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友部正人「まるで正直者のように」[2022年06月30日(Thu)]

◆友部正人のアルバム『大阪へやって来た』収録の歌の中から「まるで正直者のように」を――

青い時間が脈打つ年ごろ――友が放つ自分にはない輝きにせきたてられるみたいに、自分なりの鉱脈を探り当てようとする青春時代――背伸びや気取りも含めて夢想という風船に幾つも結ばれて風の中を漂う若者――彼もいずれは旅立たなければならない。



まるで正直者のように 友部正人


昼ごろ眼を覚ましあんたは出かけてくる
信号を渡る時ポケットに手をつっ込み
スタイルはとてもかっこいいな
彫りの深い顔はいつもうつむき加減
北風が髪を吹き上げて
久し振りだと手を振りながらやって来る
まるで正直者のようにあんたは
優しくほほえむ
でもぼくはもう振り向きはしない

寝不足の顔で
あんたは友達に会いに来る
肩を抱き合いステキだった
昨日を取り戻しに
遅くまで話し込もうよ
コーヒーを飲みながら でも
片手で耳をふさいでいては
何も聞こえないでしょう
誰とでもすぐに恋ができて
それがすぐにおしまいなら
小石を蹴って生きるより他はないでしょう
まるでぼうけん者のようにあんたは
闇に入り込む
でもぼくはもう背中を向けるつもり

いつの間にかあんたは見はり台に
立っている
僕の為じゃなくて君の為にだと
手みやげをいっぱい抱えあんたは
店を開くけど
今まであんたが軽蔑していた事を
繰り返してるだけだよ
君はいつも人をごまかしていると言うけど
あんたは自分の影を踏んでいるだけだよ
まるで救い神のようにあんたは
扉を叩くけど
でも僕にはもう返事をする気もありません

大通りでふいにかけ寄りたい
友達もいるけど
背中を向けて逃げ出したい時もあるものさ
腹黒いなどと言いふらし小さく嘆くあんたも
一人になって唄いたい時もあるでしょう
とられたものはもうあきらめて
獣のような毎日を通り抜けましょう
まるで被害者のようにあんたは
座り込む
でも僕にはもうそれが
すべてゲームのように見えるよ
誰だってステキな恋に狂いたいもの
でも昔に守られていては
おどける事もできないでしょう
腕くらべはもうたくさん
いつの間にか死んでしまう
口約束を裏切るのもまた自由なのだから
どれだけのコートで身を包めば
話が始まるのだろう
毎日の議論の結果の一人よがりをみつけた
まるで宣教師のようにあんたは
立ちはだかるけどでも僕は
今のんびりと彼女を待ちたい気分


友部正人『大阪へやってきた』(URCレコード MD30-4138、1987年)より。
*1972年リリースの友部の最初のアルバムのCD復刻盤。

◆庇護者であり人生の指南役でもあった友との濃密な時間もいつかは終わりが来る。
成長、省察、他者との新たな出会い……いずれにせよ、敷かれたレールから離れて凸凹道を歩き始めるように促す時は必ず訪れるようだ。

◆選挙が近いせいか、この詩の「あんた」を〈自公政権〉に置き換えられることに気づいた。

政見放送では「まるで正直者のようにあんたは/優しくほほえむ」。公約並べ「君のためにだと/手みやげをいっぱい抱え/あんたは店を開くけど」、高い買い物をしてスッテンテンにさせるのが狙い。「取られたものはもう諦めて/獣のような毎日」。この地獄から逃げ出そうにも、「宣教師のようにあんたは立ちはだかる」。
そう。微笑みをたたえて人々を善導、しかし実は「見張り台」からニラミをきかしているのが彼ら、なのだった。



友部正人「けらいのひとりもいない王様」[2022年06月29日(Wed)]

「けらいのひとりもいない王様」より  友部正人


けらいのひとりもいない王様が
草原を行く
王国を一度も持ったことのない王様が
馬に乗って行く
浜辺では魚たちが騒いでいる
王国はいつも王様の入っていけない
ところにある

月は線路端の柵を
照らしている
男の子の親たちは家の中で
晩ごはんを食べている
ねえ、君だけどうして
晩ごはんを食べないの
家族はいつも男の子の入っていけない
ところにある

