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『第5次東京都教育ビジョン案』パブリックコメント(3月1日〆切)[2024年02月29日(Thu)]

東京都教育委員会『第5次東京都教育ビジョン案』についてパブリックコメントを募集している。(3月1日締め切り。Webの下記入力フォームからだと同日23時59まで投稿可能だ。)

教育行政が若者をどこへ向かわせて行こうとしているのか、取り分け、「グロ−バル」「国際化」といったかけ声のもと、「人材」として社会に有用であることを求める大人の都合に巻きこまれることなく、個人の価値を最大限に尊重して成長を支えてくれる教育を求めることは、子育て世代ばかりでなく、誰にとっても重要なはず。

小学生以上なら誰でも意見を送ることは可能になっている。ぜひ声を届けよう!


***

【都教委告知】《御意見募集》「東京都教育ビジョン(第5次)(案)」について
https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/press/press_release/2024/release20240201_03.html

東京都教育ビジョン(第5次)(案)全体版
https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2024/02/01/documents/11_02.pdf


都教委Web送信フォーム
https://forms.office.com/r/SdDUkWG8jR?origin=lprLink


***

◆例えば、全体版の28頁〈高等学校における「江戸から東京へ」の活用推進〉が記されている。
これなど、〈削除〉を求めるべき項だ。2006年改正教育基本法に盛り込まれた「国を愛する態度」を養う狙いがある。しかし、これは国際的な視野を持ちグローバルに活躍する人間を育てるという大目標と相容れないだけでなく、ブレーキとして負の作用をもたらすことが危惧されるからである。

◆ブログ【パワー・トゥ・ザ・ピープル!!】の2024年2月28日記事に、教育ジャーナリスト・永野厚男氏の挙げる問題点および呼びかけが載っている。ぜひ参考にしてほしい。

https://blog.goo.ne.jp/people_03/e/481a4ab3c1f5af8d196b5f635e7c8639


ペンペングサ[2024年02月28日(Wed)]

DSCN7806.JPG

ペンペングサ。
その昔、屋外にあったポットン便所の柾葺きの屋根に、彼らがいっぱい生えていた。
占領され尽くす前に、その便所は取り壊された。
だが、簇生(そうせい)する彼らの姿は、毎年目にするのだから、侮れないと、幾つになっても思う。

DSCN7805.JPG




赤木祐子「乾きを乾かす」[2024年02月28日(Wed)]

◆岩手が記録的な大雪で難儀というに、関東はカラカラ陽気。
パサついた空気は国会の中まで(衆議院の政治倫理審査会の開催は延期という迷走)。

*******


乾きを乾かす   赤木祐子


時代が乾きを拡散する力が急速に高まっている
底無しの口をもつモンスターの呼気で
蜘蛛が虚空に張ったネットワークで
電波で伝播していく
でんぱででんぱして
でんぱででんぱして
でんぱででんぱして
ドライドライドライと音を立て
搔痒しながら次々に乾き崩れる人々
もともと人でしかなかったうえにもう人ではない
乾きを拡散するために微細な粒子になって散っていく

乾きは 私を覆う表皮をかさつかせる
乾きは 私の喉や気管をひりつかせる
乾きは 私の消化排泄をとどこおらせる
乾きは 私の虚しい作業の効率を下げる

高温で熱したら根絶できるかもしれない
乾きを燃やしたらきっと
黒い煙を盛大に出した後に
気持ちのいい真空になるだろう
そしてすべてが終息する
恍惚として終息にあこがれた私はきっと
自分のことを私だなんて
二度と名乗れなくなるけれど
しゃべることはもう
言葉にならないけれど
すべて気持ちいい
ひたひたの真実になるだろう



『Tillandsia チランジア』(港の人、2016年)より

◆第一連、「でんぱででんぱして」の2単語の同音が直列で続き、「デデンパ」というリズミが被さりながら繰り返すところが面白い。「でんでんむしむし」や「ドドンパ」も聞こえてきそうだ。
「ドライ」の3連発も「アインス・ツヴァイ・ドライ」(独語の1、2、3)を当然に連想させる。そのように音の連なりが聞こえて来ると、第一連の文字列が(縦書きの詩集原本では)ビブラフォンやマリンバの、パイプのように見えてくる。音板の下に並んだ共鳴用の管だ。

◆「乾き」は無論、人間の肉体も心も解体に向かわせるだけだ。
それぐらいだったら、滅びるのを苦しみながら待つのじゃなくて、いっそのこと「乾き」をひと思いに焼尽させたら、その先によみがえりがあるのではないか?
――言葉に依ることができないとするなら、例えば、悲鳴や叫び、さもなくばその反対、沈黙によって――。

