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志樹逸馬「旅人」[2024年01月31日(Wed)]


旅人  志樹逸馬


きょうかたわらにいた人とあすは十里を離れ
きのうまで山ひとつ間にしていた人と夕べにはあう

わたしはなつかしくてならない
すべての人がいつも遠くて また近いような気がする

わたしは すべての人の中にわたしの分身を感じる
よんでも その分身がこたえてくれない時は
わたし自身がわたしにとって遠いものと思われてくる

わたしの分身
それは ふるさとであり 童心であり
平和であり さびしさである

わたしは未完成だから
また あなたの分身をわたしの中に感じるので
わたしは旅人として歩みを休めることができない


『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房、2020年)より


◆前回の詩「わたしの存在が」の詩句、〈すべてであってひとつであるもの〉に同じ感じ方がここにもある。

ここでは〈すべての人の中にわたしの分身を感じる〉という表現をとっている。

◆ハンセン病患者として初めは多磨全生園(東京)、その後は長島愛生園(岡山)で生涯を送った詩人にとって、出会いも別れも自分が居るこの場所で経験することのはずなのに、心は何と融通無碍に呼吸し、はるか遠くまで遊んでいることか。

現実に相逢うた人だけではない。本の中で出会った人々も同様にわが分身として、わたしの中に生き続け、かつそのわたし自身が、遠近(おちこち)の空に旅人として在る。

遍満するイメージをかたちにしてゆく、永遠に未完の旅である。




志樹逸馬「わたしの存在が」[2024年01月30日(Tue)]


わたしの存在が  志樹逸馬


わたしの存在が いかに小さくとも
すべてであってひとつであるもののために ムダでなかったとの証言を
人類の歴史に刻まれてゆく という約束を
ただ このわたしを忠実に見守ることで しめしたい


『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房、2020年)より


◆木彫りの小さな像かなにかを目の前にして、純一に祈っているような一篇。

「すべてであってひとつであるもの」とは、「わたし」が生きているこの世界を指している。
生を享けた以上、この世界に背を向けたり、没交渉に過ごしたりすることはできない。

けれど、たかが自分一人、何をこの世界に付け加えることができるだろう――そう思うことしばしばだ。
だが、この世界は私にとって「すべてであってひとつ」のかけがえのない世界だと思われるのも実に確かなことだ。そう思えるわけは、自分がそこに存在すること以外にない。
ならば、世界も、そこに存在する「わたし」も、ともにかけがえのないことは同じだ。
人を踏みつけたり、傷つけたりしてはならない理由もそこから来る。
人の痛みを我が事として受けとめるのもまた同じ理由による。

であるから、「わたし」がたといつらく苦しい状態に陥っても、受けとめてくれる誰かが必ず存在すると信じていい。
その前提に立てば、「わたし」のなすべきことは「わたし」自身を「忠実に見守ること」に収斂する。








志樹逸馬「夜に」[2024年01月29日(Mon)]


夜に  志樹逸馬


おまえは
夜が暗いという
世界が闇
(やみ)だという

そこが
光の影に位置していることを知らないのか

じっと目をつむってごらん
風が どこから吹いてくるか
暖いささやきがきこえるだろう

それは
いまもこの地球の裏側で燃えている
太陽のことばだよ

おまえが永遠に眠ってしまっても
新しい光の中で
おまえのこどもは 次々に生まれ
輝いている 変らない世界に住むのだよ


『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房、2020年)より

◆「おまえ」とは、自分の中の半分を占める夜の世界を指すのだろう。
その意味で自問自答であり、苦悩を対象化して見据えようとする試みである。

そのために必要なものは、「ことば」、それも闇の中で冷たく沈んだことばではなく、地球の反対側で燃えているはずの「太陽のことば」だ。
熱を帯び、その熱で生まれた風に乗って、夜の世界にすら届いてくる光のことばだ。

夜は必ず明ける。としても、永遠の眠りに就いたら、そこまで耳にし、書きとめたことばも無意味になってしまうのでは?

