
タケニグサ[2023年06月29日(Thu)]
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![]() タケニグサ[2023年06月29日(Thu)]
![]() 祖母の至言「まつげェの無い人は居ネェ。」[2023年06月28日(Wed)]
![]() 合歓(ネム)。梅雨の季節を実感させてくれる花だ。 ******* ◆美女・西施のまなざしに譬えられる花だから、ではないのだけれど、この花を眺めるたびに祖母の口癖が思い出される。 ――まつげェの無い人は居ネェ。 津軽の言葉で「睫毛」と「間違い」を掛けたしゃれになっている。 ――間違いの無い人など居ない 孫たちの失敗を目の当たりにするたびに、とがめるのでなく、むしろ祖母自身に言い聞かせるように繰り返すのが常であった。 ◆マイナンバーカードの不手際に「ヒューマン・エラー」によるミス、という弁疏がはやっている。 どんなに細心の注意をはらっても間違いは起こりうる。だから大目に見ろよ、ではなく、健康保険証と無理やり紐づければ命の危険に出くわすこともあることに鑑みて、仮に間違いが起きても問題や影響の少ないものに限定すればいいだけのことだ。 あらゆる情報を紐づけて万能カードにしようとするから、取りかえしのつかない事態を引き起こす。 ◆コーノタローをデジタル担当大臣にしたことこそヒューマンエラーだ、という指摘がネット上にあって、笑った。 「ハンコ全面廃止」を言い出した時と同じ失敗を繰り返しているのだから、失敗に学ばないのは本人だけでなく、彼を任命した首相自身もまた同様だと言うしかない。 「万能」風を吹かしているだけの無能大臣にも「まつげェ」はあるだろうけど、言い訳は許されない。「まつげェ」だけでなく、潔く責任を取る能力もあるはず。いや、それもアヤシイのかも。 ![]() 野見山暁治さん逝く[2023年06月27日(Tue)]
◆画家の野見山暁治さんが6月22日、亡くなったという。 享年百二。 ◆昨年の正月頃、TVで百歳にして画筆をふるう姿を拝見して圧倒される思いがした・ ◆2019年には、詩の手がけた絵本や随想に触れて、大いに励まされた数日間があった。 感謝の念を込めて、以下にその折の拙記事を並べて置く。 氏が奔走して集めてくれた無言館の画家たちに、もう一度会いに行かねば、と思う。 謹んでご冥福を祈ります。 ******* 【関連記事】 ★2019/2/20 野見山暁治少年(新川和江との詩画集『これはこれは』より「地球よ」 ⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1145 ★2019/3/7 無言館―野見山暁治「アトリエ日記」より ⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1160 ★2019/3/8 入営前の酒盛りで抜刀された野見山暁治 ⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1161 ★2019/3/9 野見山暁治の宇佐見英治追悼のことば ⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1162 ★2019/3/10 3・11の野見山暁二「アトリエ日記」から ⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1163 ![]() ヒゴタイ〈平江帯/肥後躰) ![]() 一寸先は分からない[2023年06月27日(Tue)]
![]() ラベンダーの仲間らしい。 放射状に伸びた花穂の勢いが小気味よい。 ***** ◆モスクワまで200km付近まで兵を進めていたというワグネル軍の反乱、一転して収束に向かった由。 だがプーチンから「裏切り」と断ぜられたプリゴジンの所在は不明とのこと。 いかにこれまで太い紐帯で結ばれていた仲とはいえ、メンツを失わせた当人をお咎めなしで済ますわけには行かないのだし、これ以上発言も行動もできない状態に押し込めるほかはない。 かつて鉄のカーテンの向こうで彼の国が犯した数々の蛮行を想起してしまうが、さて。 ◆BBCの報じ方などと比べても、日本のメディアの取材力の貧弱さはTV、新聞いずれも目を覆うばかり。米英優先の外交でやってきた日本政府と相似形の態勢なのだろう。 ある意味では、明治のころよりひどいかも知れない。 メディアがこんな状態で、平和主義を捨て、NATOにまで深く関わっていこうとする現政権の危険な道行きを押しとどめる報道ができるのか。 危うい。 ![]() 谷川俊太郎「よげん」[2023年06月25日(Sun)]