最終行、「ひたひた」――やはり「海」「水」のイメージだ。




赤木祐子「人生を棄てるスケジュール」[2024年02月26日(Mon)]

◆ゴミ袋を切らした。市指定の、容量で5リットルから40リットル入りまで4サイズあるうち、いつも使う20リットル入りのやつだ。
台所の野菜クズ、やむなく10リットル入りの袋に入れた。
次の可燃ゴミは木曜日。”ひょっとしてこの10リットルのやつで保(も)つかも知れない”などと考えている。
そう思ったあとに、ゴミ袋に合わせて生きている気がしてきた。

◆数個残ったチョコレートを、今すぐ食べたいわけでは無いのに、雑紙出すのが明日だから、というそれだけの理由で食べ切って空き箱を解体していることがある。
封を切ったスパゲッティが出てきたので、今夜はナポリタンにしよう、ちょうど明日はプラごみの日でもあるし……などと考えていることも少なくない。
(ちなみにこの地域のプラごみ回収は水曜日。かさばるプラごみを一掃できるので、「♪明日は嬉しいプラごみ日〜」と「ひな祭り」のメロディで口ずさんでいるのが常である)。

*******


人生を棄てるスケジュール   赤木祐子


月曜日 燃やすごみを捨てる
火曜日 燃えないごみを捨てる
水曜日 容器包装プラスチックを捨てる
木曜日 紙資源と布資源を捨てる
金曜日 瓶と缶を捨てる
土曜日 仕事の責任を捨てる
日曜日 私的な計画を捨てる
捨てたアイデアはもう拾わない
こうやって毎日ごみを捨てる事を最優先に暮らしてきたのに
焼却炉が壊れたから燃やすごみを捨ててはいけないと、町が言うのだ
何も産まない、朽ち果てていく町だ
こういう町に選ばれ、こういう町を選んだ
月曜日をどうすればいい
燃やすごみをどうすればいい
月曜日のごみ捨てができない事で日常が崩れていく
月曜日
燃やすごみと不採用の企画を庭で燃やした
思想消防署が火消しに来た
目の前の海からポンプで汲んだ海水を放つ
かつて私が生まれ、かつて親の骨を撒いた海に
生ごみを捨て自分も生ごみとして入水するしかない
週の内たった一日、ごみが捨てられないために


『Tillandsia チランジア』(港の人、2016年)より
*詩集名の「チランジア」について、以下の注記があった――
熱帯に自生するパイナップル科の植物。木の枝、サボテン、岩石、時に電線などに着生し、生育するための土を必要としない。一般にエアプランツと呼ばれる。


◆一週間のうち、たった一日のごみ回収が途絶えるだけで、正確に刻んできた日常が成り立たなくなり、人生そのものも破綻する。

ゴミ回収のスケジュールも、時を重ねて代代(よよ)受け継いできたいとなみや、自由に駆動させて来たはずの我が精神も、お上から監視・管理されていて、勝手な振る舞いは許さないようにできあがっていたのだと思い知る。

あらゆる要・不要の分別(ぶんべつ&ふんべつ)が、実は自分の自由意志で行ってきたことではなかったのかも知れない。

営々と養い、築いてきたと思っていたものが、すべて始末をつけねばならない生ごみだとしたら……




高見順「黒板」[2024年02月25日(Sun)]

◆もう、仕事の夢など見ない。
――そう思えていたが、そうでもない。

明日が定期試験だというのに問題がまだ出来ていない、とか、試験範囲が終わってないゾ、と試験前最後の授業で気づいたとか、いずれにしろロクでもない夢は、さすがに減った。

代わりに文化祭や修学旅行の夢が増えた気がする。それも、シンドい場面はあまりなくて、準備・当日含め、ワイワイやっている夢が多い気がする。
お祭り、きらいじゃないのは誰かに似たのか、青春期に味わった楽しさゆえか。

時々いい考えが閃いて、どこかで活かしてみよう、などと考えている夢もあるものの、それらはたいて目覚めて直ぐに跡形もなく消えている。どなたも経験のあることだろう。

◆次の詩も夢の一場面のようだ。


黒板  高見順


病室の窓の
白いカーテンに
午後の陽がさして
教室のようだ
中学生の時分
私の好きだった若い英語教師が
黒板消しでチョークの字を
きれいに消して
リーダーを小脇に
午後の陽を肩さきに受けて
じゃ諸君と教室を出て行った
ちょうどあのように
私も人生を去りたい
すべてをさっと消して
じゃ諸君と言って



