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会田綱雄「伝説」3[2023年10月31日(Tue)]

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********

会田綱雄の詩「伝説」のまわりをウロウロしている。

『詩に誘われて』柴田翔「伝説」について書いたことは、若い世代に真っ直ぐに差し伸べられた言葉であって、どこを引いても滋味に富む。中でも中核を成す部分を挙げるならば――

幾世代にもわたって、老いた親たちが、その痩せほそった「自分の身体を蟹の餌とすることが、世代から世代への生命の継承を成就させる」「先行する世代が次世代のために、生き物の食の連鎖の中へ自分自身を投げ入れる」……このように連ねられたことばは、次の一文に至って一つの収束に至る。

「それは親たちの心からの贈与を、慎みつつ受けるということであり、その感謝と敬意の思いが、自分たちで直接に蟹を食べることを禁忌にしている」

過不足なく叙述されていて、ほぼ、淀みがない。
「禁忌」ということばはこんな風に所を得て使うべきもの、と思わせられさえする。

――だが、どうなのだろう。
この部分は、最初の方で第二連について柴田が伏線的に述べた次の文章を承けたものだ。

第二連、「蟹を食うひともあるのだ」という、ちょっと不思議なことばが、一行だけで独立した連となって、際立っています。


「ちょっと不思議な」という、さり気ない前振りが、上の「禁忌」を含む文で、一つのクッキリした解を与えられた形になっている。

だが、どうなのだろう、と思うのは、ここで柴田があえてスルーしたものがあるからだ。
そうしてそのスルーの仕方が余りに手際良いために、逆に危うさを覚えるのを禁じ得ない。

それは、作者、会田綱雄自身の述懐に関わる。


会田綱雄「伝説」2:柴田翔の読み[2023年10月30日(Mon)]

柴田翔が若い世代に向けて書いた『詩に誘われて』、その第三章《性と死》が、会田綱雄「伝説」を取り上げている。その中で「贈与」という言葉が用いられていて、大島邦行の詩「雀の泪」を理解する上でも手がかりになるのではないかと思ったのだった。

全文を紹介する。

***

人間の生の原形が静かなことばで造型され、定着されています。
三行目で折り目正しく、「わたくしたち」と名乗るのは誰か。それは最終の三行、湖に浮かぶ船の上で、「やさしく/くるしく/むつびあう」ふたりです(「むつびあう」は「睦び合う」で、「性交する」の)意)。
彼らは湖岸で蟹を捕り、それを町へ運んで、米塩の資としている。

第二連、「蟹を食うひともあるのだ」という、ちょっと不思議なことばが、一行だけ独立した連となって、際立っています。

彼らは蟹を捕り、売りますが、食べはしない。ただ蟹の代金で買った米と塩を持って、湖のほとりの小屋に帰り、灯を灯さぬ小屋の暗闇の中で子どもたちに熱い粥を作り、食べさせながら、くりかえし父と母の思い出を語り、伝える。
父と母も彼らと同じように、蟹を捕り、山を越えて米塩を持ち帰り、子どもたちのために熱い粥を炊いて、その生涯を送ったのだと――。

次の「わたくしたちはやがてまた」の一行で始まる第六連――それが、この詩の中心です。
それは優れた詩の優れたことばがいつもそうであるように、ひそかな衝撃を読む人に伝えます。
人間の生命は個々人の一生で完了するものではなく、世代から世代へと果てしなく受け継がれて行く。だがその成就は、ただ子どもたちに熱い粥を食べさせるだけでは果たされない。「わたくしたち」は老いて身体も軽くなったある日、「わたくしたちのちちはは」と同じように、「痩せほそったちいさなからだ」を湖に捨てに行く。蟹が「わたくしたちのちちははのぬけがらを/あとかたもなく食いつくしたように」 、「わたくしたち」のそれをも食いつくすように、と。

先行する世代が次世代のために、生き物の食の連鎖の中へ自分自身を投げ入れる。それで初めて、生命は受け渡されるのです。

再び一行だけで自立する第七連で、詩人は静かに宣言します。
「それはわたくしたちのねがいである」
なぜならそれが――自分の身体を蟹の餌とすることが、世代から世代への生命の継承を成就させるのだから。
同じように一行だけの第二連の意味、彼らが蟹を食べない理由が、親たちが自ら望んで湖に捨てた身体。彼らはそれに養われた蟹を捕り、子どもたちのための米塩の資とする。
それは親たちの心からの贈与を、慎みつつ受けるということであり、その感謝と敬意の思いが、自分たちで直接に蟹を食べることを禁忌にしているのです。

