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北島(ペイ・タオ)「コレクション」[2022年05月31日(Tue)]

           ペイ・タオ
コレクション  北島
                是永駿・訳



窓が空に額縁をとりつけ
空はわたしのコレクションとなる

黒いゴムの山脈
世紀の夜
星に命名した者が聞く
角笛の嗚咽
その金属の苦しげな息
大地の囲いの中で
ひとりの金属の赤児が生まれ
開かれた田野に向かって呪いの言葉を吐く
扇子は病み
季節を問いつめる風は海に溺れ
何千何百もの灯籠を押し流し
亡霊たちのために路を照らす

窓がわたしに額縁をとりつけ
わたしは空のコレクションとなる



是永駿・編訳『北島詩集』(書肆山田、2009年)より

***

◆窓を額縁として目に映る外界の景色は、いずれも不吉な画面だ。
常ならば夜明けが近いことを告げる角笛の響きさえ、葬送の列を導くように聞こえる。

歴史をひもとくまでもなく、この地上では、耕す者は兵にとられ、家を守る老親・妻女も病に呻吟し幾度の春を空しく過ごすことだろうか。

◆結びの二行――窓の向こうに幾枚もの画を眺めていた「わたし」が、空によって眺められる側に回る――「わたし」が傍観者でなく、幾千億の人間の一人として、生きて死ぬ営みの列に加わっていること。これまでも、この先も「見られているひとり」であること。
舞台が反転し、見物人が舞台の上に自分を見いだしたような驚きと運命を受け入れる覚悟と。


*以前、安住幸子の詩「夜をためた窓」で、窓の向こうから月がこちらを見ている、という情景を読んだことがある。

北島のこの詩は、時間をさかのぼり、また流れ下ることで、時空もろとも一気に押し広げた。

突然訪れた運命のような瞬間を、天地が闢(ひら)いた時のように受けとめて立つ、空が見ている自分を、そうイメージしている。

★関連記事【安住幸子『夜をためた窓』2021年11月8日】
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/2128



北島(ペイタオ)「朝の物語」[2022年05月30日(Mon)]


         ペイ・タオ
朝の物語  北島
           是永駿・訳


ひとつのことばがもうひとつのことばを消しさる
一冊の本が命令を下し
別の一冊を焼き捨てる
ことばの暴力によってうちたてられた朝
そいつが改める朝の
人々の咳の声

蛆虫は堅いたねにむかって進攻し
たねはのろまな谷間からやってくる
のろまな人の群れの中から
政府はスポークスマンをさがしあてた
猫と鼠
よく似た表情をしている

空中の路
銃を帯びた森の番人が見張る
アスファルトの湖の上を
轟音とともにころがっていく太陽
かれは災難の音を聴いた
大火のあの思いのままにはじける音を


是永駿・編訳『北島(ペイタオ)詩集』(書肆山田、2009年)より

◆北島(ペイ・タオ)は本名趙振開(ヂャオチェンカイ)、1949年、北京生まれの詩人。文化大革命で学業中断を強いられたが、1970年から詩作を始め、雑誌編集者として活躍、当局の弾圧に抗し続けた。1989年、天安門事件を機に出国してアメリカ市民権を得、越境文学者として活動を続けている。

◆侵略や言論封殺が言葉を奪う例はこれまでの歴史に数々あった(日本が植民地とした韓国、台湾についても例外ではない)。
無論、目下のプーチン・ロシアによるウクライナ侵略においても同じだ。
使えるネズミは生かして置いて、スポークスマンとして引き立てさえする。

◆人々のしわぶきまでも支配し、文化を根底から破壊する非道に対して、怒りと諧謔を充塡して放つ紙つぶて。


山口春樹「半世紀後のささやかな配当」[2022年05月30日(Mon)]

半世紀後のささやかな配当  山口春樹


戦後まもない小学生のとき
つやつやとした厚手の紙が何枚も
部屋の屑籠に捨てられていた
真っ白な地に 黒々とした大きな文字がきちんと並ぶ
急いで父に訊ねると
――マンシュウテツドウのカブケン
とそっけなく言い
紙くずや と怒ったように言い添えた
紙くず!
(教科書でさえすぐに破けるザラ紙だった)
大切にしまっておいて
眺めたり撫でたりし
ヒコーキになって生垣を飛び越えたものもある