よげん 谷川俊太郎 きはきられるだろう くさはかられるだろう むしはおわれ けものはほふられ うみはうめたてられ まちはあてどなくひろがり こどもらはてなずけられるだろう そらはけがされるだろう つちはけずられるだろう やまはくずれ かわはかくされ みちはからみあい ひはいよいよもえさかり とりははねをむしられるだろう そしてなおひとはいきるだろう かたりつづけることばにまどわされ いろあざやかなまぼろしにめをくらまされ たがいにくちまねをしながら あいをささやくだろう はだかのからだで はだかのこころをかくしながら 『夜のミッキー・マウス』(新潮社、2003年)より ◆連の間の行数を、原詩集のレイアウトにならってしっかり空けてみた。 空白部分に想像をめぐらせば、長い時間をかけて悪意や無知、傍観や不作為が積み重なった黒々とした山を見出すことになる。 それに重ねて、伐られ弑(しい)され、抗えぬようアメですっかり丸め込まれた者たちの、影を失い薄れゆく姿が見える。 ◆こうしてひらがなだけのことばに向かっていると、大切なものはどれも一つか二つ、せいぜい三つの音で表せることに気づく。 「き」「むし」「うみ」「こども」「そら」……「ひと」、「あい」そして「こころ」。 どれも傷つきやすく、たちまち汚され、失われるものばかりであるゆえに、それらを守る魔法の言葉は、ささやくようにして伝えられる。 ![]() ワグネル「反乱」とロシアの向かう先[2023年06月25日(Sun)]
◆ワグネルの創設者と言うプリゴージンは、かねてロシア政府高官及びロシア軍に対して烈しい批判をぶつけてきたが、ここに至ってワグネル軍拠点がとロシア軍の攻撃を受けたと伝えられている。 プリゴージンの「報復宣言」は反乱の呼びかけだとして、プーチンは「裏切り」だとみなして撥ねつける構えだ。 ワグネルの動きが、ロシア国内の反政府勢力を結集して内乱状態に発展し、混迷に至るのか、全く分からないが、はっきりしているのは、若きらの血が空しく流され、事態の収束は、さらに遠のくということだ。 迷走の果てにプーチン帝国の瓦解が待つのか、あるいは別の支配者のもと、さらにおぞましい事態に向かうのか。 ◆海を隔てたお隣の国の行く末のことだ。 NHKーBS1など、MLBの再放送でお茶を濁している場合ではないだろう。 ![]() 平安名秋「今、平和は問いかける」[2023年06月23日(Fri)]
◆6月23日、沖縄慰霊の日だ。 戦没者追悼式で高校3年生が朗読した詩を。 今、平和は問いかける 平安名秋(へいあんな あき) 夏六月 溶けかけたアイスを手に走り出す 緑萌ゆるこの島の昼下がり 礎に刻まれた「兄」に まるであの日のように そっと触れるおばぁの涙は 陽炎(かげろう)が登る摩文仁の丘に ただ果てしなく広がっていく その涙は体を包み込み 私を「あの日」へといざなう 限りないこの空は 何を覚えているのだろう 涙に満ちたおばぁの瞳は 何を語りかけているのだろう 七十八年前の あの日 あの時 かけがえのない たったひとつの命が 憎しみと悲しみの中で 散っていった 名も無き赤子の 微(かす)かな 微かな泣き声は 震える母の手によって 冷たく光の無いガマの中で 儚(はかな)く消えていった 幾多もの砲弾が 紺碧(こんぺき)の海を黒く染める鉄の嵐となって この島に降り注いだ 戦争が起きる前 そこには日常があった 私達と同じように 原っぱを駆け回り 友達とおしゃべりをする みんなで暖かいご飯を食べ 時には泣き 時には笑い 時には「ありがとう」を伝える そんな今と変わらない日常が 平和が そこにはあった 平和は不確かで 脆(もろ)く崩れやすい いつもすぐそばにあるのに いつのまにか消えていく おばぁの涙は 摩文仁の丘に永遠(とわ)に灯(とも)る平和の火は 今、私達に問いかける 平和とは何かを 私達に出来ることは何かを 私は過去から学び そして未来へと語り継いでいきたい おばぁの涙を 沖縄の想いを かけがえのない人達を 決して失いたくはないから 今日も時は過ぎていく いつもと変わらずに 先人達が紡いできた平和を 次は私達が紡いでいこう そして世界に届けていきたい 平和を創り 守っていく この沖縄の「チムグクル」を ◆心に刻み込みたい若者の決意のことばだ。 ★いくつか動画でも紹介されている中から、NHKニュースを―ー ⇒https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230623/k10014107521000.html ◆TVのニュース番組では現地からの中継映像に東京キー局スタジオのキャスターがコメントする形が多かったが、それらの中で、この詩の朗読について「子どもなりに平和に寄せる思いを……」というコメントがあったのには、首をかしげざるを得なかった。 「子どもなりに」という言い方が大人目線であることがふさわしくないと思う。 作者が18歳だから不適当と言うのではない。仮に朗読者が小学生であっても、「子どもなりに」と受けるのは、人として恥ずかしいだろうと思うのである。 《へいわを創り/守っていく》と誓う真っすぐな決意に、大人・子どもの別などあろうはずがない。 朗読にじっくり耳を傾け、「チムグクル」に応えたいと念じて生放送に臨んだならば、「大人なり」のさかしらな口が出る幕はなかったろうに、と思う。 ![]() 大島邦行「文法」[2023年06月23日(Fri)]
文法 大島邦行 波がさらう足裏の こそばい うすっぺらな感覚は舐めるように 肉を削いでいく 夢みた季節はいくつも過ぎた 塩に嗄れた呼吸を整えも 声はくぐもるばかりで あれからは置いてきぼりだ 手を振ったのではない別れの 時間の傷口は開いたまま 強ばり 巷の素振りに 反響しない現在が喘いでいる この足裏に呼応すいる律動は 戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、 ではない 戦時下、多くの女性たちの尊厳と名誉を深く傷つけられた過去を、 でもない いまここにある湿舌を踏みしだいて 語りを 傷つけたとする構文へと 剥ぎとられた主語を拾い集め 屈きょうの俺のきょうの俺の足裏を まっすぐに繋ぐ文法へ 降りつもる時間に擦れあいながら そこここに 指の火照りが脈打ち 小さな石くれの 半鐘の記憶に歪む木偶であっても 杜にたどりつけない卵の悲哀は たしかに ひとつの意志にめざめている 『逆走する時間』(思潮社、2018年)より ◆人が紡ぎ出す言葉は分かりよいものだけとは限らない。 消化の良い詩句だけ口にしていると、読む者の咀嚼力は確実に衰えるし、結果、それが別の誰かの詩との出会いをもたらすことなど期待できなくなる。 この詩の一つ一つのことばは難解ではない。「湿舌」という気象用語が表現するものは分かりにくいと言えば言えるものの、寄せ来る波に足をすくわれそうになる感覚や、足裏に直に感じている砂の崩れが、浜にとどまっていることができず海の中に入って行ったことから直接に生まれていると直覚できさえすれば、読む者もともに波しぶきを浴びながら、海に立つことができるだろう。 この海で己は置いてきぼりに遭った。塩辛く苦い水が、一生癒えることなどないと思える傷口を今もヒリヒリと痛めつける。その塩の水には、空が多量に降らした雨とともに、しとど零れた涙も含まれている。 「手を振ったのではない別れ」――なんという言葉だろう。哀切、と言ってみても、とうてい届かない。 タイトルの「文法」が意味するものは、ようやく詩の後半で理会できるものになる。 ![]() 電気料値上げ通告ハガキ[2023年06月22日(Thu)]
