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若松英輔「存在の秘義」[2023年01月31日(Tue)]

若松英輔『愛について』から、もう一篇。


存在の秘義   若松英輔


光がなければ
色は 存在しない
意味がなければ 言葉も
あなたが いなければ
わたしも



◆フッと唇から洩れ出た息のように短い。
だが、どの語も、何度も体内をめぐりながらあたためられていたと分かる。
それは、「あなた」にじかに伝えたい言葉だ。



若松英輔『愛について』2020.jpg
若松英輔『愛について』(亜紀書房、2020年)

装幀はこの詩集も名久井直子。同じ判型、紙質。手にした感じが何とも言えない。



若松英輔「時のありか」+インタビュー[2023年01月30日(Mon)]

若松英輔の第四詩集『愛について』(亜紀書房、2020年)を読み進めている折も折、今日の朝日新聞朝刊にインタビュー記事が載っていた。臓器提供を受けるレシピエントの葛藤をめぐり、「命のケア」について、身体だけで生きているわけではない人間存在というものについて語っている。
印象に残った言葉を二つ、以下に引いておく。

身体だけをみる世界観は、「結果」だけに目を向ける社会です。
でも、命は、「道程」なのです。苦しみ、悩み、逡巡。そのものです。


そう述懐する死の根底にあるのは、がんと闘った妻を見つめ続けた彼自身の生の深まりだ。

そばでずっと見ていて、命の違う層を生きているのが、はっきりと分かりました。
彼女の生きる姿が示してくれた命の意味は、時間を経て深まっていくようにも感じます。
「生」の底に苦しみがあることを知って、命を次いでいく。それを行う人は、無言のうちにも多くの人を救い得るとさえ思います。


(聞き手・山内深紗子)


◆今日紹介しようと思っていた次の詩と響き合うインタビューだった。


時のありか   若松英輔


あなたと
見たものは
眼の奥に

あのとき
聴いた音楽は
耳の底に

いっしょに
食べたものは
舌の奥に
刻まれている

贈ってくれた
水仙の香りは
心の奥に

あなたに
ふれたことは
この手が
覚えている

でも 時は
いったいどこに
仕舞われて
いるのでしょう

どうしたら
あなたと
過ごした日々が
よみがえるのでしょう



◆なんという深い喪失感が、これらの言葉にたたえられていることだろう。
どの言葉も、記憶が刻まれている心と身体の深奥から汲み上げられている。

◆どの詩篇も、共に生きたかけがえのない人に宛てた相聞であり、同時に挽歌であると感じながら詩集『愛について』を読んだ。

これらの「時」は、どこかに「仕舞われている」だけだ、としか思われないゆえに、今日も「わたし」は、身と心の奥処に釣瓶を下ろし、言葉を汲み上げる。



若松英輔『愛について』より「定義T」[2023年01月29日(Sun)]

◆若松英輔の四冊目の詩集『愛について』、巻頭は「定義T」と題する次の短い詩篇である。


定義T   若松英輔


愛とは
何かなど
改めて
考えずに
生きるなか
静かに育まれる
熾盛(しじょう)
悦び



◆「熾盛」とは「火が燃えあがるように盛んなこと」だと広辞苑にある。
「熾」は「熾烈(しれつ)」という熟語の場合と同じく、火の勢いの盛んなさまを表す。

その前に「静かに/育まれる」という形容が付されている。
「めらめら」でも「ぼうぼう」でもない、はた目には気づかれないかもしれないほどの、しかし決して消えることなどなく、むしろ日に日に勢いを増してゆく火。

そのように、観念でなしに体感されている「愛」。
「熾盛」は同音の「至上」という言葉と響き合ってもいるようだ。



若松英輔『愛について』より「定義V」[2023年01月28日(Sat)]


定義V  若松英輔


役に立つかどうかで
ひとをみるのは
打算

優れているか
どうかを考えるのは
評価

自分を忘れて
相手の心を映すのは
無私

目の前にいるから
身近に感じるのは
親しみ

だが 遠くになれば
なるほど強く
相手の幸いを願うのは


詩集『愛について』(亜紀書房、2020年)より


◆この詩集では《愛について》、二人称で語りかける詩が多い。
その中で、「定義」と硬めの題を有する3篇の詩、特にそのTおよび、ここのVは、読む者への押しつけがましさとは全く無縁で心にしみる。

「わたし」にはこう思えますが、あなたならどう考えるでしょう? と静かに問いかけてくる言葉が紡がれている。

◆第一・二連の「打算」や「評価」は、人を手段とみなしている感じがつきまとう。
自分はそんな目で人を見たりしないヨ、とほとんどの人は言うだろう。
しかし、実はそんな態度をしばしば取っていて、しかもそのことに無自覚でいることが少なくない。

◆第三連にある「無私」などは、心の在りようとして理想の一つ、プラスイメージの言葉ではないか、と思える。
だが、良く考えれば常人の至りがたい境地であって、自らこれを口にする御仁は、信用なるまい。