それが満州鉄道の株券だと知ったのは高校生の時
なぜ傀儡(かいらい)政権の株を買ったのか そして
なぜ何十万の人々がどっと「満州国」に渡ったのか
語気を強めて父に質すと
――みんなそうするからと勧められ つい乗ってしもたんや
いつも滔々(とうとう)とのたまう父が力なく言い
――チェンバレンはよく見てる
と間を置いて呟いた
チェンバレンとはだれなのか
なにを見たのか
つい聞きそびれ
気になっていた

ずっとのち
とっくに逝った父の書斎に答えがあった
B・Hチェンバレンの『日本事物誌』に〈日本人は付和雷同しやすい民族……〉とあり
鉛筆で傍線が引いてある
〈日本人〉とくくられるのが気にさわり
本の扉のチェンバレンの髭面を眺めていると
しんとした父の書斎に声が聞こえはじめる
――時勢や流行(はやり)に背を向けて 肩書を気にもせず冷や飯を食わされながら独自の研究をするなんて おまえもばかだ。いいだろう。日本ではそれだけの意味はありそうだから……
負けず嫌いの父の 川向こうからの声らしい。


 *B・H・チェンバレン=明治初期に日本に滞在し、「古事記」などの古典を世界に紹介したイギリスの言語学者。



★注も含め『山口春樹詩集』(新・現代詩文庫、土曜美術社出版販売、2022年)より


◆雑紙入れに白い紙がクシャクシャになって何枚も入っていた。丸まった薄紙もいくつか。
ネット販売で取り寄せた品をくるんだり、緩衝材として品物の間に挟んであった紙らしい。紙の質や色合いから推して近隣国の産と思われた。メモ用紙としては無理でも、キッチンペーパーの下敷きぐらいには使える。
リユースできそうなものだけシワを伸ばして取り置いた。

◆「リサイクル・リユース・リデュース」の3RからSDGsに至るまで、オカミが大号令を発して進めようとする限り、付和雷同の波が過ぎれば見向きもしなくなる。

◆足もとに寄せる水波が干上がることはないと島国にいて信じているけれど、少し以前には、大陸を風に吹かれてどこまでも転がって行くヨモギ草の身の上だったのだと思うことがある。






山口春樹「みんな」[2022年05月28日(Sat)]


みんな  山口春樹


〈みんな〉は〈すべて〉とはかぎらない
子供も使う
人を操(あやつ)る便利な言葉
みんな持ってる
みんなあなたに困ってる
みんな協力しあってる
などと圧力をかけ
買い求めさせ
排斥し
駆り立てる

老いも若きも
〈みんな〉と聞いてうろたえる
のけものにされた子供みたいに
だがそんな〈みんな〉の被害者も
たいてい〈みんな〉を愛用し
愛用しつつ〈みんな〉に翻弄(ほんろう)される

ホモ・サピエンスが数万年前に身につけた
大勢順応という世渡りの術(すべ)
遺伝子の命令に叛(そむ)ける誇りはいずこ
手もなく折れて
まわりに合わせて安心し
流行(はやり)に乗って満たされる

かつて〈みんな〉が「万歳!」を産み
「万歳!」が国歌になって
個が影を消し
少国民の
わが五感に染みた生き地獄

老いさらばえて
毅然(きぜん)と生きる。



新・日本現代詩文庫『山口春樹詩集』(土曜美術社出版販売、2022年)より


◆1938年に大阪で生まれた作者は、1945年6月、6歳の時に空爆を体験した少国民世代のしんがり、ということになろうか。

◆〈みんな〉は、友だちだったり職場の同僚だったりご近所だったり世間であったり、あるいは「同じ価値感を共有する国々」だったりするが、生まれ落ちてこの世に在る限り(ひょっとしてあの世でも)、だいたいは個を縛り付けるように作用する呪文のような言葉だ。

クラスの〈みんな〉のために「協調性を発揮し」、「体育祭に貢献」し、「級友に気配りを絶やさない」などと、プラス評価を調査書に書いてもらわないとナァ……。

◆辻々に貼ってある防犯ポスターも、〈みんな見てるゾ!〉だ。ヤマしいことがなくても、ドキリとさせられる。
ところで、あれって、ヨソの国でも効き目があるんだろうか?