![]() クサフジ ******* ◆東電から電気料値上げの通知が届いた。 復興特別所得税を軍事費に転用という倒錯した企みを進めるキシダ政権は、電力会社側の当初要求を減じて善政のごとく演出するが、物価高騰の中、とどめの一撃に等しい通告である。 届いたはがきは、半角カタカナでこちらの名前が印字されたあて名書きの下に、「ご本人さまが開封のうえ、大切に保管してください」と書いてある。「お読みください」とか「ご確認ください」などと書くべきだろうに、すっ飛ばしていきなり「保管して下さい」とは面妖だ。何を恐れているのだろう? *** (無題) 大島邦行 もはや あの としてしか語れない あの日 美しい人/人が死んだ 抱え込めなかった(私)の両手は重く (私)の両足は余震に浮いて 逃げる人/人の凍る声が背中に 地球の皮が剝がされていく あの高いところへ あの高いところで 計算違いの情報に擦り切れた魂は 猿のように夢みていたか あの夜の満天の星を 奇跡のような天の川を 瓦礫のあいだで 藻屑のあいだで 重い瞼は閉じられる 冷えた髪に雪が積もり 放置された肉体は緩やかに震え 緩やかに朽ち きっとひとつの残骸ひとつの惨劇 春は遮断された 地球が銜え込んだ目鼻から 芽吹きはあるか 創世神話の錯誤が二十世紀を飾り 約束された土地の 扁平な 何もない あそこの あの爆発までは あと何時間 人を 地球を 引き裂いた日 ヒロシマの あの碑文は六十余年 主語の不在に耐えてきた 言葉が届かない (私)の時間は水漏れを起こしたまま 恐怖も憤怒も 沈み込んだ地下道に滞留する 地獄の抜け穴の算術は 排泄されてもなお神であることの傲慢さ ばらまき 浮游し 隠蔽する言葉の群れが あの あそこの 不可解な死を共犯=関係の闇に閉ざす (私)の言葉よ あれからの あの放(た)れ流さるる明るさ 透明(ぴゅあ)なこころみたいなものから ひどく薄っぺらな未来図の 一切の関係を発ち 真っ直ぐに 命につながる(私)の呼吸 われ/われではない(私)の律動 われ=われにつながる結び目を あの日の あの瓦礫のところの 藁しべ一本のところから 実生(みしょう)の地霊がやわらかい風にたわみ しなやかに舞うであろう あの 記憶のために 「ふるさと」を歌うな 「赤とんぼ」を歌うな 回収されない言葉のために がんばろう 否(ノン) ひとつになろう 否(ノン) 『逆走する時間』(思潮社、2018年)より。 ◆大震災とフクシマの原発事故から12年、当時小学校にあがった子どもたちがもう成人を迎える年になった。 上の詩にあるように、時が経てば、味わったことどもを「あの」という言葉で表すほかない。 だが、どこまで行ってもそれは、抱えようとして果たせなかった(私)の両手も、浮いた、としか言いようのない両足も――ことごとく射抜かれたような体験と直接につながっている。 だからこそ「人/人」「われ/われ」と表現するほかない。「人々」「我々」と集合的に表現して片付けることはできないのだ――(私)として息を継いで紡ぎ出す言葉を、一人ひとりの魂に届けようと願う限り。 一方に、原発を作り、今また再稼働を進める者たちの、隠蔽する言葉が至る所に浮游している。 「ふるさと」や「赤とんぼ」を歌う涙で汚染水を薄めることはできない。ただ、歌に添える「がんばろう」「ひとつになろう」の掛け声が悪かろうハズはない。 その空気さえ漂わして置けば、確実に異議申し立ての口封じになるのだから。 ![]() 世界難民の日[2023年06月20日(Tue)]
◆6月20日は「世界難民の日」である。 東京新聞の特集記事が目を引く。 ◆いま現に私たちの国にいる難民に寄り添う日本人たちが紹介されている。 支援の手を差しのべるだけでなく、その輪を広げるために、難民の人たちを迎えた企画展や映画などで多くの人に知ってもらう努力を続けている人たちが少なからずいる。 ◆入管法改悪という困難を乗り越え、真に開かれた社会に作り直すこと、それは現在と未来の日本人自身にとっても生きやすい社会を作っていくことである。 生きづらさは個人のせいでなく、《今現在の政治や社会の不作為+知らぬことからくるある種の恐れ+理由なき優越感に基づく憎悪+生命の危機に対する信じがたいほどの鈍感さ》がもたらしている。 ◆ミャンマー、クルド人……さまざまな文化的背景を持つ人々が誇りをもって生きられる国には、世界中から人が集まってくるはず。 同時に、そういう国は、日本の老若男女の誰にとっても、ホッと息をつける包摂的な社会だ。 そうした成熟した社会の一員でありたいと願う。 【6月20日東京新聞〈こちら特報部〉記事】 ★20日は「世界難民の日」 改正入管難民法成立、冷たい日本の実態 クルド人認定は世界5万人:日本1人 ⇒https://www.tokyo-np.co.jp/article/257713
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