◆そう見ていくと、第四連の「親しみ」から「愛」へと移るように心が熟すことが自然で、誰にもたどり得る理想形だと思える。
無論、ここで言う「愛」は、身近な肉親からパートナー、地上のさまざまな境涯にある人びと、さらには神に至るまでのすべてを豊かに含んでいる。




〈権利〉は目覚めている:小熊秀雄「馬車の出発の歌」[2023年01月27日(Fri)]


馬車の出発の歌   小熊秀雄


仮に暗黒が
永遠に地球をとらへてゐようとも
権利はいつも
目覚めているだらう、
薔薇は暗の中で
まつくろにみえるだけだ。
もし陽がいつぺんに射したら
薔薇色であつたことを証明するだらう
嘆きと苦しみは我々のもので
あの人々のものではない
まして喜びや感動がどうして
あの人々のものといへるだらう、
私は暗黒を知つてゐるから
その向ふに明るみの
あることも信じてゐる
君よ、拳を打ちつけて
火を求めるやうな努力にさへも
大きな意義をかんじてくれ

幾千の声は
くらがりの中で叫んでゐる
空気はふるへ
窓の在りかを知る、
そこから糸口のやうに
光りと勝利をひきだすことができる

徒らに薔薇の傍にあつて
沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ
君の感情は立派なムコだ
花嫁を迎えるために
馬車を支度しろ
いますぐ出発しろ
らつぱを突撃的に
鞭を苦しさうに
わだちの歌を高く鳴らせ。



岩田宏・編『小熊秀雄詩集』(岩波文庫、1982年)より


◆ずいぶん前に、冒頭の4行だけ引いたことがあるが、昨日の新聞で「権利」について、別の角度から照らし出す文章に出会って、改めてこの詩を思い出すことになった。

新聞の文章というのは、1月27日の朝日新聞「論壇時評」の林香里氏の「コロナ下3年の人権 よりよく生きる 求めていい」である。

林は藤田早苗『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』(集英社新書、2022年12月刊)の一節を次のように紹介している――

国際人権法が専門の藤田早苗はG(上掲書)において、人権とは「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」という国連の定義を引きながら、「人権」とは政府への要求概念であると主張する。

《政府はどの人もその能力を発揮できるよう助ける義務がある》という視点が重要だ。(林の文章は、結びの「と主張する」という措辞が、せっかくの「国連の定義」を注ぎ水で薄めるみたいであるのが残念だが。)

「自己責任」論に飼いならされ、闇の中に逼塞してきたかのようなこの20年を抜け出すには、「人権」を持ち出すことに臆してしまいがちな私たち自身の思い切った発想の転換が必要だと感じて来た。「人権」とか「権利」を口にしようものなら、たちまち「お前の義務の方はどうなんだ?」と突っ込まれて下を向いてしまう人が多かったのではないか。

上の定義は逆だ。義務は政府の方に課されている。
ただし、黙っていても政府が義務を履行してくれるわけではない。
政府への要求を当事者として行動に移す必要がある。それが権利の行使、ということだ。

小熊秀雄の詩、
《沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ》

は、そのことを簡潔かつ明確に述べている。



夕べの富士[2023年01月26日(Thu)]

北の風雪をよそに相模の国原は晴れ、寒さが続く分、見晴らしは良い。

DSC_0402-A.jpg


夕刻、富士のシルエットも悪くはない。
中央の右手前の高層ビルは横浜薬科大の管理棟(かつての横浜ドリームランドのホテル)。
リフレッシュ工事が終わりを迎え、足場が上の階から取り外されつつある。

見えた部分だけで言えば、相当エッジの利いた装いにリニューアルした様子。
最上階の回転レストラン、どうなっただろうか。




最強寒波の余波[2023年01月25日(Wed)]

◆最強寒波の置き土産、凍った田んぼに文様が生まれていた。

DSCN6553.JPG

冬の田んぼで水がたまっているところは、そうそう無い。

その昔、境川を行き来する舟が着いたというあたりの、今も湿地の面影を残す田んぼならではの、つかの間の造形美だ。

DSCN6557.JPG


池下和彦「荷」「あずましかった」[2023年01月24日(Tue)]

池下和彦『母の詩集』(童話屋、2006年)は題名通り母を介護する日々を綴った詩集。さらに2編を――


荷   池下和彦


朝夕の食事のしたく
毎日の入浴の手伝い
こうした
世話がすこしも
荷にならないとはいえない
この荷が急にとれたら多分
わたしが
よろけてしまうという意味で


◆ことばどおり、結びの2行で読者も「よろけ」てしまうのがおかしい。
コントのオチに通じる。

先日、TVで井上ひさし「てんぷくトリオのコント」(こまつ座、2014年)を放送していた。(いろんなオチを紹介するシーンがあったが、コントではズッコケる形が多い。立場をひっくり返したり、ギュッと引いていた手綱をいきなり離してよろけさせたり。)