こうして自分たちの生の根源的な形を確認した「わたくしたち」は、最終連、子どもたちの寝静まったあと、湖に船を浮かべ、夜の湖水を渡る風の冷たさに震えながら、むつびあいます。生の本質を自覚しつつ交わす、原始の性の風景です。
彼らは、「やさしく/くるしく/むつびあう」。そのとき彼らが自分の名、相手の名に執着することはないでしょう。近代が信じてきた意味での恋は、もうここにはない。それぞれが男であり女であることで、充分だからです。


柴田翔『詩に誘われて』p.105〜(ちくまプリマー新書、2007年)より。
ただし、画面上の読みやすさを考慮して、数カ所で改行し、行を空けた。
また、特に注意を払いたい部分を太字&赤文字にしたのも引用者。

「生き物の食の連鎖の中へ自分自身を投げ入れる。」そのようにして、生命を受け渡すこと、それを〈贈与〉と表現している。



会田綱雄「伝説」1[2023年10月29日(Sun)]

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イヌタデ。道端、畑のへりなどに似つかわしい。

*******

◆柴田翔の文章を読んで、前回〈死という「贈与」〉という標題で予告的なことを書いた。
その前に、柴田が取り上げた会田綱雄「伝説」という詩を掲げておく。ただし、テキストは別掲の現代詩文庫に拠ることにする。


伝説   会田綱雄


湖から
(かに)が這(は)いあがつてくると
わたしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ

蟹を食うひともあるのだ

縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を搔
(か)きむしりながら
蟹は銭になり
わたしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる

ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたしたちの小屋は灯をともさぬ

くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたくしたちのために
熱いお粥
(かゆ)をたいてくれたのだった

わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
(や)せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように

それはわたしたちのねがいである

こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖の上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう


鹹湖(かんこ)』(緑書房、1957年)所収。
現代詩文庫『会田綱雄詩集』(思潮社、1975年)に拠った。また、一部ルビを付した。


◆最初この詩を読んだとき「蟹を食うひともあるのだ」、この独立させた一行が引っかかった。
貧しく暮らす者にとって、生計を支える蟹は口にすることさえできない、というだけの意味ではないと思われたからだ。

◆少しして、この詩が生まれることになった事情を書いた文章を読むことになった。
衝撃だった。爾来、自分は「蟹を食うひと」にはなれないだろうと思って現在に至る。






死という「贈与」[2023年10月28日(Sat)]

DSC_0010カントウヨメナ.jpg

カントウヨメナ(らしい)。ユウガギクというのにも似ているが。
ヨメナというのは中部以西に分布、とのこと。

*******

◆昨日の詩、大島邦行「雀の泪」の第三連の最終行が実は良く分かっていない。
――「贈与」、と一語だけがポンと置かれていた。

その前に「義は山嶽より重いという」と修飾部があるので、軍人勅諭が国民の義務として説くところの「死」、大義の名の下に強制された「死」を、国家から個人への「贈与」と表現したのだろうと考えていた。いわば押しつけられ、本音としては有り難くない「プレゼント」としての「死」。
ならば、この「贈与」とは、拒否の意を込めた反語的表現ということになる。

◆だが、柴田翔会田綱雄「伝説」という詩を取り上げた文章の中で、同じ「贈与」という言葉を用いているのに出会った(柴田翔『詩に誘われて』p.107。ちくまプリマー新書、2007年)。
もう少し丁寧に考えておく必要があると思う。

うまく行くかどうか分からないが、日を改めてトライしたい。





大島邦行「雀の泪」[2023年10月27日(Fri)]

DSCN7410.JPG

キクイモ。丈高く咲いていた。

*******

雀の泪  大島邦行


わたしの庭の さらに小さな
菜園の赤土から
ひとしきり砂浴びをした雀が
尻を端折って逃げていった

夏雲のふたつみつ
何ごともなく押し黙った時間は
そこにある礼節
遠くで子どもの声が爆ぜては消える

老年期の慎ましい日常に
いつまでも青い想念がこびりついて
困ったものだ
あちらの世界をちら見しながら
差し伸べてくる手を拒み
拒みつづけるこの手に忍び込んでは
義は山嶽より重いという
贈与

