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辻征夫「時計」[2023年08月30日(Wed)]

時計  辻征夫


いささか深く、酩酊し
足音忍ばせ、居間に入れば
卓上に紙片あり。
おとうさん、宿題なので
詩をかきました
これでいいの?
みてください。

なになに
(とけいって
 ふしぎだな
 なにも しなくても
 いまなんじだか
 みれば わかる
 ふしぎだな)

ほんとに、不思議だな。
男が、ひとり
真夜中に、
詩を読んで
壁の時計をながめてる。
自分の家が、めずらしく
四方八方、眼をすえて
にらんでる。

不思議、だな。


『船出』(童話屋、1999年)より


◆この詩が持つ飄々としたおかしみに頬を緩めながら、こちらまで部屋の時計に眼を向けずにいられない。
そうして、そのふとしたふるまいのおかげで、見慣れたはずの部屋が少し浮き上がるか、かしいで感じられ、その感覚に驚いている自分に気づく。

詩の魔法に触れる、実は得がたい瞬間である。

◆もう一つ、詩が日常を眺め直す効用を持つものだしたら、そのように眺め直すに足る日常を過ごしていなければ詩は生まれ得ない。

だとすると、火薬のにおいや、時計を確かめようもない闇の中に居る人たちに、魔法の力は及ばない、のか?  ――この1年半あまりの、おびただしい非日常を載せた新聞の切り抜きを前に、ボーッとするばかりの一日の終わり、ふと傍らのポケット詩集に気づいて。



この夏[2023年08月30日(Wed)]

暑すぎてか、この夏は蟬の鳴き声が少ない。
うるさいのもかなわないが。

DSCN7157.JPG

誰が見るというわけでもなさそうな畑の端。しっかり咲く向日葵にはつい声をかけたくなる。

何の実だろう[2023年08月29日(Tue)]

DSCN7144.JPG

海べりの植え込みには不思議な実が生っていたりする。





池井昌樹「穴」[2023年08月27日(Sun)]


穴  池井昌樹


あかずみていたひとつのあかりが
あるときふいにうしなわれ
おおきなくらいあながのこった
おおきなくらいそのあなは
あんまりおおきくくらいので
やっぱりあかずみつめている
みているぼくにかわりはないし
ながれる日々にもかわりはないが
おおきなくらいそのあなが
あれからずっとぼくをみている
あくこともなくいまもみている



詩集『一輪(いちりん)(思潮社、2003年)より

◆あかりであれ、とんがった何かであれ、一つのものをじっと視続けることは普通あまりできないものだ。
根気が続く・続かないという理由もあるが、生きてゆく以上、いろいろやらねばならないことに囲まれているという、よんどころない事情にもよる。

◆ところが、ここの「おおきなくらいあな」は「あかずみつめている」に値するもののようだ。その理由の一つは、その「あな」が、失われた「あかり」の代わりのように跡に残ったものであるからに違いない。
「もの」というよりは、「無」という状態だと言った方が良いかも知れない。
この「無」はゼロを意味しない。むしろ無限の状態であるらしい。
だから、「ぼく」はあかず視ることになる。惹きつけられたと言って良い。
とはいえ、何も見えないのだが。

ただし、「ぼく」に変化が生まれる。「みている」のは「ぼく」だと思っていたのに、いつの間にか、「あな」の方が「ぼくをみている」のだった。
主格がいつしか置き換わったのは、両者に違いが実は無いこと、本質において〈主〉・〈客〉は同じであることを物語る。

つまり「あな」は「ぼく」自身の中にある「無」=無限の状態にある「ぼく」。
であってみれば、「あかずみつめて」いられるのもうべなる哉。

*「くらいあな」をみつめているのに向日的。不思議な詩だ。





池井昌樹「豚児」[2023年08月26日(Sat)]