個体の死に限って言えばその通り。
だが、光のことばが死んでしまうことは、ない。
それどころか、次々と新しい命を揺り起こし、彼らを輝かせてゆく。


志樹逸馬「燈」[2024年01月28日(Sun)]


燈   志樹逸馬 


地上
どこにも
特別に大きなローソクというものはない

だのに
かの燈(ひ)を見よという
各自が同じ生命をもちながら
燃やさないで周囲を暗くしていることをこそ
悲しむべきだ


『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房、2020年)より


◆「燈」が私たちの外にある、という思い込みを捨てられない我々。
一人ひとりが実はローソクであるのに、それを点すことを知らないために、世の中が救いがたく闇に覆われていると嘆くばかりで時を空費する。

◆まさか、自らが小さくともローソクの役を果たすことを惜しんでいるのだとは思いたくないが。たぶん、この小さなローソクは、生きて在る限り足下を照らし続ける。時々風や、自らのため息で危うげに揺らぐことはあっても決して消えることはない。

そのうえ、もっと大切なことは、自分一個がようよう燃え尽きるかと思えるその時に、その火種を受け継いでともる、新たなローソクが必ず現れるに違いない、ということだ。




志樹逸馬「冬の海」[2024年01月27日(Sat)]


冬の海   志樹逸馬


冬の海
凍えもせずに吼(ほ)えている
昨日も
今日も
春風に吹きさらされて

光る海
刃のような 冷たさがまぶしい
かなしみも
汚れも 砕いて
海底にしずめて

冬の海
生きているから
吼えている


『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房、2020年)より

◆久しぶりにこの詩集をひらいた。
編者は若松英輔の詩集と同じ亜紀書房から出ていて、表紙の紙質など手にした感じも同じ雰囲気を備えるが、似通いつつも独得の手応えが伝わって来る。たけなみゆうこによる装丁の手柄だろう。

◆「凍えもせず」、「かなしみも/汚れも 砕いて/海底にしずめて」「吼えて
いる」――それは「生きているから」だという。

海の恐ろしさも、圧倒的な力も、「生きている」ことから生まれている。
とするなら、遠い昔にそこから発生し、陸に上がった生きものたち(人間という鬼っ子も含めて)もまた、その何分の一かを分有していると言えるのではないか?――そうでなければ、海を見て呼び覚まされたものが自分の中に流れている、という感覚に襲われるはずがない。

◆「吼える」とは「獅子吼」という語があるとおり、生きものが、怒り吼えたけることだ。
とするなら、怒りを忘れたものは半ば死につつあるのかも知れない。
そうして「凍え」、光の届かぬ深い海の底に沈んだまま、永久に口をつぐんでしまうものたちになるのかも知れない。そうであっていいのか?――良いはずはない。







石村利勝「前兆(まへぶれ)」[2024年01月27日(Sat)]

まへぶれ
前兆  石村利勝


ちいさな〈風〉 僕の部屋にやつて來た
(こどものやうに やはらかい)まだ暗いうちから
或る予感を連れて そして
そして 僕は ただ怯えてゐた 夜明けをおそれた……

 やがて 小鳥らの 声もきこえて
 僕は ますます 夜明けをおそれた!
《ちいさな風には やさしい匂ひ
 やがて萌えだす 春のみどりの》

遠い空では 死が靜かに爭つてゐる
 あどけない だれかの声もきこえる……
或る予感 僕は夜明けをおそれた――

朝の光が 窓を冷たく濡らすと
僕はいとしいひとをさがしたが
それは何處にも ゐなかつた。


『ソナタ/ソナチネ』(幻冬舎、2021年)


◆1968年生まれの詩人。上記詩集は、旧仮名遣いを用い、漢字も、第三連の「靜」と「爭」のように一部旧字体を使っている。ただし、すべてその方針という訳ではないらしく、ここの場合で言うと、二つの漢字のつくりが共通していることに読者の注意を促しているのだろうと思える。そうしてそれは「靜」かな「爭」い、という矛盾し合う意味を強引に揺り起こしながら、しかもそれがいかにも自然なイメージとして収まるように感じさせる効果がある。

◆この「前兆(まへぶれ)」という詩は、実は詩集の一番最後に置かれている。
詩集の巻頭は、これと首尾相即させるように「前夜」という詩が置かれ、それには〈四月〉という語や〈天狼を軀る〉〈少年〉の姿も描かれている。つまり、詩集は春四月から始まり一年をゆっくりたどって結びの「前兆」という詩に至る。だが、〈少年〉は成長することにむしろ怯え、頑是ない嬰児に退行することを願っているかのようである。

◆そのように詩たちが配されたこの詩集を、終わりの方から読むみ味わうのはよこしまなやり方かも知れないが、作者にはご寛恕を請う。

*もうひとつ、この詩集の特色をいうと、旧仮名遣いや旧字にふさわしい書体を使って戦前の詩集のような頁組みにしている。あたかも復刻本を繙いているような。
 


寒中だが[2024年01月25日(Thu)]