汽車は坂道をのぼり
山をくだる
旅人はドアのところでさっきから
外の景色を見ている
おじいさんやおばあさんたちがひざを折り
お茶を飲んでいる
旅はいつも旅人の入っていけない
ところにある


『名前のない商店街』(思潮社、1980年)より


◆七連ある詩の前半三連。


◆むかし、倫理の時間に「人間疎外」という言葉を教わった。
いまこの言葉をほとんど見かけないのは、問題が解消したからではなく、むしろその逆。異とするに足りないほど、「疎外」が常の状態になっている、ということだろう。

◆自分たちにとって望ましくない状態なのに声をあげないというのは、意気地無しだ。




〈距離〉は大切か? 友部正人「遠来」[2022年06月28日(Tue)]

友部正人詩集『空から神話の降る夜は』(1986年刊)の掉尾を飾る次の詩、三分の一世紀後のコロナ禍、「ディスタンス」が人間関係の親疎を物語るようで気にせずにいられなくなった2020年代の「いま」を予告していた感じがある。

***


遠来   友部正人


君がニューヨークにいるのと同じように
ぼくは東京にいる
君がニユーヨークでアパートを借りているのと同じように
ぼくは東京で借家住まいだ
君はニューヨークで新しい友だちを見つけただろうか
ぼくは東京で見つけたよ
そしてぼくも君も東京とニューヨークで
歌のことを考えている

君がインドにいるのと同じように
ぼくは東京にいる
君がインドで丘の上の大木を見上げているように
ぼくは東京で庭の木を見上げている
君はインドで赤いけさを着てお祈りしているという
ぼくは東京でコーヒーを飲みながら
お祈りしているよ
そしてぼくも君も東京とインドで
湯気をたてて晩ごはんの仕度をしている

君がフランスにいるのと同じように
ぼくは東京にいる
君はフランス人の書類第一主義のやり方に腹をたて
ぼくは日本人のあいまいなやり方に腹をたてる
たまにはおいしいものを食べに行くよと
君から手紙が届いた
ぼくは東京にいておいしいものって何だろうと思ってる
そしてぼくも君も風向きが変わり
ヨットは同じ方に走りはじめている

君が台湾にいるのと同じように
ぼくは東京にいる
君は台湾に行ってアジアが見えたかい
ぼくは東京にいてこの町もわからない
こんなにたくさんの人が生きているのにという
そんな悔やしさにおそわれることはないかい
そしてぼくも君も東京と台湾で
捨てるものの無くなったドブ川をながめている

君が地球にいるのと同じように
ぼくも地球の上にいる
夜になるとたくさんの街の灯が
つながってひとつになるのを見たことがある
ぼくらはいつもどこか遠くから
ぼくらのいる星をながめている
そしてぼくも君もこの地球の上で
わかり合えないまま距離ばかりを大切にしている



◆「ディスタンス」=「距離」は、意識のありよう・想像力の働かせかた次第なのであって、「お上」のガイドラインが我々に加える掣肘(せいちゅう)に対して、常に注意深くそれを相対化することが必要だ、ということを示唆している。
権威を「絶対視」すれば、我々の友や家族を、奴隷として独裁者に差し出す結果になってしまうから。

「わかり合えぬまま距離ばかりを大切にしている」のが現実なのだとしても、同じ地球上の者同士、同じもの目撃し、同様のことを考えている、そのことさえ分かれば、あとは、つながろうとすることだけだ。



友部正人「空から神話の降る夜は」[2022年06月27日(Mon)]

◆関東地方、拍子抜けするような梅雨明けの報。月は空に無く(陰暦5月29日)星の瞬きが見える夜空だ。こんな夜には何が空から降るだろうか?