違う立場にヒョイと立たせたり、解き放ったり……とオチの効果はさまざまだが、ゴリゴリに凝った肩や頭をもみほぐして別の風景を垣間見せる。

笑いを甘茶のように喫して、深刻に住しない、というのが長く続く介護でへたばらないコツなのだろう。

***


あずましかった   池下和彦
 

家をあけて何日か
母を風呂に入れることができなかった
何日か振りの風呂あがり
母は
あずましかった
と言った
こころおきない気持ちをあらわす
この方言を耳にするのは
何十年振りだろう
あずましかった
同じ声の調子でくりかえして
母は何十年前の
母になる


◆「あずましい」とは「気持ちがいい」などの意味で、くつろいだ気分になって発する北国の言葉だ。
湯上がりだったり、肩をもんでもらったり、住み心地のいい住まいを訪れたりしたときなどにも用いる。

詩人は北海道生まれ。母の「あずましい」をほんとに久しぶりに聞いて、呼び寄せて良かったと思えたことだろう。

声だけでなく、肌もあたたかみとつややかさを取り戻して若々しい母の姿が目の前にある。
それを見上げる子どもの「わたし」もいる。




池下和彦「あらそうなの」[2023年01月23日(Mon)]


あらそうなの  池下和彦


部屋の引き戸があく
ひょっこり
母の顔
わたしは
なにか用? とたずねる
数歩こちらに近づいて
あのねとこたえる
そうこたえて部屋をでていく
わたしは
戸をしめていってねと声をかける
あらそうなの
という声をのこして戸はあいたまま
母は上手に戸をあけることができる


『母の詩集』(童話屋、2006年)より

◆認知症が引き起こす家族のイライラが亢進してしまうのは、たぶんわれわれが「個人の尊重」という価値を、自分だけに当てはめて、他者を適用の対象とは考えないことから来るのだろう。
自分の都合だけを優先すれば、たとい肉親でも時に憎悪の対象になり悲劇が生まれたりする。

老親の介護も、いたいけな幼子の養育もその点で違いはない。

◆この詩、「上手に戸をあけることができる」と受けとめられるのは修練の賜物か、生来楽天的であるゆえか知らない。
コツは、母がむかし我が子の成長を喜んでくれた気持ちに、今度は「わたし」がなってみることのようだ。
と言っても難しいわざではある。それでも親子だ。結ばれている糸を手繰り寄せさえすれば近づくことは可能だろう。諸事情あって糸がこんがらかっている場合には、丹念にほぐさねばならない。
ま、多少の根気は要る。



池下和彦「息子」[2023年01月22日(Sun)]


息子   池下和彦


心配ばかり掛ける息子の
嫁になるという娘に対し
父親が
その真意をたしかめる場面で
ぼくはないてしまった
母は
なぜないているのとたずねる
この映画を見てないているんだよ
とこたえる
そうなの
母は
すこしかんがえてから
からだに気をつけてね
と言い足す
山田洋次監督のこの映画では
ろうあの設定で登場するその娘が
どんな言葉よりも深く
父親の問いにうなずいていた
ぼくは
その娘のまねをしそこねて
母からなぐさめられている



池下和彦『母の詩集』(童話屋、2006年)より

◆認知症の母を詠った詩集。
その中に、映画「息子」(1991年)をめぐる一編があったので取り上げておく。
名画であるのは無論だが、この映画の撮影現場に遭遇したことがあって忘れがたいからだ。

◆ある夜、いつものスーパーに入って間もなく、いつもと違う雰囲気を感じた。通路を振り返って見たら、いつもより照明が明るいのだ。カゴを手にした買い物客も何人かいるものの、品物をカゴに入れる風がない。
落ち着かぬまま何品か入れたカゴを手にレジに向かってようやく分かった。
三國連太郎氏と山田洋次監督が雑談していたのだ。休憩中だったらしい。不思議な買い物客たちも出演者だったわけだ。
場所は善行団地の一角にあった生協ストアで、残念ながら、現在は無い。

◆映画では、岩手から上京した父親(三國連太郎)が心配の種である息子(永瀬正敏)のところに寄る。
夕方、スーパーに買い物に行った父親が店で東北訛りの男たちと遭遇して会話を交わす。そのシーンを撮影していたようだ。
この場面、青いCOOPブランドの牛乳などがしっかり映っているのもなつかしい。

◆詩の場面は、その後、息子のアパートで息子が付き合っている女性(和久井映見)に初めて会い、二人の結婚の意思を確かめるシーンである。
驚きながらも、本当だと知ってうれしさがこみあげる父親の表情、気がかりだった荷を肩からおろした気分で歌う姿も印象的だ。

雪深い岩手の家に帰った父親の、孤独だが安堵をゆっくりかみしめるラストも良い。
(回想と死を暗示するかのように射す光は、やはり映画館の中でこそ生きて来る、ということも改めて感じさせる。)

◆詩の結び、「ぼくは/その娘のまねをしそこねて……」という、どこかユーモラスな一節は、「ぼく」の方は映画の娘のように親を安心させるどころか、つい泣いて母親の心配を誘ってしまった、という意味だろうけれど、同時に、「素敵な伴侶を得て親を安心させることもできないで……」という気持ちもこめたのだろう。ままならぬことは、ままあることだけれど。



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