しっかり晴れて風はないが、寒い。
2年ぶりの歯医者通いで、人間の方は歯の根も合わない体たらくだが、花の方は咲く気満々だ。

DSC_0236.jpg
善行坂わきの公園

DSC_0237.jpg

近くで見ると、ややしどけない。

ジャレル「プロシャの森の収容所」[2024年01月24日(Wed)]


プロシャの森の収容所  ジャレル
                    木霊惇・訳

私は、囚人達の傍を、道路へ向って歩く。
膨んだ、主の上の主。
彼らの屍体は、ふやけた木材のように、積み重ねられ、
嘘は、血で暴かれ、むき剝がれた。黒焦げの兵舎の横で。

今日、その古い道を、
彼らの歯から、充たされたものをノックするために、
やって来る者は、誰もいない。

暗い松果(まつかさ)の、風情のない花環が、
墓標のために編まれ、――悲嘆
そして、もしできることなら、植えつけたその有益な松の木に、
生き生きとした葉をはりつけよう。

お辞儀の合図。この死者の列から、
続いている緑の上の哩(マイル)、静かな、息づいている哩。
その人々を管理した、合図者達、
……一年というもの、彼らは、百万人をここに送り出したのだ。

ここで、人々は、水のように飲まれた、材木のように燃やされた。
放恣な善と悪、胸の希望の星は、
石鹸の泡に化し去った。

黄色い松を、鋸で挽いてこしらえた、
その星に、私は、色を塗りつける。
そして、どんなユダヤ人でも、常に拒否しない、
土壌に、その標識を樹(た)てる。

それは、その人々の最初の安息地。しかし、
白い、矮小なその星、この死んだ星は、
何物も隠さない。償われる何物もありゃしない。
煙は、それをきたなくする、黄色い悪戯をして。

花環の針は、灰で識(しる)される。
汚れた小枝やぼろは、人々の死とともに、黒い材木の寝床を敷く。

そして、最後の息吹が、
巨大な、怪物のような煙突から湧きおこる。
……私は、笑う。幾度も、また幾度も、
星は、笑う。その腐った屍肉の白い覆布の中から、
おお、星の人々よ!



篠田一士・監修『ポケット 世界の名詩』(新装版。平凡社、1996年)より。

ジャレルRandall Jarrell 1914−65)はアメリカの詩人。

◆ユダヤ人に対するナチスによるホロコーストの詩だ。
このような巨悪が、21世紀に、相手を変えて再び行われようとは思いもしなかった。
巨悪があまりに公然と行われると、我々の中で確実にマヒし、腐ってゆくものがある。

最終連「星は、笑う。」とあるが、これは歪んだ「笑い」でしかあるまい。
むしろ、焼かれて反り返る肉体(であったもの)、ついには焼け焦げて翻りながら灰のように煙突から昇ってゆく肉体(であったもの)、理解することを拒むその動きを表現したもの、と言って良いかもしれない。

◆第五連にある「石鹸」、それは人間の脂でつくられたものだ。
その石鹸の実物を見たことがある。
ホロコースト展。ダビデの星を縫い付けた縦縞の囚人服や夥しい靴、歯から集められ溶かした金、おびただしい毛髪の山などとともに、それは展示されてあった。

また、だいぶ以前の横浜トリエンナーレ、すなわち美術展では、同様に人間の脂肪から作られたという巨大な蝋燭のような柱が出展されていた。無論、上述の「石鹸」を連想させずにはいない。
人間性を完全に否定する蛮行に対する異議申し立てのメッセージは、一見平和に見える都市でのアート展にあっては、衝撃と言うほかなかった。




覚和歌子「アプローズ」[2024年01月23日(Tue)]


◆他者を否定することを生きがいとしているような人がネット空間だけでなく、街角にも出現しているらしい昨今、久しぶりに乗る電車の中でも、そうしたトゲトゲしさに耐えている人たちが少なくないように感じる。

そんなときは、ネットで演奏家の動画を観る。
視聴者のコメントは、日本語であれ英語などであれ、賞賛の言葉ばかりが並んでいる。
いい演奏への鳴り止まぬ拍手は、賞賛だけでなく、深い感謝もこめられているのだと実感する。

