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木島始「のはらのかたすみで」[2023年11月21日(Tue)]

◆「天井のない監獄」の中にも病院はあり、学校もある。
何より、人々の暮らす家があり、愛する家族がある。

それらのすべてを「あった」と言わねばならない事態。
攻め込んだ側の「証拠」と称する映像が、留保付きで流される。
それを検証する手立ての失われた報道では、目を凝らしたところで真実は見えない。
そもそも「ほんとうのこと」を問うこと自体、意味をなさなくなっている。

ここでは、「にんげん」であることは許されていない。

ならば、「にんげん」であることをやめて、
下のように、つかの間の夢を見る自由を。

それすら許されないと言うのだろうか。



のはらのかたすみで  木島始


すみか
うごかないくさのはな
すみか
とばされるままのふうせん
すみか
みせようとしないちょうちょ
かぜに
あいさつされて
そろって
おじぎした


日本現代詩文庫『[新]木島始詩集』(土曜美術社出版販売、2000年)より




高橋順子「未知のわたし」[2023年11月19日(Sun)]


未知のわたし  高橋順子


自分のいるところが
自分からいちばん近いところだけれど
いちばん遠いところでもあるというのは事実である
地球一周航海でわたしは実感した
西へ西へと進んだ果てにわたしは元の港に帰り着いた
わたしもわたしからいちばん近いヒトであると同時に
いちばん遠いヒトなのではあるまいか
未知のわたしがいるから
まだ生きてゆける


『さくら さくらん』(deco、2019年)より


◆この詩のデンでゆけば、他人についてだって、地球上で最も遠いところにいる人が、実は最も近い存在であるということも言えるだろう。

ガザと日本との時差は7時間。
ウクライナとの時差も同じ7時間。
ひと眠りする程度の時間じゃないか。


はるか遠い土地のこと、と思って、いったい何ができるだろう、などと考えあぐねてしまうのは、きっとそう決め込んでいるだけなのだろう。

未知のことに踏み込まれるのが怖いのかもしれない。
元の港にちゃんと帰らなくても構うまい。

深呼吸したら、できることの一つ二つ浮かぶ気がする。




長田弘「この世の初めから」[2023年11月18日(Sat)]

◆ガザのシファ病院の深刻な事態の一端が報じられた。
未熟児たちやICUにいる患者たちの命が次々となすすべもなく奪われてゆく。

【CNN 2023/11/18】
集中治療室の患者の大半死去、イスラエル軍突入のガザ最大の病院
https://www.cnn.co.jp/world/35211721.html


◆危惧されていたことだが、予測をはるかに超える虐殺が行われているのを、遠巻きに座視するほかない世界。
見守る誰もが、吞み込んだ鉛のようなものが膨れ上がって喉を塞ぐのではないかとすら思う。

それでも、鉛の錘のおかげで、われわれのたましいがフワフワ飛んで行ってしまわずにすんでいるのなら、まだましなほうだ。

*******



この世の初めから  長田弘


何もなかった。大地も、
冷たい波も、砂もなかった。
奈落の淵があるばかりだった。
草も生えていず、ひとは、
息もしていず、心ももたず、
いのちの温かさも、すがたも、影ももっていなかった。
最初にはじまったのが戦いだった。
戦いは運命を、運命は人生を、
人の子らにあたえたが、幸福は
あたえなかった。神々は、
むごい予言しかのこさなかったのだ。
生まれくるものは、たがいに
戦いあい、ひとの子らは
殺しあうだろう。狼は走りだし、
翼ある蛇は、死者たちを翼にのせて、
空の下、野の上を飛ぶだろう。
(ほこ)の時代、剣の時代がつづくだろう。
それから風の時代がきて、
苦悩の時代がはじまるだろう。
どう祈るか、知っているか。
どう供えるか、知っているか。
どう生贄
(いけにえ)を捧げるか、知っているか。
どう語るか、歴史の語り方を知っているか。
誰が、わたしたちのことばを、
世を騙
(かた)るための道具にしたのか。
黙って、樫
(かし)の薪を積むのだ。
悲しみではちきれそうな胸が、
火で焼かれるように、
心の憂いがとけるように。



『幸いなるかな本を読む人』(毎日新聞社、2008年)所収。
『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年)に拠った。



長田弘「意味と無意味」[2023年11月17日(Fri)]


