嵯峨信之「ひとの世ということ」[2022年07月31日(Sun)]
ひとの世ということ 嵯峨信之
それがひとの世というものです
いくつもいくつも夢をかさねながら
それが雲のように消えてしまうことが
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた夕もあれば
山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた朝もありましよう
なにかしら果もなくひろがつているものの端を
誰か見知らぬ人がそつと持つているように感じながら……
荒れはてた柵にとり囲まれている庭を通りすぎて
ふと自分のこころの中を覗いたような不安が
いつまでもいつまでもつづいた時など……
このごろはただ真白い小さな空間を
小さな時がながれているばかりです
わけもなく賑やかなひと通りを歩いてきて
わたしは疲れた身を横たえます
なにごともわが身の中でくりかえし
大きな夜がしずかに傾斜する窓ぎわで眠りにつきます
ある大きな手からわたしだけにつづいているいつもの深い眠りに
『嵯峨信之詩集』(青土社、1985年)より
◆「夜が〜傾斜する」という感じは、身を横たえ、全身を何ものかにすべて委ねて、そのまま眠りに就く時に感じられる感覚だ。
全身が疲れてはいるが、あれほど続いていた不安もいつとは知れず薄れて、安らぎに浸されている状態。
それは、人の世をつつむ自然の息づかいをかすかな静寂の中に感じることと一体のものだ。
来る夜も来る夜もそれを繰り返して来たから、疑う必要もない。
「真白い小さな空間」は身を横たえるシーツ。数万の夜をそこで過ごすとしても、一人の人間に与えられた時はささやかなものだ。
だがそれは、「誰か見知らぬひと」の「大きな手」に確かにつながっていると、信じられている。
◆反対に、不安と恐怖を煽ることに長けた「宗教」もこの世にはある。それを利用して来た「政治」も存在し、その二つが癒合し暴威を招来したことに、人の世にある私たちは驚愕している。
人々の肌を粟立たせ、素朴な信を嘲笑う者たちを、「宗教」とも「政治」とも呼ぶことはとうていできない。