嘴細
(はしぼそ)が激しく舞い降り
小さな物語が逃げていったあとの
穴 何ごともなかったように小さく
ぬくもりの欠片がそのままに

本当のところは 嘘だろう
死は空からは墜ちてこないのだ
発射装置に片手をかけた地上の言葉は
消えた人体を開放しない

千載青史に列する人たちが闊歩する
国際環境の変化を口実に
永久平和の憧憬を踏み躙
(にじ)り生きながらえ
鴻毛よりも軽い命の覚悟を と
秤は傾いたまま胃袋を満たす
世間の片隅で背徳に脅えながら
敗走する翼が激しく波うち
食うものがいる 食われるものもいる

あれは「止め卵」だったんだ
卵殻の薄い模様が植え込みに白く
啜りとられた残骸の
未生の重さを仮構する形で

どこかに消えちまったよ
皮膚が 爛れた鼻が脱け落ち 
耳も口も あるはずのものがひとつひとつ
あの角を曲がるたびに



『逆走する時間』(思潮社、2018年)より。
いくつかルビを付した。

〈引用者注〉
*「義は山嶽より重い」…第6連の「鴻毛より軽い命」とともに軍人勅諭の一節をふまえる。
曰く〈義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ〉……国を護持する大義の重さに比べれば、命は鳥の羽よりも軽いと覚悟せよ、と。
*「嘴細」…ハシボソガラス
*「千載青史に列する」…千年後の歴史に名を連ねる。頼山陽の詩「述懐」より。
*「止め卵」…最後に産んだ卵


◆詩集『逆走する時間』には、2011年の大震災と原発事故がもたらしたものとの格闘がある。還らぬ者の死をどう引き受けるか、砕けた欠片の一つひとつに言葉を手当てしてゆく作業でもある。
一方でそれをあざ笑うかのように原発再稼働・再軍備へと舵を切った政治は、再び人間の命を鳥の羽よりも軽んじて恥じない。パンデミックへの対応も例外ではなかった。

◆ここまで取り上げた詩は、いずれもイスラエル・ガザの虐殺をも視野に収めていたもののように読むことが出来る。
この詩もそうだ。
最終行――
「あの角を曲がるたびに」とは、我々が目撃してきた変化や変質の節目節目を指す。
関与の深浅はあっても、グローバル化した現代を生きている以上、どの局面であれ、全く当事者でなかったとは言い切れない。皮膚や鼻・耳・口を失っていることが、その何よりの証拠だ。

◆幸いに未だ耳を失っていない人が、第2連を読み返したとき、そこに夏休みを満喫する子こどもたちの歓声だけを聞くのだったら、どんなに幸せなことだろう。

だが、そこには、「遠くで子どもの声が爆ぜては消える」と書いてあるのだった。




大島邦行「余白に7」[2023年10月26日(Thu)]

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◆カルガモのようだ。近づいて撮ろうとしたら、あっという間に草むらへ姿を消した。
しばらく待ったが、草の葉はソヨとも動かない。

こちらに侵攻の意図などなく、彼らも地下トンネルに逃げ込んだわけでもないはずだが。

*******


余白に7 大島邦行


(鼠は一生懸命に泳いで逃げようとする
 鼠には首の所に七寸ばかりの魚串
(さかなぐし)
 刺し貫してあった
 頭の上に三寸程 咽喉の下に
 三寸程それが出てゐる)


三寸に三寸を足すと
純粋な美しさで
算術の初歩は答え=六寸をみちびきだす
冷静かつ的確に
〈客観〉という眼に
賞賛の墓石が建てられる

咽喉から頭部にかけて
あるいは 鮎の塩焼きをつくるようにか
七寸からの減法に 一寸の

頸部脳動脈瘤が記憶の余韻を吐きだして
真理は数式に閉じる
明晰な概念が心地よく
気楽な歓声に内向する自分を演じての
垂直な意思

おそらく鼠の実在は
助かることでも
死ぬことの努力でもなかったろう
ただただ 野卑な笑いを背に
まばたきもせず
丸く ひたすら生きることの瞋恚
(しんい)
神への通路を探る眼は
くりかえす転落に充血し
見られている鬱屈が
真っ直ぐに塵埃になる儀礼として
見開いたままに

罵声を食らって膨らんだ石畳に
魚串を引きずっているあの人
一寸の闇に
クレネ人
(びと)シモンの手が伸べられ
身替わりの受難を背負う
風は鉄槌の哄笑を掬いあげ
光となり
夢に見た潮の匂いの
遠くへ
一歩
湿った情緒を静かに葬る