意味と無意味   長田弘


うつくしいものはみにくい
慕わしいものは疎ましい
真剣なものはふざけたものだ
確かなものあるべきものはない
何でもあるしかし何もない
必要なものは不必要なものだ

くだらないものはすばらしい
すばらしいものはくだらない
もっとも賢いものはもっとも愚かなものだ
どんな出鱈目もけっして出鱈目ではない
本当でないことこそ本当のことだ
必要なものは不必要なものだ

正しさは間違いだ間違いが正しい
間違いをおかさぬものは誤たない
誤たぬものは悲しまない悲しまないものは
笑わない笑わないものは笑うものを憎む
憎むものは憎むことを憎むことができない
必要なものは不必要なものだ

意味に意味はない何も語らないために
語り何もまなばないためにまなぶ
読むとは読まないこと聴くとは
聴かないこと知っているとは
何一つ知らないということだ
必要なものは不必要なものだ

われわれ自身をわれわれは信じていない
われわれが得たもの得るだろうものは
すべて失ったもの失うだろうものだ
あなたは誰? ではない問わるべきは
誰があなたなのか? ということだ
必要なものは不必要なものだ

結ぶ言葉はない初めからなかった
大きな松の木の枝の一つずつに
百羽のカラスが飛んできて
百の黒い影をつくった
青空にほかならない
無 のなかに


『一日の終わりの詩集』(みすず書房、2000年)所収。
『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年)に拠った。



◆同じものを見ていても、見る人間が別であれば違って見える、と言っているように読める。
立場を入れ替えれば、ものごとが全く異なる相貌で見えてくることはよくある話だからだ。
だから、相手の立場に立て、と「人の道」をタタキ売りしているわけではない。

あるいは、俯瞰の視点を持て、というのでもない。突き詰めればそんなことは誰にもできないのだから。

◆そんなフヤケた相対主義では、2023年のいま、この詩を読む意味がないだろう。
(意味を求めること自体、ここでは否定されているのだが。)

同じ地上に生きているのに、それぞれが見ているもの、体験しているものは、まったく正反対であるという不条理に、あなたはどこまで堪えられるか?――そう問われているように思う。

◆詩は〈必要なものは不必要なものだ〉と繰り返す。
例えば、これを、高く築かれた「壁」のことだ、と読んでみる。
相手を排除するために一方には必要と思われたものが、壁の中の人々には不必要なものでしかない。不必要なだけでなく、憎悪をかきたてるものとして目の前にある。

それは壁を必要としたものたちにも同じ効果をもたらす。
壁が安心をもたらすのでなく、見えないゆえにむしろ不安を増大させる。

であれば〈必要なものは不必要なものだ〉というリフレインは、(頭に上った血を冷ませ)と呼び掛けているのだろう。
にもかかわらず空爆し、砲撃することをやめない。

なぜか?
――〈憎むものは憎むことを憎むことができない〉という逆説に陥っているから、と言うべきか。
敵対するもの同士、まさにこの状態にはまりこみ、行き止まりから抜け出せずにいるように思える。

〈われわれが得たもの得るだろうもの〉
〈すべて失ったもの失うだろうもの〉と等号で結び、さらにもう一つの等号で〈いのち〉と明示すれば、それに続く問いかけ〈誰があなたなのか?〉という転倒させた問いは、次のように言い換えることができるだろう――

〈誰が《死すべき》あなたなのか?〉

こう問いを発せられてたじろがぬものが果たしているだろうか?
寸刻ののちに《死すべき》は、《あなた》であり、《わたし》である、と喉元に突き付けられているのだから。



長田弘「空と土のあいだで」[2023年11月16日(Thu)]

◆「天井のない監獄」と呼ばれて来たガザにもわずかながら街路樹があった。
イスラエル軍侵攻前にネットにアップされた画像の中だが。

現在は……手のつけようのない灰色の瓦礫ばかりがどこまでも続く。

それが「かつて」となり「ずいぶん前」となり、さらに「むかし」と言える日が果たして来るだろうか?