豚児   池井昌樹


ひとのかわきたひとでなし
でも
ひとりなきたいよるがある
おろかなちちでありました
(こらよ)
おろかなおとこでありました
(つまよ)
おろかなむすこでありました
(ちちよ)
おろかなつみを
ゆるしたまいし
(ちちははよ)
ひとのかわきたひとでなし
でも
ひとりなきたくなるよるは
ばけのかわぬぎふとんをかむり
ひとこえぶうと
きえいりそうに

『眠れる旅人』(思潮社、2008年)より

◆「豚児」は、我が子を謙遜して言う語だが、ここでは、懺悔する自らのこととして用いている。
ただし、単なる形容でなく、俺は「ひとのかわきたひとでなし」だと、切っ先光る刃を頬に押し当てながら悔いる言葉として。
それでいて、ふとんの中から「ひとこえぶうと」と洩らして、ただの「遁辞」じゃないのか、と苦笑を誘うしかけにしてある。
当人が深刻がるほど傍目には滑稽に映るものだ。

「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」と汚染水放出をめぐる政府の「約束」がただの遁辞であることはハナから分かっていたことだけれど。
(せめて消え入るほどのしおらしさぐらい見せろよ。)




麻生直子「虹の木」[2023年08月25日(Fri)]

DSCN7130.JPG


虹の木  麻生直子


森には
木の中に立ったまま眠る水がある

わたくしの指先の少しの傷口からでも
あふれようとする鮮血のように

まだ尾のついたこどもをはぐくむ
母の胎内の羊水のように

その根や幹や枝や葉先まで
たっぷりと大地からのいのちを汲みあげ

木は大きな森をつくり
森は美しい水でいっぱいになる

森の上空には
いつも虹の木が架かっている



村田正夫・編『現代植物詩集』(潮流出版社、1993年)より

◆渇きの中で水を幻視するのは凡人でもできようが、目に触れる万象の中にさまざまに変幻しながら通い合っている水を視るには、柔らかな想像力がなくてはかなわない。

しかもその想像力は、水の分子に結びついてあらゆる生き物の体内を自在に流れ、循環してゆく。


海辺より[2023年08月25日(Fri)]

◆政府・東電が汚染水放出を決行。
さらに直接的・長期的に、地球およびここで暮らすしかない我らをむしばむ悪鬼のしわざ。
汚染水を「処理水」と言い換えただけの黒魔術にも及ばない確信犯に手を貸すメディア。


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◆湘南・片瀬の浜から富士の姿が遠望できた。

目の前の海が、さえぎるものなく、そのまま汚染水の放水口につながっているのを想像することは難しいことだろうか?
大震災後、船やボールその他、ありとあらゆる漂流物がアメリカ大陸にも日本海にも漂着した事実を忘れてしまうことより難しいことだろうか?

◆「風評被害」を恐れている、と海に生きる人たちは言う。
本当は、目に見えぬ放射性物質のいつまで続くか知れぬ害毒の恐怖を指摘すべきなのに、あえて言わぬだけ、言えぬだけなのに。

コントロールできないもの、より正しくはコントロールする気など最初からないウソを受け容れていながら、イヤそんなことはないという顔をしている――――それは、誰?



引き潮の江ノ島[2023年08月23日(Wed)]

◆さすがに海も人が退けたころだろうと踏んで、134号線に車を向けた。

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江ノ島そのものより、引き潮に映った空と雲に秋の気配を感じる。




穂波の候[2023年08月22日(Tue)]

◆午後、短時間ながら強い雨があった。
東京スカイツリーからは「雨柱」なる黒ずんだ雨の塊が観測された、との映像が。

各地で降雨の異常が伝えられているものの、湘南の片田舎たる当地では稲穂が波打つ候を迎えた。


DSCN7113.JPG


今のところ、ひどい風雨にさらされることなく育っている。
このまま収穫を迎えますように。

DSCN7115.JPG




ミズキの実[2023年08月22日(Tue)]

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ミズキの実が色づき始めていた。
葉の方は、炎暑でさすがにうなだれている。

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