友部正人詩集『空から神話の降る夜は』の標題作を――



空から神話の降る夜は  友部正人


空から神話の降る夜は
星のいびきが聞こえます

すっかり灯のない町並は
星の夜空につづきます

物陰でごそごそあらさがし
のら猫は一億年間変わらずに

どこかに顔を忘れてきたぞと
路上でふらつく人の影

月の光を運ぼうと
片足どこまでものばす川

かげぼうしからかげぼうし
つないでいるのは電話線

自分の影を踏みしめて
歩く以外に道はなし

たずね人は遠すぎて
ぼくの思いのありかより

持ち主のない物音に
町は時おり寝返りをうつ

自動販売機にさしこんだ
百円玉の軽い音

空から神話の降る夜は
両足そろえて歩きます


友部正人『空から神話の降る夜は』(思潮社、1986年)より


◆空から「神話」が降る夜は、地上の変哲もない者たちを、ひと晩だけ妖しくきらめかせるのかもしれない。

「どこかに顔を忘れてきたぞ」と言う男は、酩酊しているのか、その脚は月に照らされて長い影を川に落としている。片足だけに見えるのは、すでに地上の者でなりかけている証拠。

見れば町をさまよう影法師はあっちにもこっちにもいて、電線で彼らはつながって入るように見える(誰も顔を失ってしまっていて、どこからか指令が電気信号で送られてきているにチガイナイ)。

浮ついた自分の影が、身から離れて行かないように踏みしめ、チャンと両足が揃っているのを確かめながら歩かないと。
ホラ、今入れたコインの音だって、重力に逆らって浮いたみたいに、心もとない感じじゃないか?


友部正人「世界の言葉が音符だったら」[2022年06月26日(Sun)]

世界の言葉が音符だったら   友部正人


時々バスは大回り
たくさんの人を乗っけるために
そんな時ぼくは外を見ながら
とっても愉快なことを思いつく

世界の言葉が音符だったら
こんなに苦労することはないだろう
なにしろ翻訳は良ければ良い程
元の作品から離れていく(多分ね)

世界の言葉が音符だったら
こんなに大変なことはないだろう
色々おまじないをやらなくても
心の池の中にとびこめる

世界の言葉が音符だったら
友情だって見つかるかも
特に言葉の通じない外国で
喋りたくてもだまっていなくちゃならない時

そりゃ もちろん音符だから
受け取り方だってまちまちさ
だけど決まりがないってことで
もっと自由になるものがあるかもね

通りにあるお店に入ったら
聞き慣れない音楽がかかっていた
何世紀も前の音楽なのに
たった今語りかけられているみたいなんだ

ぼくの好きな詩の本には
みんな音符が書かれている
もちろんそれは目に見えないし
口ずさまないと聞こえないけど

金曜日の午後 バスに乗りながら
ぼくはこんなことを思っていた
少なくともぼくは音符という
世界中で通じる言葉を知っていると



友部正人『空から神話の降る夜は』(思潮社、1986年)より

◆音楽の自由さに比べたら、言葉は何とも不自由極まりない――作者のように世界のあちこちを歩いて回った人でなくとも、そう思う人は多いだろう。

翻訳を経なければ思っていることを通じ合わせることは難しいし、心底分かったと思える瞬間がなければ友情も生まれない。

「世界の言葉が音符だったら」と夢想するのは、当然だ。
無論、広い世界には、「わかり合う」ことはそんなに大事じゃない、と考える人もずいぶんいる。
(そういう人間でも、相手の無視は好まないから、「わからせる」ためにあらゆる手段を動員したりする。いわば自分の都合のために相手に不自由を強いたりする。そのために、「言葉」によるプロパガンダを重用する。)

◆音符の働きは逆で、我々を限りなく自由にしてくれる。

◆詩もまた、人間を自由にしてくれるのでなければ。



ブコウスキー「ちっちゃな原爆」[2022年06月25日(Sat)]

◆「反撃能力」だの「戦術核」だのとゴタクを並べている政治屋どもに、ブコウスキイの次の詩を――


ちっちゃな原爆  チャールズ・ブコウスキー
                 中上哲夫・訳


おお、おれたちにちっちゃな原爆をくれ
そんなに大きなくて
通りの馬一頭を殺せる程度の
ちっちゃな奴を
だけど通りに馬なんかいやしない

うん、ボウルから花どもを吹き飛ばす程度の奴を
でもボウルには
花なんて
ない

それから
恋人をびっくりさせるような奴を
でもおれには恋人なんて
いない

うん
それから汚いが愛らしい子どものように
バスタブでごしごしこするような
原子爆弾をくれ

(おれの部屋はバスタブつきだ)