その日のためにできること――

たとえば、次のような詩を、小さくとも消えることの決してない炎として、私たちの心の中にあかあかと灯すこと。
一本の木が枝を伸ばし、葉を茂らせ、その根方に憩う日々が続く――
その夢想を現実のものにするために、できることを一つ、いま、探すこと。



空と土のあいだで  長田弘


どこまでも根は下りてゆく。どこまでも
枝々は上ってゆく。どこまでも根は
土を摑もうとする。どこまでも
枝々は、空を摑もうとする。
おそろしくなるくらい
大きな樹だ。見上げると、
つむじ風のようにくるくる廻って、
日の光が静かに落ちてきた。
影が地に滲むようにひろがった。
なぜそこにじっとしている?
なぜ自由に旅しようとしない?
白い雲が、黒い樹に言った。
三百年、わたしはここに立っている。
そうやって、わたしは時間を旅してきた。
黒い樹がようやく答えたとき、
雲は去って、もうどこにもいなかった。
巡る年とともに、大きな樹は、
節くれ、さらばえ、老いていった。
やがて来る死が、根にからみついた。
だが、樹の枝々は、新しい芽をはぐくんだ。
自由とは、どこかへ立ち去ることではない。
考えぶかくここに生きることが、自由だ。
樹のように、空と土のあいだで。

詩集『人はかつて樹だった』(みすず書房、2006年)より。
『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年)に拠った。
 

パティ・スミス「わたしたちのたわごとは……」[2023年11月15日(Wed)]

◆イスラエル軍が侵入したガザのシファ病院、電気が途絶えた保育器から出されて並んだ新生児たちの姿に声を失う。泣き叫ぶ子、泣き声をあげる元気すら失った子、痩せこけたからだ、頭部に傷を負い、右目から上が大きく腫れ上がった赤ん坊……。

******

◆パティ・スミスの詩「わたしたちのたわごと(ジャーゴン)は太鼓の音をこもらせる」
次のように、太鼓の音と子供たちの姿から始まる。


行進する子供たち人間性のスクラップ血が奔流するストリートで太鼓をたたきながらモラルの高い地に生き埋めにされ……


以下、日本語訳で74行にわたって句読点を一切使わず噴出することばが、ストリートの子供、二人、十人、いや、数万におよぶ子供、放射性降下物、胎児、幹細胞、弾薬や世上喧伝されるスキャンダル、凶悪事件、スターから大統領に至るまで、コマ送りのニュース映画のように次々と映し出す。
その中には次のようなシーンもある――


……赤ん坊たちがくるまれたまま山となって捨ておかれる間に靄にかすんだストリートでやつれゆく赤ん坊たち離してもらえるわけでも祝福を受けるわけでもなくそして子供たちは両手を差し出してやってくるわたしたちは彼らに棘のある改心物質的儀礼非愛国的行為を復讐報復の罠にかけようと詰め込みそれでも彼らの純粋な手のひらに見合うお返しにとつみ取られるのを待っている高貴な花がなにも持たなくてもそれ自身は太陽に向かって面を上げ透明なミルクを浴びて流れくる輝きを飲むそして子供たちは名もなきストリートを疾走するブルーモスクのヴェールに包まれたストリートを歓喜に酔いしれる忌々しいストリートを……


大人たちは支えにならない。汚辱される海山、虐げられ壊される子供たち自身のあらがい……


……わたしたちは絶滅の身ぶりをしながら虚栄心をまき散らし子供たちは自然を口にして小さな苦悩そして魚は砂漠で悶え海はもはや輝く海でなく山は事物の終わりをなぞる小さな指を突き立てながら破壊されるだろうそして子供たちは血の太鼓をたたき行進している未来の頬に折り曲げて詰め込むヤグルマソウを差し出す幽霊といっしょに小さなこぶしは汝守護者に注意を喚起する誰も最初の者となることなく誰も最後の者となることなく誰が愚行で空がピンクに染まったら太陽を迎えるのか誰が子供たちをゲームから救うべく残るのか……



ここに果たして「希望」のかけらでもあるのか?
……ないなら作るしかあるまい、ことばによって――

上に続けて、詩は結びへと向かう――


そして彼らは大地のパンとなり彼らの日の聖者のモニュメントを建立しすべてのヴェールを脱ぎ捨てすべての旗を広げ棺桶型のバスケットの中に裸のまま見捨てられていた彼らを見つけて抱き上げて沐浴させ彼女の愛に満ちた美しい衣服を着せてくれた母親を大歓迎し信頼に根ざした青い暁の衣装を着て博愛をふりまくとともに希望に浸らせてくれた彼女を覚えているだろうわたしたちの世界を再建しながら。


*パティ・スミス詩集『無垢の予兆』p.111〜116より抄録(東玲子・訳、アップリンク/河出書房新社、2012年)






パティ・スミス「イラクの鳥」より[2023年11月14日(Tue)]


脈打つイメージと
ループするメロディ
母親の泣き叫ぶ声
わたしたちの子供じみたゲーム。
ちょっとの平和ももらえないの?
ちょっとの平和ももらえないの?
ちょっとの氷ももらえないの?


