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森崎和江「そのあたり」[2022年06月20日(Mon)]

森崎和江『地球の祈り』(深夜叢書社、1998年)から、さらに短い一篇を――


そのあたり   森崎和江


霧ふかく
みえないもの
みえないまま

川にあるあたり
山のあるあたり

わたしのいない そのあたり
人のけはい

かなしみのいろの
坐るけはい

ふれないまま
みえないまま


旅をゆく



◆短いだけでなく、ふかい霧につつまれてみえない。遠く深い世界をあゆむ者の気配を感知している。
それを「かなしみのいろ」とひらがなで表している。
「悲しむ・愛しむ・哀しむ」のいずれをも含んでいて、ひらがなが表しうるものの深さに驚く。

◆「そのあたり」とは未来を指しているようだ。先だった者の向かった先、自らの命終のその先に続く時間。(*この詩に接しながら、前々回のアルテミドロス〈夢は未来のことを表わす〉がなお頭の中に残響している感じがする)


森崎和江『地球の祈り』より「空」[2022年06月19日(Sun)]

◆十五日、詩人の森崎和江さん死去。享年九十五。
植民地時代の朝鮮慶尚道大邱府で生まれた。父は旧制中学で朝鮮の生徒たちを教えた。

『地球の祈り』と題する連作詩に、次のような一篇がある。



空   森崎和江


あのころ
といっても戦争に敗れたあとのこと
学生たちの朝は
米つぶがありやなしやの粥(かゆ)でした
だまって流しへ棄てる人
だまって胃袋へ流す人
米も麦も配給
ほんのひとすくい
わたしは食欲を失っていました
ひとあし ひとあし
考えながら生きなきゃならないのですから
見知らぬにほんで
にほん知らずの女の子が
笑い話ね

ああ
はるかな地図の空
からだのなかびっしりと罪の思い
植民二世は空を失いました

鳥さん
あなたに空はありますか


『地球の祈り』(深夜叢書社、1998年)より。
同題のラジオドラマも収載。


◆「空を失いました」――戦火の只中に在る人々の、薄い胸から吐き出される切実な思いだろう。



「お手本がない」ということ[2022年06月18日(Sat)]


お手本   友部正人


お手本という本があります。
子供はこれを読んで大きくなります。
誰が書いたのかわかりません。
大昔からあったものなのです。

おとなになってもお手本はあります。
お手本はくせになるという短所があります。
ずっとお手本に頼って生きていると
誰だってお手本を手放せなくなります。

どんなものにもお手本があります。
お手本はどこにでもおかれています。
さりげなくトイレにもおいてあります。
いつだってお手本を手にとってながめることができます。

寝るときにもお手本は必要です。
枕元にお手本はかかせません。
どうやって眠るかは人には重要なことです。
だけど夢見ることは教えてくれません。

夢にお手本はありません。
夢にお手本はありません。
夢の中のことはお手本にはできません。
夢のお手本はありません。

お手本マニアという人がいます。
あらゆるお手本をそろえてから生きる人のことです。
お手本を組み立てて迷路にして遊びます。
そしてそこから出られなくなります。

愛のお手本はありません。
ラブストーリーならたくさんあります。
どれもお手本みたいな顔をしていますが、
実は愛にお手本なんてないのです。

お手本がないものははやりません。
みんなお手本が大好きです。
お手本に自分を重ね合わせます。
だけど自分のお手本なんてどこにもないのです。

愛のお手本はありません。
自分のお手本はありません。
夢のお手本はありません。
お手本にお手本がないように。

いつかお手本がなくなって
古本屋さんでも見つからなくなったら
人はお手本から自由になって
愛や自分や夢を見つけられるでしょう。


友部正人(ともべまさと)『退屈は素敵』(思潮社、2010年)より


◆たまたま読んでいた本に、次のことばが引いてあった――

二世紀頃、ギリシャで書かれたアルテミドロス『夢判断書』は、冒頭で「夢(オネイロス)と睡眠中の幻覚(エニュプニオン)とははっきり区別される」と定義する。その違いは「夢が未来のことを表わすのに対し、睡眠中の幻覚が現在のことを表わす」ことにあるという。