*丸括弧引用は志賀直哉『城の崎にて』(全集第二巻)より。



◆詩集『逆走する時間』(思潮社、2018年)中の連作《余白に》1〜7、その第7。

◆クレネ人(びと)シモンは、新約聖書で、ゴルゴタにキリストが引かれて行くときに、イエスの十字架を担がされた男である(マタイによる福音書27.32など)。

◆志賀直哉『城の崎にて』、串刺しにされた姿のまま逃げようと必死の鼠を見物人たちがはやし立てる。「自分」は彼らに距離を置いて死についてあれこれ内省するのだが、詩は「〈客観〉という眼」「賞賛の墓石」などの表現でわかる通り、”小説の神様”と持ち上げられて来た志賀文学には揶揄をもって遇している。
第三連の「垂直な意思」も、褒め言葉であるというよりは、鼠の頭部を垂直方向に刺し貫いている魚串を抽象化したものだろう。
すなわち、小説の中の「自分」がどう演じようと努めても、結局は鼠をダシにして興じる「見物人」の一人であることを免れない。

◆詩人の眼は鼠の方に向けられている。
そうして鼠とともに「神への通路を探」っている。

◆詩は、最終連でキリストの磔刑に転換する。
鼠と同様に、キリストもまた、群衆や兵士たちによって侮辱を受けたのだった。

クレネの人・シモンは、兵士たちによって無理やり十字架を担がされたのだが、イエスの教えを受け継ぐ運命にあることが示唆されている。

◆さて、我が家にも魚串の一本くらいどこかに在った気がする。
銃や戦車は無いはずだけれども。




大島邦行「余白に1」[2023年10月26日(Thu)]

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◆ハゼラン(爆ぜ蘭)。
だいぶ前にも見かけたことがある。
マッチの頭のような赤い実が目につく。
葉は根方に集中し、上方には実のみ。
歩道のわずかな土に根を張り実を結ぶに至ったのだから、繁殖力旺盛なのだろう。

DSCN7425ハゼラン.JPG

***


余白に1  大島邦行


(あなたは 統治する男たちを
 まるで彫像家がするように
 この上なく 立派な姿に
 仕上げられましたね)

乾いた風が庭先をとおりぬける
語る言葉の魂が白く輝き
燐寸細工のような議論の果てに
ここにある国家は熱く
背もたれに深く真昼の太陽と戯れている
筋肉質の武勇伝が激しく香り
骨肉の悲劇は泡となって
テアトロの
小鉢のなかに発酵する

詩神の慰めにふと眼をあげると
遠近のぼやけた視界に
オリーブの丘がうねるその向こう
禿げた岩山の連なりは底なしの
空の青さに溶けている
微睡む午後に
明るい情報が喜々として語られ
過剰な敬語の騙し合いが延々とつづき
競争から戦争へ
美しさを語り
正しさや勇気の徳が世界の深さを装い
喜んだり悲しんだり

この世の始まりに怒りはなく
差しだす手に泣いたり笑ったり
眠れない夜は瞼を開き
待つことのない自在 もどかしさをはねのけ
魂は石になって成熟する
下手な巧みの細工はいらない
命が傾く治療を捨てて
吹き出物はあたりまえの
異臭 どこもかしこも
猫も杓子も
同じ眼の高さの奇蹟は
神々が休息する頁だ
あるべきことへの疑問が芽吹く前の
石の
抱きしめたくなるような

*丸括弧引用はプラトン『国家』第七巻(藤沢令夫訳)より。



***

◆詩集『逆走する時間』(思潮社、2018年)から、「〈わが背子を大和へ〉の余白に」と題する詩に続けて「余白に1」から「余白に7」までを含む連作群のうちの「1」。

〈わが背子を大和へ〉は万葉集の中でもよく知られた大伯皇女(おおくのひめみこ)が大津皇子を見送る歌だが、その「余白に」、とは「古典世界に思いをはせながら、読みさしたその本の余白に……」という意味だろう。


◆この〈余白に1〉では、原注にあるように、プラトンの『国家』を冒頭に引用し、詩人の想像は古代ギリシアに向かう。

だがすり鉢状の劇場で繰り広げられる悲喜劇に登場する英雄たちや国家の理想について議論する者たちを見つめ、彼らの仮面の下の素顔を見つめるならば、ニキビ面の若者たちが苦悩し血を流すさまは二千数百年を隔てても何ら変わらない。

◆もし、2023年のいま、粉塵にまみれて地べたに転がっている若者の傍らで、〈石〉を割ってみるならば、中から湧き出た〈白く輝〉く《言葉》が泡のように肉体をすっぽり包み、フィルムを逆回しにしたように、流された血とともに若者の軀に吸い取られて行く、そのようにして《魂》が本来収まるべきところに復帰する、それを私たちは目撃することになるのではないか?