パティ・スミス「イラクの鳥」より

『無垢の予兆』p.64(東玲子・訳、アップリンク/河出書房新社、2012年)によった。

◆2003年3月20日、アメリカによるイラク空爆が始まった朝、パティ・スミスは窓の外で鳴く鳥を耳にし、バグダッドの鳥たちも爆撃を受けながら鳴いただろうかと考えた。
後に、あるジャーナリストから、その朝バグダッドでは、鳥たちはまるでこれから起こることを知っていたかのように静まり返っていたという話を聞かされて、この詩が生まれたという(詩集の訳者・東玲子の解説による)。

*原詩は270行以上に及ぶ。
イメージが入り乱れて明滅し、時間が反転したり跛行したりする詩行の中から、ごく一部を引いた。

◆散乱する物たち、傷ついた者たちが次々登場しては他のものたちに入れ替わる。
それは粉々に砕けた鏡の破片に映る静かな過去の映像であるようだ。

それらは描写ではない。
次のような一節も、描写ではない。
進行中の事態の内側に当事者として立とうと願う者の想像力が引き寄せた言葉たちだ。

〈爆弾が果物のように降ってくる。〉

〈終わりはない終わりはない。〉





パティ・スミス「原野」[2023年11月13日(Mon)]


原野  パティ・スミス
            東玲子・訳


動物も人間が泣くような声を上げるだろうか
彼らの愛する者がふらつき
青い静脈の川に
撃たれて引きずり下ろされた時

女はむせび泣くだろうか
苦しむ狼のまねをして
百合はらっぱを吹くだろうか子犬が
皮と巻き毛のために引き抜かれたら

動物は人間のように泣くだろうか
わたしがあなたを失って
吠えるような悲しい声を上げて人を避け
鞠のように丸くうずくまったように

これが
冷たい荒野へのわたしたちの抵抗のしかた
靴もなく手に持つものもなく
かろうじてただ人間であるというだけ

原野を乗り切りながらも
わたしたちはなおも知らされる

ここが時の止まった場所であり
わたしたちにはどこにも行くところがないということを


パティ・スミス詩集『無垢の予兆』(東玲子・訳、アップリンク/河出書房新社、2012年)より

パティ・スミスについて、何も知らずに、表紙に惹かれて偶然手にした詩集『無垢の予兆』の一篇。

生き物の死を悼む思いが詩全体を覆う。ここに人間と動物の区別はない。
喪失の悲しみは、あらゆる生命への愛おしみと一体のものだ。

◆ガザやウクライナでの残虐の限りを尽くしている者たちを、獣じみた、とは言うまい。
動物たちは、かかる非道に及ぶことはないからだ。

動物も人間も屠り尽くしてなお飽き足りない彼らの姿は、ゴヤの描いた「我が子を食らうサトゥルヌス」を思い出させる。


ガザ アル・シファ病院のちいさな命[2023年11月12日(Sun)]

◆いたましい報道があった。
パレスチナ自治区・ガザで最大の病院というアル・シファ病院で、停電により入院中の早産児2名が死亡したという。

【11月12日】BBCニュースWeb版
ガザ最大病院の機能が停止、付近で戦闘激化 停電で早産児2人死亡とNGO
https://www.bbc.com/japanese/67390236

その他にも早産児だけで37名が入院中であり、かねて懸念されていた危機が、恐ろしい相貌をもって現実のものとなっている。

◆折しも、NHKのBSスペシャル『沖縄戦争孤児』が再放送された(初回放送は2022年)。

沖縄戦で身寄りを失った孤児たちを追ったドキュメンタリーだ。

その中で、孤児としてチャーリーと呼ばれ、その後引き取られて秀光という名を与えられたが、放送で取り上げられたことをきっかけにして、全く別の名であったことが判明した男性がいる。