 ――荒木浩『古典の中の地球儀』第7章〈夢と日本文化〉(NTT出版、2022年)

この定義を上の詩に応用してみるなら、「夢」は未来のことに属するのだから「お手本」などないのは当たり前だ、と納得せずばなるまい。この道をこれこれの通りに生きよ、と決められてしまっているなら、不自由のあまり、絶望してしまうだろう。
実際には、「お手本に重ね合わせ」た人生と自覚しないまま、独立独歩の我が人生と錯覚しているだけなのかも。

◆愛もまた然り、と言われれば、人生相談で持ち込まれる多くの悩みに対する回答のほとんどは好い加減なものだ、ということになる。
正解なんかないと突き放した方が、むしろ良心的な回答と言うべきだろう。

◆一方で眠りの中の幻覚は、さまざまに今現在の悩みや不安の表れであろうから、目覚めてなおそれを訴える声には、ただちに向き合わなければならない、ということでもある。



クラシツキ「主人と犬」[2022年06月17日(Fri)]

イグナツィ・クラシツキの『寓話集』からもう一篇。


主人と犬   クラシツキ
             沼野充義・訳


犬が泥棒を見かけ、一晩中がんばって吠え続けた。
翌朝、犬はなぐられた。御主人様を起こした罰として。
次の夜、泥棒がまた来るとは思わず、犬はぐっすりと眠った。
家は泥棒に入られ、犬はまた殴られた。吠えなかった罰として。


小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)より


◆吠えても吠えなくても殴られるのでは犬の身が持たない。
忠節を尽くすに値しない主人はしばしば世に存在するから、関係ないでは済まされない。

◆「犬」と「主人」は、「子ども」と「親」、「民草」と「独裁者」なとなど、何にでも置き換えられる。
けだし、子どもであれ民草であれ、権力者の気まぐれに付き合うにも我慢の限界というものがある。
回復不能なほど損耗する前に、覚悟を決めて反抗するほかない。

◆民主主義国家では、そうした心配はないとも言い切れない。
国民が主人公だと全く思ってない輩が権勢をふるうと、あらかたの人間が犬になる。



クラシツキの寓意詩「海と川」[2022年06月16日(Thu)]

◆18世紀のポーランドの詩人にして大司教であったイグナツィ・クラシツキ(1735-1801)の『寓話集』から……


海と川   クラシツキ
           沼野充義・訳

海は自分の果てしない大きさのせいで思い上がり、
流れ込んでくる川たちを馬鹿にしはじめた。
そしてこう言った。「水をこれ以上注ぎ込むことは止めてくれ」
テージョ川が答えた「そうかねえ。君が立派に構えていられるのも
ぼくたちがこうして豊かな大地を刻んで流れて来るからこそ。
もしもぼくが川でなかったら、君も海じゃいられないだろうに」



小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)より

◆そのまま絵本になりそうな一篇だ。
広大さを鼻にかける海は、大国の驕りに重なる。
一方、紆余屈折を経て海に注ぐ川は、休むことなく大地を潤してきた自負がある。
矜恃を忘れぬ苦労人のように、海に対峙して1ミリも臆することがない。

*地理のことに全く不案内だが、「テージョ川」とはスペインでタホ川、ポルトガルに入ってテージョ川と呼ばれてリスボンで大西洋に注ぐという川のことか。ネットで見る流域の美しさ、河口近くの悠々とした姿が印象的だった。







ラードヴィッチ「泣き方講座」その2[2022年06月15日(Wed)]