クサすよりほめちぎることばに出会った夜は、幸せに眠れるものだ。


◆次に掲げる詩には、そのような賞賛の拍手=アプローズが響きたわっている。

「おみごと!」とたたえたいときばかりではない。不運に見舞われる時もしょっちゅうある。
けれど、人生を呪いたくなる、そういう時にこそ、拍手する力がこの手に残っているか、試してみるとよい。

全く気持ちがそぐわなくたって、拍手続けていれば顔は上がる、見えてくるものが違ってくる。
苦を楽に転じる力がまだわが身のうちに残っていたしるしだ。

そんな風に楽天的に考えられる間は、まだまだ捨てたもんじゃない、生きるってことは。



アプローズ  覚和歌子


毎日の晩ごはんのごちそうに 拍手
食うや食わずの暮らしは ごはんとおしんこだけでもおいしくて 拍手

道端の犬のうんこに よくまあこんなに出たもんだと 拍手
それをデートのときしかも 新しい革靴で踏んづけて
めったにできない経験だから 拍手

生まれてくる あかんぼうに 拍手
生まれてすぐ死んだ弟に
わざわざ苦労しなくってすんでよかったと 拍手

九十で死んだおじいちゃんに
こんな世の中に九十年もよく生きたと 拍手

大天才の芸術作品に おおブラボーと 拍手
迷いの尽きない芸術家には 長い旅の楽しみに 拍手

できたお方だと 拍手
みえっぱりの 見得を切る男気に 拍手
ぐちのこぼしやには 見栄をはらない素直さに拍手

ぴちぴちと健康な身体に 拍手
抱え込んだ病気には 乗り越えられる力を試されていて 拍手
不治の病には たった今生きているという そのことの眩しさに 拍手

善人は そのまんまで救われて 拍手
悪人は その罪深さのせいで なおのこと救われる余地があって 拍手

垣根に咲いた赤い寒椿の その赤さに 拍手
枯れ落ちた赤い寒椿から 地面にその種がこぼれて 拍手



『覚和歌子詩集』(ハルキ文庫、2023年)より



覚和歌子「このたたかいが終わったら」[2024年01月22日(Mon)]


◆昨日の覚和歌子「このたたかいがなかったら」には、対を成す詩がある(文庫版詩集では続けて載せてある)。



このたたかいが終わったら  覚和歌子

このたたかいが終わったら
友だちをさそっておむすび持って
町でいちばん高い山にのぼろう
はればれと見下ろす
生まれたばかりの町の
とどろく産声を聞こう
おしまいまでやりとげた充実で
胸をいっぱいにしよう

このたたかいが終わったら
黙って誇ることにしよう
まだだれも見ぬ地平線を描くという
難しいほうの道を選んだこと
失ったものより残されたものに
こころをそそぐと決めたこと
あえぎながら歩いても
小さな花を見のがさず
ありがとうねと声をかけたこと

小さな吐息で遠のくほどに
見失いやすい夢
知らない道の
草を分け入った先で
まだ負けていない自分に
会えますように

このたたかいが終わったら
大きな声でうたおう
消えいる心を支えてくれた歌
それよりもっと大きな声で
これでもかと泣こう
胸をしばっていたかなしみを空に放して
今度こそ夢も見ないでぐっすりと眠ろう


『覚和歌子詩集』(ハルキ文庫、2023年)より


◆この詩の勇者は小さな花にありがとうと声をかけ、残されたものを大切にいとおしむ優しさの持ち主だ。彼が選んだ道は〈まだだれも見ぬ地平線を描く〉。
それは言い換えれば、線を引かないことに等しい。
敵を打ち負かし、英雄気取りで「国境線を描く」などという、しみったれたことはしない。
誰かを追い出したり、殲滅して陣地を広げ領土を拡大すことなどではない。
にんげんたちが争いなく暮らせる空間が無辺際に広がっていて、実際そこで生きてゆける地上にすること――それが彼の選んだ道である。

◆そうした「たたかい」のコツは――第3連に書いてある。
「まだ負けていない自分」に会うこと=「負けていない」状態を続けることこそが、このたたかいの要諦だというのだ。
とすれば、このたたかいが、相手を打ちのめし敗者に仕立て上げることから限りなく遠いことは明らかだろう。一方が勝者で他方は敗者であるような、そんな結果は、この「勇者」が最も斥けたいもののはずだ。

とすれば、この「たたかい」は戦争に非ず、壊れることの決してない平和の砦を心の中に築く「たたかい」をこそ意味しよう。



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