シンボルスカ《ここで何が行われていたのか》[2022年05月27日(Fri)]


ここで何が行われていたのかを
知っている者たちは
僅かしか知らない人々に
場所を譲らなくてはならない


  ――シンボルスカ


◆ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)の「終わりと始まり」の一節だ(つかだみちこ編・訳「シンボルスカ詩集」土曜美術社出版販売、1999年)。


◆詩は「戦争が終わった後では/だれかが後片付けをしなくてはならない」ということばから始まるのだが、いまだ終結の見えないウクライナ戦争を前にしては、詩全体を引くことはとてもできない。
ただ、今この時点で、上に引いたことばを忘れぬようにして置くことは無益でないどころか、必要だと言ってもよい。

◆「ここで何が行われていたのかを/知っている者たち」はいずれ少数派になり、やがて一人も居なくなってしまう。生き残った者たちも時の鎌の前には無力だというのが最大の理由だが、それ以前に、体験者や目撃者を地上から拉し去ろうと暗躍する者たちが必ず居ることを忘れてはならない。



境節「とぶ」[2022年05月26日(Thu)]


とぶ   境節


今日(きょう)
空飛ぶ象になって
少女とたわむれる
象は いつのまにか
少年を乗せている
はるか遠く
記憶さえ無かった頃に戻っていく
昨夜から ねむっていたのに
朝 目をさますと
ねむっていなかったような
からだ
からだは 空(から)っぽのままで
空まで
とぶ



境節(さかい せつ)『十三さいの夏』(思潮社、2009年)より



◆この詩を読んで、そう言えば、近ごろ空を飛ぶ夢を見なくなったナと思った。
従って段々飛ぶ力を失って落下する夢も見ない。
「未成熟」というものをどこかに取り落としてしまったような気がする。

至るところCGが施された映画では、水中から、はるか遠くの宇宙まで、行けぬところはないかのようだし、実景の方も世界各地の街々は言うに及ばず、奇岩奇勝の連なり、雲を下に従えた高峰に至るまでドローン映像で見せてくれる時代になってしまったからだろうか。

◆自分が鳥のように飛んでいる夢を見る代わりに、鳥のほうが登場する夢を見るようになった。
今朝方も、現実にはいなさそうな姿と色合いの鳥たちが数羽、木に群がっていた。畑のへりを縁取る雑木が続くあたりだった。

鳴き声は聞こえず、カメラを向けても警戒する風でもない。

一羽は黄色い頭部と灰色と茶色で塗り分けたような体を持つ、鴨ほどの大きさ。
――吉兆だと良いのだが。



高橋順子「海の古里」[2022年05月25日(Wed)]


海の古里  高橋順子


わたしの古里では海の底にまで所番地がついている
かつてはそこで暮らす人たちがいたのだが
いまでは海の所有に帰す


返してくれ と海に言っても
海は聞く耳を持たぬ
旧町役場にある図面はすでに郷愁を漂わせている


わたしが海辺で生まれ育ったのは
津波と津波の間をひたす
おだやかな時間だったと知らされる


海は三月十一日古里をさらっていこうとし
数時間古里は海の新領土ならぬ新領海になっていた
母たちはもうここには住みたくないと言う


土地への愛着があの日から恐怖に変わった
恐怖は伝わりやすい
いまではわたしも十分に恐怖を感じている


海にさらわれた人たちが いっせいに ない息を吐いて
ない口をあけると
海は ない耳を大きく広げるのだ




『海へ』(書肆山田、2014年)より


***

◆日常が完全にひっくり返される恐怖は、それをもたらしたものが、愛してやまない古里の海であるゆえに、なおのこと有無を言わせぬ力で五感を揺さぶり、肝を刻む。

それは、水底に引きずり込んでやまない力を全身で受けながら、記憶と生々しい感情とがぶつかり合うところにわが身をさらすことだ。

海にさらわれた人たちの声は、たまさか生き残った者が振り絞る声と同じく、もはや聞こえぬ以上、口も耳も二つながら喪ってしまったに等しい。

頑是無いころの思い出が、「津波と津波の間をひたす/おだやかな時間だった」と思い知らされることの悲しみは、読む者の胸にも惻々としみてくる。



抗うように――高橋順子「波・鳥・魚」[2022年05月25日(Wed)]