◆セルビアの詩人ラードヴィッチ「泣き方講座」、後半、第六課から終わりまでを――



泣き方講座   ドゥシャン・ラードヴィッチ
                中島由美・訳


第六課 必要なだけ払え

泣くな 誰も不幸な者を好まない
泣かずにすむなら 泣くな

いつも同じことで泣くな 少しは違うことで泣け
歯をくいしばって我慢しろ 自分を甘やかすな

泣くな 涙に負けるな
泣いても泣きすぎるな 次に残しておけ
他人が泣いているうちは 泣くな

泣くのは少しにして あとは耐えろ
必要なだけ払え

他人の前で泣くな 恥をさらすだけだ

しっ 静かに!
やつらのせいで泣いていることを
やつらに感づかれないように

忘れたくないなら 泣くな


第七課 いい人たちのために泣いてはいけない

いい人たちのために 泣いてはいけない
おまえらが泣くと 彼らが悲しむ

いい人たちのために 泣いてはいけない
おまえらが泣いたって 何の助けにもなりゃしない

いい人たちのために 泣いてはいけない
世の中はどうせ 彼らの善良さに値しない

いい人たちのために 泣いてはいけない
彼らが傷つくだけだから

いい人たちのために 泣いてはいけない
そんな余計なこと 彼らはちっとも望んじゃいない

いい人たちを憐れむな
自分を憐れめ


第八課 涙ももう涸れてしまった

老人は 泣かない
もう泣く理由が なくなったし
泣くのに疲れて しまったし
涙もまた 古びて
枯れてしまった


第九課 一滴の涙

すべてを生き抜いた 塩辛い 人生の涙
最も貴い 一滴の涙
理由のない涙 それこそが本物

一滴の涙が 世界を濡らす
一滴の涙で ひとりの人生が報われる
一滴の涙で 苦しみも忘れられる
一滴の涙は 何より重い

人生の終わりの 一滴の涙



小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)より

◆第六課の三連目〈泣きすぎるな 次に残しておけ〉など、噴き出してしまう。
その先、「やつらに感づかれないように」、「忘れたくないなら」とは臥薪嘗胆の戒めか。

おまえを泣かせる「やつら」の対極にいるのが第七課の「いい人たち」だ。
「たち」と複数形であることが大事だ。善良な人は少数派であっても決して一人ではない。そのことを知ってさえいれば十分やっていける。「世の中はどうせ 彼らの善良さに値しない」のだから、と超然としていればいい。

◆訓戒のことばが並んでいるのに押しつけがましさがないのは、ユーモアと、「いい人たち」の「悲しむ」まなざしのおかげだ。「泣く」のは悲しいことや辛いことに出くわすからだが、その泣く者を見守る「いい人たち」の悲しみは、自分自身より、他の人の痛みを見つめているところから生まれる。

◆そんな経験を重ねていけば、涙はやがて理由など必要としなくなる。
達観とか悟得とかいうことではないが(それらであってはマズいということもないけれど)、
同じこの世界の誰かの姿をただ映すためだけに一粒したたる涙があるのだろう。
映っているのは、彼の命終(みょうじゅう)を見届ける人の姿だ。




ラードヴィッチ「泣き方講座」その1[2022年06月14日(Tue)]

『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』所収のセルビアの詩人から、もう一人、ラードヴィッチのユニークな一篇「泣き方講座」、その前半を――


泣き方講座   ドゥシャン・ラードヴィッチ
                中島由美・訳


第一課 他に何もできないから

子どもは生まれると すぐに泣く
ほかに何もできないから

小さな子供は 泣く
考えることができないから
泣くことしかできないから


第二課 詩を書くように

我々は泣く 好きな人に思いが届かなくて
人生は辛い 泣くのはやさしい

我々は泣く そして運命に妥協する
我々は泣く ほかに悲しむ方法を知らないから

人生は泣くためにある

我々は泣く 詩を書くように
それは誰かのためにできる 最後のこと


第三課 幸せだとも知らないで

泣いている
不幸だと思い込んで
幸せだとも知らないで

「なんで泣いているの?」
「もう我慢できないんだ」
泣き出して はじめて悲しくなるやつもいる

道の半ばで泣く
始まりから既に遠く 終わりにもまだ遠い
すべてが遠くて とても届きそうにない


第四課 もう他にどうしようもない

泣きなさい 他に何もできないなら
泣きなさい 楽になるよ
少し泣いて 少し我慢しなさい
泣くのは楽だ 我慢するのは辛い
泣きなさい そのほうが楽なら

泣きなさい
そして考えなさい 泣いている人すべてのことを

泣きなさい 痛みを忘れて一息つきなさい
泣きなさい その方が健康にいい
泣きなさい 泣きなさい もう他にどうしようもないんだから

泣きなさい 泣きなさい
許してしまいなさい でも忘れてはいけない

泣くべき時に しっかり泣いておこう
どうせまた 次のがやってくるのだから


第五課 涙にもいろいろある

涙にも 人間と同じように いろいろある

ひかえめな人は 恥ずかしそうに泣く
泣くときにも 自分の程度をわきまえる
自分勝手な人間は 涙も出さない
幸せすぎて泣く それはまた違う涙だ
ばかなやつはばかだから 泣く
ほかに泣く理由なんかありゃしない
ちびどもは泣いているんじゃない ぴーぴーいってるだけだ
まだ本当の苦しみがないのだから 本当の涙もない
小さな苦しみと小さな涙は 大きなものの前で遠慮する