もし、そうならぬとしたら、私たち自身の魂の成熟など、とうていありえないのではないか?




大島邦行「昨日も夢にあらわれた場所」[2023年10月24日(Tue)]


DSCN7463.JPG

ススキの銀白の穂とカワウの黒とがともに日差しを浴びていた。

*******


昨日も夢にあらわれた場所   大島邦行


昨日も夢にあらわれた場所は
どこであったか
あれから ただ明るい太陽に追われて
貧血する欅の
その根のあたりで
吐息が生臭く
うつむいて蟻の行列と戯れているすきまに
砲弾を運ぶ物語が挿しこまれてくる
(お前 どこへ行っていた)
(豚を殺しにさ)
軍服姿の若い父が鴨居に微笑む
平和が獲物を物色する欲情に溺れ
膿み湧き 蛆 
(たか)
伝統やらの挙措に言葉は軽く
命は素通りする
絶対という死 見事な
(まが)いものに媚びる切れ味の
その露頭の

たとえば戦争が事変に
あのことを爆発的事象にと
いいくるめる言葉の種種の禍事
(まがごと)
萎えた草木を引き抜いては
秩序の形が
虚偽の事実に色付けされて 喜々
陽気な粉飾に記憶があやふやに
(世間を騙
(だま)すには世間の顔色をなさらねば)
脈絡のない手振り身振りの
口舌の醜さが繁茂し
信念の手遊
(すさ)びに
盗みとられた小さな果実が
刺草の野に投げだされるところ
この惑星のすみっこに
空瓶の空爆の骸が横たわる夢の腐敗
見知らぬ空から
血糊を嘗めた雀たちが墜
(お)ちてくるとき
爺婆の憤怒の
その子どもたちの
さらに孫たちの
正しい記録の骨を拾うのは 誰か


*丸括弧引用はシェイクスピア『マクベス』より。

[引用者補注]
『マクベス』からの引用、最初の(お前 どこへ〜)(豚を殺しに〜)は3人の魔女たちのやりとり。
(世間を騙すには〜)はマクベス夫人のせりふ。


『逆走する時間』(思潮社、2018年)より。なお、適宜ルビを付した。


***

◆血なまぐささが横溢している夢として語られるこの詩において、基底にある事実は、鴨居に飾られた軍服姿の遺影、すなわち、父の戦死だ。

残された老親・その子どもたち、さらにそれに続く孫子たち……彼らが紡ぐはずだった家族の歴史は、国家の暴力で吹き飛んだ。

その骨を拾う者すら居ない世界――想像を絶する、というほか無いのだが、今現在、それは現実に進行中だ。



ミズヒキ[2023年10月23日(Mon)]

DSCN7426ミズヒキ.JPG

ミズヒキ(水引)
林のへり、道に接する草むらに群れていることが多いみたいだ。
赤い粒々を付けた茎がてんでの方向に伸びている。

DSCN7429.JPG

図鑑によれば、昨日のオオミゾソバと同じく〈たで科〉に属するとのこと。ただし、オオミゾソバが一年草であるのに対して、ミズヒキは多年草の由。そう言われてみれば、例年同じ所で再会している気がする。

人間が定めなく当てにならないのに比し、律儀な性分と見える。
慶事に添える「水引」の名を冠されたのは、形状や花の色に加えて、そんな篤実そうな性質もあずかっているのだろうか。



オオミゾソバの花[2023年10月22日(Sun)]

DSCN7474.JPG

オオミゾソバという花らしい。
ママコノシリヌグイに似た小粒の花だが、これは茎にトゲがない。
山裾の、やや湿り気の多そうな草むらに群れていた。


DSCN7477.JPG

曇りの日ももちろんだが、晴れた日中でも、桃色の花の色合いをそれらしく写すのは難しい。
オートのままではピントも合いにくい。
(使っているデジカメにはマニュアル機能もあるのだが、ふだんは眠らせたままだ。フィルムで撮っていた頃から全く進歩がない。)

2枚とも、再チャレンジで撮れたもの。



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