ムラサキカタバミDSC_0279.jpg
ムラサキカタバミ


*******



波・鳥・魚   高橋順子


昨日のように 一昨日のように
 波は遠くで騒いでいた
  鳥は遠くを飛んでいた
   海へ下りていく石段で転んだのは誰
   海から拒まれたのは誰
 海のなかで
魚が笑っていた
 魚を黙らせてください
  大丈夫 じきに歩けるようになって
   海まで行ける
  海がそこにあれば
 昨日のように 一昨日のように
鳥は遠くで騒いでいた
 波は遠くを飛んでいた
  鳥が笑っていた
 波が笑っていた
鳥が襲ってきた
 波が襲ってきた
  海が来た
  海にさらわれたのは誰
 鳥を黙らせてください
海を黙らせてください



高橋順子『海へ』(書肆山田、2014年)より

◆九十九里浜東端の飯岡町(現 旭市)をふるさととする詩人が、大震災後3年目に上梓した詩集から。

「飛び、笑い、騒ぎ、襲う」《波・鳥・魚》に対置されるのは、《人間》。
いかに嘆き、泣き叫び、地団駄踏もうとも、圧倒的な力の前には完全に無力だ。

それでも、言葉を引き揚げようとする――恐ろしく冷たい海の底の、とてつもない圧する力に抗うように。




高橋順子「巻貝」[2022年05月23日(Mon)]


ダールベルグデージーDSC_0278.jpg
ダールベルグデージー。
例年と同じく舗道のわずかな隙間から咲いている。


*******


巻貝   高橋順子


海と陸のさかいにすむ巻貝は
疑問符がまるまったような形をしている
疑問符は幾世代かかってもほどけない
巻貝が砂にかくれると
海峡は巨大な渦を巻く



高橋順子『海へ』(書肆山田、2014年)より

◆疑問を幾世代も持ち続けて生きる者。
あるいは、生きるとは疑問を抱えることだと小さな体全体で示している者。
わずか一個体では解けない疑問を呑み込んでいるので、たくさん生まれてくることになっている微小な生きもの。
それだけに、貝たちがしっかり砂に隠れるまでは、海も烈しくうねるのをガマンしてくれる。  



クァジーモド「兵士たちは夜に泣く」[2022年05月22日(Sun)]

◆TVが取りあげるウクライナ戦争は局面の変化を伝えるが、報じ方は依然として海外ニュース番組の編集があらかたを占め、日本メディアは安全圏の海外支局からのレポートがほとんど。
それらを切り貼りしながら、防衛省関係者(元幕僚長や研究員)をスタジオに呼んで今後の展開を占う類いのものばかりだ。

将棋の差し手を囲んだ外野が、ああだこうだ談義しているに等しく、生身で戦わされる兵士たちのことを完全に閑却している。

◆岸田首相は、ウクライナ支援として、新たに3億ドルの借款を追加する方針を表明し、バイデン米大統領来日に際し、真っ先にそのことを伝える方針とか。
国会への説明はどうなっている?(それを問題視しないメディアや、このところ国会中継をしないNHKの姿勢を批判する声は決して少なくない。)

◆ロシア人捕虜の声を伝える映像で、味方に撃たれた、という生々しい証言があった。自軍を識別出来ないほどの戦場の混乱。

*******


兵士たちは夜に泣く  クァジーモド
                  河島英昭・訳


十字架も、幼年時代も、
ゴルゴタの鉄槌も、天使の
追憶すらも、戦争をうちのめすには足りない。
兵士たちは夜に泣く
死を眼前にして、雄々しく、斃(たお)れてゆく
教えこまれた言葉の足もとで
命という武器を投げ出して。
恋人の数だけいる、兵士たちよ、
名もない者たちの流す涙よ。



河島英昭・訳『クァジーモド全詩集』(岩波文庫、2017年)より
前回の「さらなる地獄について」と同じく第五詩集『比類なき土地』(1958年)中の一篇。


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