『死の淵より』(講談社、1964年)所収。
高橋順子・編『日本の現代詩101』(新書館、2007年)に拠った。


◆鮮やかな人生の幕引き――そうありたいと誰しも願う。現実はその逆で、ジタバタもがくのが普通の人間だろう。

病と闘う中から絹糸を紡ぎ出す蚕のように詩を綴った高見順(1907-1965)。

若い自分に晴朗な印象を刻み付けた青年教師。
フッと、光の粒のように日差しの中に姿を消したイメージは、繰り返し記憶から呼び出すうちに、ますます洗練されて醇乎なものになったようだ。

消し残しやチョークの粉を残さないのと同様に、見苦しいもの全くとどめることなく、この世界から消えたいという願い――鮮やかな手のしぐさと、忘れがたい一言だけを残して……。



もの言う自由――小熊秀雄「馬の胴体の中で考へてゐたい」[2024年02月24日(Sat)]

◆ロシアのウクライナ侵略から2年、新聞もTVも長期化必至の見通しを語らざるを得ぬまま、個々の市民の声をレポートすることに比重を移し始めた。

一方でガザの今を伝える粘り強さを失っている印象も受ける。
取材対象が限られるなら、いよいよ伝える側の共感力と共感力が試されてもいるわけだ。

◆日本で言論封じが横行した時代もそんな昔ではない。
下の小熊秀雄の詩は1940年に編まれたが、詩集『流民詩集』として実際に刊行できたのは戦後の1947年。詩人自身は1940年11月に病気で亡くなった。



馬の胴体の中で考へてゐたい   小熊秀雄


おゝ私のふるさとの馬よ
お前の傍のゆりかごの中で
私は言葉を覚えた
すべての村民と同じだけの言葉を
村をでてきて、私は詩人になつた
ところで言葉が、たくさん必要となつた
人民の言ひ現はせない
言葉をたくさん、たくさん知つて
人民の意志の代弁者たらんとした
のろのろとした戦車のやうな言葉から
すばらしい稲妻のやうな言葉まで
言葉の自由は私のものだ
誰の所有
(もの)でもない
突然大泥棒奴に、
――静かにしろ
声を立てるな――
と私は鼻先に短刀をつきつけられた、
かつてあのやうに強く語つた私が
勇敢と力とを失つて
しだいに沈黙勝にならうとしてゐる
私は生れながらの啞でなかつたのを
むしろ不幸に思ひだした
もう人間の姿も嫌になつた
ふるさとの馬よ
お前の胴体の中で
じつと考へこんでゐたくなつたよ
『自由』といふたつた二語も
満足にしやべらして貰へない位なら
凍つた夜、
馬よ、お前のやうに
鼻から白い呼吸を吐きに
わたしは寒い郷里にかへりたくなつたよ。


岩田宏『小熊秀雄詩集』(岩波文庫、1982年)より


◆消耗戦への苦悩ととるか、徹底抗戦の擬態ととるか。
ペン一本で人々の代弁者であり続けるためには、人間そのものを当てにしてはいられないという現実を生きる表現者。

犠牲者に花を手向けること、白紙一枚を手に抗議の沈黙を表現することも逮捕の対象となる強権のもとでも、その様子が世界中に流されることまでは防ぎようがない。

「馬の胴体の中」からでも、考え、見届けることはできるはず、と思う人間たちが居り、その無形のバトンを手渡されたと思う人間が存在する限りは。


ロシアのウクライナ侵攻2年[2024年02月23日(Fri)]

◆家の中でも吐く息が白い一日。
戦地と比べものにはならない温さとは言え。

*******


経帷子   野口米次郎


『君、経帷子
(きょうかたびら)を持つて来るには少し早やすぎるぢやないか。』
死は私の言葉に応じて、妙に微笑し、
『ほんの仮縫ひにですよ』と私に答へた。
『そこが余り緩
(ゆ)るすぎやせんかね、またここが固すぎる。
第一、僕はこの色が気に入らない。
何はさて置き、多少スタイルが無くてはね。』
彼は大きな笑を洩
(もら)して軽蔑(あざわら)ひ、
私にいつた、『御戯談
(ごじょうだん)ものですよ、
これはあなたの人生の着物を
一寸
(ちょっと)ひつくり返したのみぢやありませんか。』


高橋順子 編著『日本の現代詩101』(新書館、2007年)より


◆死神の狡猾・詭弁に籠絡されないためには、凍てや風に消えることのない希望の種火を身の内に絶やさぬこと。





まど・みちお「かがみ」[2024年02月22日(Thu)]