《秀光という他人の名前をずっとおっかぶせられて生きてきたわけさ。
戦争に聞いたらいいさ。なんでこんな運命なのか。
俺はわからないよ。》


〈チャーリー〉→〈秀光〉⇒《宮城文吉》という名にたどり着いた男性の言葉だ。

◆ガザの悲劇が進行中の現在、この言葉は、厳しい問いとして我々を撃ち、迫る。

《戦争に訊いたらいいさ。なんでこんな運命なのか。》

◆ガザの病院で小さな命を脈打たせている乳児たちは、まだ発する言葉を持たない以上、「戦争に訊く」とは、まだ生きている大人たちが奮い起こさねばならない問いだ。

戦争を起こした者、報復を行った者、それを容認した者、座視した者および無視した者、すなわち即時停戦に力を尽くさなかったすべての者に対して。

◆国境なき医師団は「シファ病院内の人々は、イスラエル軍に死刑執行を宣告されたようなものだ」と述べたという。
死刑宣告する権利など誰にもありはしない。



長田弘「午後の透明さについて」[2023年11月11日(Sat)]

◆久しぶりに最初の卒業生たちのクラス会、集うことができた。
まだまだ仕事は現役の人たちばかり。
元気そうでホッとしたが、コロナでしばらく会わずにいるうちにそろって還暦を一つ過ぎていた。
遅まきながら還暦祝いのメッセージとして、長田弘の詩をどの人にも一節ずつプリントして呈上した。

以前書いた通り、学生時代に長田弘さんの授業を受けることができた。
それを受けとめ、さらに次の世代へと承伝する言葉としたかったのである。

◆生前、NHKテレビの時論公論で話されている長田弘さんを拝見した。
「言葉のダシのとりかた」『食卓一期一会』所収)の朗読とともに、滋味のある話を聞くことが出来た。
以来、10年近く、このブログでも10数篇の詩を取り上げてきた。

◆詩のそこかしこに存在するのは何気ない日常やこの世界に息づくものたちへの注意深いまなざしだ。
言葉は、昨年からのウクライナ戦争や現在毎日のように我々の胸を締め付けるガザのジェノサイドを前にしてあまりに非力と思える。

だが長田弘の詩の言葉は、決して無力ではなく、あらがい続ける人々の遙か後方からであるにせよ、息長く応援するための、と言うのがおこがましいならば、少なくとも目を逸らさぬ意思の基点とすべき言葉たちであると信じるゆえに。

◆次の詩も、そうしたことばの一つ。

*******

午後の透明さについて  長田弘

ない。何もなかった。
何もなくなるまで、何も
気づかないでいるけれども、
人生は嘘ではなく、無なのだった。
確かなものなどないのだった。
青空の下には、草花があった。
樹があり、木陰もあったのだった。
そうして夢もあったはずだけれども、
ない。何もなかった。
時は過ぎるというのは嘘なのだった。
時はなくなるのだった。思いだすことなど何もないのだった。
新しいものは見知らぬものなのだった。
目を閉じなければいけないのだった。
見るためには。聞くためには、
耳をふさがなければならないのだった。
どこにも本当のことなどないのだった。
石にも、雨の音にも、音楽にも、
言葉にも意味があるはずだったけれども、
ない。何もなかった。
われわれは何者でもないのだった。
微笑むべし。
海辺の午後の日差し。
砂州のかがやき。
水鳥の影。
人のいない光景のうつくしさ。


『一日の終わりの詩集』(みすず書房、2000年)所収
『長田弘 全詩集』(みすず書房、2015年)に拠った。


***

◆結びの五行(「微笑むべし」以下。とくに「人のいない光景の美しさ」と表現すること)を、たとえばいま現実に進行中の凄惨な事態と並べることがそもそもできるのかという疑問はありえよう。
だが、並べてみて見えてくるのは、現実と表現の乖離でも隔絶でもない。まして人無き世界が出来する危機への冷笑ではない。

それらのいずれでもない事態を引き寄せるために、対立や暴力を消し去った世界を垣間見せる(=そのためには、愚かな人間という生き物を一旦消去してしまう)ことによって、われわれはそれでも何者かでありうるのか、一つでも良きことを世界のためになし得るのかと、静かに、そうして厳しく問いかけているのだ。




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