簡単に泣くのは 忘れっぽいやつだけだ



小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)より

ドゥシャン・ラードヴィッチ(1922-1984)は、子どものための詩人として活躍。児童向けの新聞や番組制作にも携わったそうだ。
1986年に出版された詩集『泣くことについて』から9編抄録されているうち、とりあえず第一課〜第五課の五篇。

◆泣くことのほかに何もできない子供を、だからといって、バカにしているのではない。「考えることができない」からといって、無視したりイジメたりしているのでもない。

北斎なら「泣き顔百態」として描きそうな、人間の多種多様な感情表出。それは、この世に生まれ出た瞬間の泣くことに始まるわけだ。
この絶対の真理。
笑いながらこの世に現れ出る子供は、いない(たぶん)。



スルバ・ミトロヴィッチの短詩[2022年06月13日(Mon)]


◆『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』にはセルビアの詩人も載っている。
ユーゴスラヴィアの解体その後については殆ど知らないが、ミトロヴィッチ(1931-2007)という人の短詩を少し紹介する。



喚起力  スルバ・ミトロヴィッチ
         田中一生・訳


自分のいなくなった世界を
想像できるだろうか。

あれこれ考えずに、こうすればよい。

息を止めるのさ。すると
確実に予感できる。



◆諧謔と批評眼は背中合わせだ。それは常に世界に向けられているが、口先でなく実行を伴わねば。ただし本当に死んじゃってはまずい。

◆注意喚起に成功したら、惰性の日常を眺め直すことだ。
(まずは、足もとから。習慣の奴隷に甘んじていないか?)



旅人  スルバ・ミトロヴィッチ
       田中一生・訳

ごみの詰まった
黒い袋を両手に
ぼくは家を出る。

習慣と欲求と運動の奴隷、
ぼくは旅に出るのか、それとも
世界の河口にたどり着くのか。



◆河口にはありとあらゆるゴミが世界中から集積する。川上に想像力を働かせてゴミを出さないことが先決だと切実に分かるころには、足腰が利かなくなっていたりする。


*ミトロヴィチは芭蕉や蕪村の翻訳紹介にも尽力した人だとのこと。
〈三行詩、あるいは俳句の試み〉という詩群もある。


*いずれも小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)に拠った。



シンボルスカ「雲」[2022年06月12日(Sun)]

『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』に収められたシンボルスカのもう一つの詩は「雲」という作品だ。


雲  ヴィスワヴァ・シンボルスカ


急がなくてはならないのは
雲の描写だ
一瞬の中に
その姿を次の形へと変えていく

それらの特色といえば
形といい、色あい、ポーズ、配列も変幻自在
決して同じ繰り返しはない

いかなる記憶という重荷も背負わされることなく
地上の諸々のごたごたに煩わされることもない

たとえ雲の中になにかの事件の証人がいたとしても
あっという間にいずこへともなく姿をくらましてしまう
雲と比較したら、人生というのはずっと地面に縛られているように思われる
いつまでも、そしていつまでも
雲は、遠くて何だか心もとない従姉妹のような存在
そしの下では石ころだって信頼に足る兄弟のように見えてくる

もし望むなら人は思った通りに生きてゆけばよい
そして最後になってそれぞれの人生を全うすればよい
人間という不思議な生き物も
雲にとってはどうでもいいもの
まったく無縁なこと

もう終わりを告げてしまった貴方(あなた)の人生
そしてまだ残されている私の人生の上を
あの時のように雲のパレードが流れてゆくこれ見よがしに
雲にはわれわれと生死を共にする義務なんてない
流れ去っていくだけ、姿を人に見せる必要なんてないのだから


