの「青い空が大きく展(ひら)け/にがい永遠が華やいでいる。」がほぐれて、色が飛び出てくるように思える。

◆そうして、遁走し流れる〈雲〉〈子どもたち〉、そのかたわらや背後に居てやさしくつきそう〈空〉〈母〉を表していると読むことができる。

◆けれど、ここでまた謎に突き当たる。この詩の後半=第三・第四連だ。
やさしくつきそってゆくはずの〈空〉=〈母〉の、「途方もない大虚無を/永遠のように粧う」「いつわりのやさしさ」とは?

そのことを自分で考えなさい、というのか?
本当に「いつわり」なのか、自分で確かめなさい、と、〈雲〉=〈子ども〉に対して問い掛けているのか?





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