ちっちゃな爆弾を
将軍、パグ犬のような鼻と
ピンク色の耳の、
七月
の下着のように臭う

おれがクレージーだと思うか?
おれの考えではあんたもクレージー

そんなわけで
あんたが考えるように――
だれか他の人間が使う前に
おれに送ってくれ



中上哲夫・訳『ブコウスキー詩集 指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っ払ったピアノを弾け』(新宿書房、1995年)より


◆硝煙と埃と汗の臭いにまみれて最前線にいた兵士が、(陣幕の向こうで)入浴中の将軍殿に直談判している――そんな情景を想像する。

将軍殿の耳元で、もう二行、ささやくように付け加えたい――


イヤホンくらいにちっちゃくて、
耳垢から内臓脂肪まできれいに吹き飛ばしてくれる程度の、ね。



◆この詩の朗読、乾ききったダミ声で、さもなくばBS週刊ニュースでAIが読み上げる、あの淡々とした一本調子の人工音声で。




友部正人「真理について」[2022年06月24日(Fri)]

◆朝9時前に外は29℃、昼前には30℃を超えていた。救急車の音が何度も聞こえ、我が家の前も一台が通りすぎた。異様な一日。
コロナのことを暫く忘れかけていたが、これもこの一週間ほどは前週より増えている。と思ったら家人には4度目のワクチン接種券が届いた。そんな現実の通知も暑さの中に溶けていくような一日。

*******


真理について   友部正人


ぼくにも真理が見えるとしたら
それは午前二時半にやってくる
真理はぼくに気づかれないように
ぼくが眠っているうちにそっとやってくる

もしもそのときぼくが目覚めていれば
ぼくにも真理がみられるのだが
午前二時半はぼくが一番深く眠っている時刻
真理がどんな大きな足音はたてても目がさめない

だからぼくが午後十時に寝ることにした
そしたら自然に午前二時半に目が覚めるかもしれない
人は四時間半眠れば目が覚めるというではないか
ちょうど真理がぼくのところにやってくる時刻

ああ、だけど真理にそのことを気づかせちゃいけない
目覚めても眠ったふりをしなくちゃならない
ぼくは夜の景色になって
ただじっと真理が通過するのを見ていよう

やがて真理がぼくから遠ざかっていき
ぼくはまた深い眠りにおちる
朝になるともう何も思い出せないから
ぼくは真理なんて見たことがないと思っている



友部正人詩集『退屈は素敵』(思潮社、2010年)より


◆「真理」は一つの絶対的なものだと思われているかも知れないが、恐らく本当は人によって違う姿かたちをしている。一瞬も同じ相にとどまっていない雲に近いかも知れない。それは「しんり」と読む(呼ぶ)場合。
この詩ではもう一つ、人間みたいに「まり」という読み方(呼び方)を重ねて、人がそれぞれの全身全霊の愛を傾ける唯一無二の人、というイメージもダブらせているように思える。
ではラヴ・ソングか、というと、それだけでないように仕掛けてある。
夢(=未来の時間)の中に確かにやって来る人。だが、目を覚ませばもう見たことをすら忘れている。だからまた、ちゃんと見ようと思うのだ。かくして、生きて在る限りは、その姿を見ようと願い続けることになる。未来に向かって生きる熱源というべきもの。
かくて、ごくごくシンプルなことばによって、個別的でありながら同時に普遍的でもある詩の世界が現れた。


徳元穂菜「こわいをしって、へいわがわかった」[2022年06月24日(Fri)]

◆6月23日の沖縄慰霊の日、糸満市の平和祈念公園で行われた「沖縄全戦没者追悼式」では、沖縄市立山内小の2年生、徳元穂菜(ほのな)さんの平和の詩が朗読された。

去年、宜野湾市の佐喜眞美術館で「沖縄戦の図」(丸木位里・俊)を見たときの体験にもとづくものという。詩の全文を――



こわいをしって、へいわがわかった

                  徳元穂菜
(ほのな)

びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな

こわくてかなしい絵だった
たくさんの人たちがしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん
風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった
おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ
たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている

こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ

せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?
きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな?

おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな?

せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように

こわいをしって、へいわがわかった




ブコウスキー「町の掲示板に貼られた政治家候補者の顔」[2022年06月22日(Wed)]

◆参院選公示。
毎度同じ場所に設置されるポスター掲示板、こんなところに! と、立ち止まる人の居そうにない場所に立つものも結構ある。

境川を挟んで横浜市側も藤沢市側も、日程が確定する前に掲示板を設置してはいたが、横浜市は「7月10日投票日」の文字も貼りだした掲示板になっていて、フライングではないかと疑問があがっていた。話題を提供するのも投票率をアップさせる作戦のひとつ、と企んだかどうか。(藤沢市の方は公示日の今日、一斉に投票日を明示したポスターを追加で貼った。市内各所の災害用拡声器から、期日前投票を告知する放送もあった。初の試みかも知れない。)

◆「よ党」と「ゆ党」と揶揄される人たち、この湘南の奧地まで回ってくるかどうか。来ても握手はしないと思うけれど、ミーハーだから、ツイ手ぐらい振ってしまうかも知れない。

*******


町の掲示板に貼られた政治家候補者の顔
              ブコウスキー

                        中上哲夫・訳

この人物は――
めったに二日酔いにならず
めったに女性と喧嘩せず
めったに人を退屈させず
一度も自殺を考えたことがない

歯刷毛はせいぜい三本で
一度も食事をとりそこなったこともなく
一度も刑務所に入ったこともなく
一度も恋に落ちたこともなく

靴は七足

息子は大学生で

車は一年間使用車

保険証券

青々とした芝生

蓋がきちんと閉まったゴミ缶

この人物は選ばれるだろう



中上哲夫・訳『ブコウスキー詩集 指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っ払ったピアノを弾け』(新宿書房、1995年)より

◆飲んだくれたり、喧嘩したり、また時にはひどく落ちこんだりする民衆とは異なり、堅実を額縁に納めたような経歴と暮らしぶりを笑顔にこめた「候補者」――

――むろん、辛辣な皮肉だ。取り違えるはずはないと思うけれど、念のため。

友部正人「悲しみの紙」[2022年06月21日(Tue)]

友部正人『退屈は素敵』からもう一篇――


悲しみの紙   友部正人


おしゃべりな友だちの口から
こぼれ落ちた紙くずは
とてつもなく大きな
悲しみの紙だった

とてつもなく大きいのに
何も書いてない紙だった
何も書いてないのに
悲しみだけが読み取れた

どこにもしまうことのできない
大きな紙だった
通りを行く人たちに
悲しみだけが見えた

紙飛行機にして飛ばしたくても
折りたためる人はいなかった
広げたら二度とたためない
悲しみの紙だった

悲しみが紙になる前に
君のことが知りたかった
紙がまだ折りたためるうちに
君に会っておきたかった

飛行機雲のような悲しみが
どこまでもどこまでものびていく
時間がたってもなくならない
いつまでも消えない悲しみの紙



友部正人『退屈は素敵』(思潮社、2010年)より

◆一読、「悲しみ」←→「紙」という二語が同音二つを共有することから生まれた詩のように感じて、繰り返し読んでいた。「かみ」の真ん中に「なし」が挟まると「悲しみ」に変わる、ということでもある。「なし」を取ると「かみ」だけになる。
「紙」には「何も書いてない」。「なし」なのだから当然とも言えるけれど、そうした思いつきで遊んでいるわけでは無論ない。

◆「何も書いてない」のは無量の悲しみがここにあるからで、どんなに彼が「おしゃべり」だったとしても、すべてが語られるわけではない。あるいはふんだんな時間と幾千本の鉛筆があったとしてもサラサラ書けるようなものでもない。

ただただ存在することそのものが悲しみにほかならないのだから、その無量に目を見張り、見つめ続けることが、友として為し得ることじゃないだろうか?


★詩集『退屈は素敵』の前半には、曲のついた詩が多く収録されていて、「悲しみの紙」もその一つ。YouTubeに作者の歌うこの歌がアップされている。
聴くほどにじんわりしみわたる。

https://www.youtube.com/watch?v=ztpm9UA_vR0



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