小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)より。


◆刻々に姿を変えて行く雲というものから説き起こし、三連目の前半までは凡庸と言ってよいほどの詩句が続く。

「記憶という重荷」「地上の諸々のごたごた」という風に、地面に縛りつけられた、人間という不自由でどうしようも無い生きものの姿が語られていく。

だが、そうした人生訓もこの詩の主眼ではない。
第四連の終わり二行「雲にとってはどうでもいいもの」――突き放された気分が歌われ、その理由は、最終連で語られる。

――逝ってしまった「貴方」、なのに、関知せずというように流れてゆく雲が「私」の悲しみを際立たせる――雲になったのでもなければ、空の星になったのでもない――遺された「私」に、見上げること以外、何ができよう。


シンボルスカ「詩篇(祈り)」[2022年06月11日(Sat)]

◆『文学の贈り物 東中欧文学のアンソロジー』という本をめくっていたら、シンボルスカの詩が三篇載っていた。
「玉葱」という以前紹介したことのある詩の他に、冒頭を引いただけで終わっていた「詩篇(祈り)」という詩に再会した。
今回は全体を載せて置く。

ロシアのウクライナ侵攻が目の前に突きつけられた現在、鳥や蟻の足もとにも及ばない人間の滑稽な化かしあい、という指摘に学ばなければ、という気持ちになる。
シンボルスカの祖国ポーランドもまたロシア(ソ連)、ウクライナと地続きで辛酸をなめてきた土地柄だ。
歴史の酸いも甘いも溶かし込んだこうした詩を読めば、最近流行の「地政学」なる単語を操って高説をもてあそぶ「専門家」に対しては、間に「馬」の字を入れたら?と、からかいたくなる。

*******


詩篇(祈り) ヴィスワヴァ・シンボルスカ
             つかだみちこ・訳

人間のつくり出した国境とは
なんと疎漏なものであることか!
どれほど多くの雲がその上を罰せられもせず
とおりすぎてゆくことか
どれほど多くの砂漠から吹き飛ばされてきた
砂塵が国から国へとふりまかれていることか
どんなに多くの山の小石が他国の領土へと
転出していったことか

飛び去ってゆく鳥 またおろされている
遮断機の上に 羽を休めている鳥について
ここで私がいちいちあげつらわねばならないのか?
それがたとえ小さな雀であろうと――そして
その尾っぽが既に隣国の国境を越えてしまっていて
嘴はまだこっちの国の領土にあったとして
それにしても彼らはなんとバタバタと
落ちつきなく動きまわっていることか!

数えきれない程多くの昆虫が蠢いている
だがここではとりあえず蟻の話にだけ
とどめておくことにしよう
それが国境警備員の左と右のブーツの間を
行ったり来たりしていたとしても
彼らだつて″どこから?″とか″どこへ?″なんて
野暮な質問はしないだろう

大陸という大陸での
こんな無秩序なあらゆることに
くまなく目を注いでなるがよい
なぜといって これは対岸から密航してきた
十万葉もの水蝋樹(すいろうじゅ)の葉ではなかったか?
その向こう見ずな蛸の長い腕が聖なる水域を
侵さないとだれにいうことができるか?
だれに光を注ぐかということで星座の位置を
ずらすなんてことができるとでもいうのか?

ましてや霧を拡大するなどということを!
はてまた砂塵が所狭しと吹きすぎてゆく大草原を
半分にちょん切ってしまうことなんか!
そしてゆったりと分け隔てのない空気の波に乗って
響いてくる声たち
そしてたがいに呼びあい誘う甲高い叫びと
意味ありげなゴロゴロという音

ただ人間だけがエトランジェなんかつくっている
挙げ句の果ては魑魅魍魎の化かしあい


小原雅俊・編『文学の贈り物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷、2000年)より。
(*土曜美術社出版販売の世界現代詩文庫にも、つかだみちこ訳で入っているが、そちらは二段組みなので、印象がすこし異なる。)

*なお「水蝋樹」は、図鑑では「イボタノキ」のことだというが、日本のそれと同じものを指すのか、またその木がどんなイメージを帯びているのかなど不案内である。



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