かがみ  まど・みちお


この地球のうえには
ほうぼうに置いてあります
海や
川や
湖水
(みずうみ)など
さまざまな美しいかがみが

それが そこに置いてある…
ということよりも相応
(ふさわ)しいことは
この世の中にないかのように

それは 私たち
生き物だけのためにでしょうか
山や

太陽や
星たちでさえ
じぶんの顔を見たくなることが
あるからではないでしょうか



谷川俊太郎・編『まど・みちお詩集』(岩波文庫、2017年)より

◆異様な暖気から一転して一ケタ台の気温に戻り、雨シトシトの肌寒い日がしばらく続く模様だ。

回覧板を隣家に駆け足で届けた帰り、手鏡くらいの水たまりが出来ていて思わず足を停めた。

頭の片隅に上の詩が揺曳していたのかも知れない。

ポツポツ落ちくる雨に乱されて、映るのはわがぼんやりした影のみ。
家の中の鏡すらめったに見ない習慣だけに、よけい貧相に思える。
誰がこんな所に鏡を……と、うらんだりはしないけど。




小澤征爾「音楽」=声=まど・みちお「木」[2024年02月21日(Wed)]


◆今朝(20242/21)の朝日新聞、鷲田清一が選んだ「折々のことば」は、小澤征爾だった。

音楽はまず声から出発するんだ。
全部の楽器は全部人間の声の代理なんだ。

小澤征爾・武満徹の共著『音楽』(新潮文庫、1984年)から

様々な楽器で織りなすオーケストラ音楽に限らないことだと思う。
ライヴで聴く体験が、録音とは異次元の感銘を与えるのも、上の事情が深く関わっているのだろう。

◆さて、上の「人間」「宇宙」と置き換えても話は通じる。
そのことを、次のような詩に表現する詩人もまた、宇宙の声の代理人だと諒解される。


 木   まど・みちお


木が そこに立っているのは
それは木が
空にかきつづけている
きょうの日記です

あの太陽にむかって
なん十年
なん百年
一日(じつ)一ときの休みなく
生きつづけている生命(いのち)のきょうの…

雨や
小鳥や
風たちがきて
一心に読むのを きくたびに
人は 気がつきます

この一つしかない 母の星
みどりの地球が
どんなに心のかぎり
そこで ほめたたえられているかに

人の心にも
しみじみ しみとおってくる
地球ことばなのに
宇宙ことばかもしれない
はるかな しらべで…


谷川俊太郎・編『まど・みちお詩集』(岩波文庫、2017年)より


◆大地に根を張った木が、太陽に向かってまいにち休むことなく書き続けている日記、それをじかに読むことのできる人間はそんなには居ないのかもしれない。
だが、そこにやってくる雨や鳥や風たちが木の日記を読んでくれるおかげで、人はその日記を同じように読むことができる。
言ってみれば、雨や鳥や風はオーケストラにおける楽員たちのような存在だ。

彼らを通して私たちは、木が宇宙に向けて毎日発信しているメッセージやつぶやき、喜びや悲しみの歌を聞くことができる。

◆しかしながら、日々TVで伝えられる、戦場の街々では、焼け焦げたであろう木たちの姿は探しても見当たらない。瓦礫の広がる地上で鳥の姿も見た記憶が無い。


*******


◆この「木」という詩には鹿谷美緒子や高嶋みどりが付曲している。
そのうち、鹿谷の作曲による合唱をYouTubeから……

秋田大学教育文化学部附属小の歌う「木」――作詞:まどみちお 作曲:鹿谷美緒子
(2017年10月28日「TBSこども音楽コンクール 東北大会」での合唱)
https://www.youtube.com/watch?v=fV16NT0Q4pM




まど・みちお「うつくしい ことば」[2024年02月20日(Tue)]


うつくしい ことば   まど・みちお


たのしそうに 口にしあっている
ーともだち
という うつくしい ことばを

ともだちで ないものには
しらんぷり しておこうよ
という いみにして…

しみじみ つぶやきあっている
ーにくしん
という しみじみした ことばを

あかの たにんなどは
ほっとこうよ
という いみにして…


谷川俊太郎・編『まど・みちお詩集』(岩波文庫、2017年)より


◆「ともだち」も「にくしん」も、〈そうでない者たち〉を蚊帳の外に置いたままにするというのが前提になっているのだろう。
したがって、彼らの間で交わされることばは、彼ら以外の人々にとって、開かれたことばではなく、触れようとすれば棘で傷つける鉄条網のように、しばしば排除や敵意をむき出しにする。
内輪の人々の親密さと反比例するみたいにして。

〈しらんぷり〉や〈ほっとく〉のが文字通りなら、害は少ないはずなのに、大人の世界や、国と国同士の場合は、鉄条網だけでは満足せず、それを通り越してミサイルやドローンを仕掛けてくるから始末に負えない。









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