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タラス・シェフチェンコ「夕べ」[2022年03月31日(Thu)]


中井和夫『ウクライナ語入門』には、先月末に紹介したタラス・シェフチェンコの短い詩も載っている。

桜の季節を迎えたのどかな田園の夕景。
更けゆく夜に入ってもなお浮き立つ娘たちの気分を歌う。


夕べ   タラス・シェフチェンコ
          中井和夫・訳

家のそばの桜の園
桜の上では黄金虫がブンブン
農夫が鋤をかついで行く
娘たちは歌いながら行く
そして母は夕餉の支度をする

家族は家のそばで夕餉
宵の明星が昇る
娘は夕餉を皆に配る
母は娘に教えようとする
しかし夜鳴鶯が邪魔をする

家のそばで母は寝かしつける
まだ小さな子供たちを
そのそばで母も眠りこむ
すべてが静かになる ただ娘たちと
夜鳴鶯をのぞいて



中井和夫『ウクライナ語入門』(大学書林、1991年)より

◆1847年に作られ、メロディーがついて愛唱されている詩だという。いずれ聴いてみたい。


DSCN5352.JPG




ウクライナ民謡「バンドゥーラを手にすれば」[2022年03月30日(Wed)]

◆図書館から「ウクライナ語入門」という本を借りて来た。
中に「バンドゥーラを手にすれば」というウクライナ民謡が載っていた。

バンドゥーラはウクライナの民族楽器で、ギターのように爪弾く撥弦楽器だ。中音部か下下はリュートの音に似るが、弦の数が多く(65本!)、高い音はチターに似た繊細な響きである。

日本で活躍中のウクライナ出身の皆さんの弾き語りで、じかに聞いた方も多いことと思う。

下に「バンドゥーラを手にすれば」の日本語訳を引いて置く。
詩は19世紀の詩人ペトレンコの詩がもとと言われるが、さまざまなヴァリエーションがあるようだ。


バンドゥーラを手にすれば
    中井和夫・訳


バンドゥーラを手にすれば
知っている歌を弾くだろう
バンドゥーラのおかげで
私はバンドゥリストとなる

すべては君の瞳のせいだ
それが私のものになるなら
その茶色の瞳のために
私は心を捧げるだろう

マルシーナよ愛しき人
私に憐れみを
我が心を取り
代わりに君のをくれ

山の向こうのクリミアで
太陽が輝き
そこで私の愛しき人が
嘆き暮らしている

バンドゥーラを手にすれば
知っている歌を弾くだろう
バンドゥーラのおかげで
私はバンドゥリストとなる



中井和夫『ウクライナ語入門』(大学書林、1991年)より


カテリーナ・グジーによる「バンドゥーラを手にすれば」弾き語りがYouTubeにアップされている(字幕付き)。
https://www.youtube.com/watch?v=UVEx1jISb9M

*カテリーナさんは、ロシア軍が迫るキエフでひとり暮らしをしていた母親を、日本に呼び寄せたばかりだ。






山尾三省「石」[2022年03月29日(Tue)]


石  山尾三省


石は
終りのものである
だから人は 終りになると 石のように黙りこむ
石のように孤独になり
石のように 閉じる

けれども
ぼくが石になったときは
石はむしろ 暖かいいのちであった
石ほど暖かいものはなかった
あまり暖かいので
そのままいつまでも 石でありつづけたいほどであった
事実ぼくは 一週間ほどは石であった

石は
終りのものではない
石は はじまりのものである
石からはじまると
世界はもう崩れることがない


『火を焚きなさい』(野草社、2018年)より


山尾三省(1938-2001)は独得な生き方を実践した人だ。
その詩には難しい言葉がまったくない。それでいて解釈しようとするとうまいことばが見つからない。

◆「石は/終りのものである」は何となく分かる気がする。動物や植物の化石は、その生物の”終わりのかたち”を、何億年も後の人間に見せているものであろう。

ところが「石は はじまりのものである」と、ひっくり返して言われたら、すんなりとは呑み込めない(石であるだけに)。

むろん、いきなり「石からはじまる」のではない。
間に「ぼくが石になったとき」が挟まっていて、しかる後に「石からはじまる」という順番に言葉は紡がれているからだ。

だが「石になる」とは、そもそもどういうことなのか?
「石のようになる」ではない。「一週間ほどは石であった」というのだから、石になったあとは、また別の何かになったわけである。
だが、元の自分に戻った、ということではなさそうだ。
なぜなら「石からはじまる」と最終連にあるからだ。
つまり「終り」ではない。第一連の反対の状態だ。
黙りこんだり、孤独だったり、閉じたりしているのではない、ということだ。

ならば、開かれ、他者とつながり、語らう、ということか。

少しこの詩が分かってきたかも知れない。

だが、本当に分かるためには「石になる」ことが必要らしい。

「石のように」ではなく「石になる」。
そこから「はじめよ」などと教えを垂れているのではない。説法臭さはない。
ならば「石になる」ほかない。

***

山尾三省の詩は2回ほど取りあげていた。

山尾三省「ひとつの夏」[2020年8月2日]
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1665

水とひかり[2020年8月14日]
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1677









カスタネット[2022年03月28日(Mon)]

DSCN5313.JPG

◆新聞でカスタネットの記事を読んだ。
小学校で一度は手にして音楽室かステージで叩いたはずのあのリズム楽器だ。
赤と青・二色の木製で、ゴムで結ばれていた。
確か我が家にも一個、机の抽出にしまっておいたはず。

この教育用カスタネットの製造を一手に引き受けていたのは、群馬県みなかみ町にあった「プラス白桜社」という工房だったという。始まりは戦後間もなく。

国産材の入手が困難となって一旦廃業したものの、森林資源を活かした「持続的な地域づくり」プロジェクトとして再スタート、冨澤健一さんという方がコツコツと手作りしているという(3月26日付け朝日新聞Be「はじまりを歩く」から)。

***

ヴォローシンというロシアの詩人に「カスタネット」という詩があった。
マクシミリアン・ヴォローシン(1877-1932)。ロシア象徴派の詩人で、キエフ生まれ
モスクワで学んだが、絵の修業のために永くパリに住んで、ポール・クローデルなどをロシアに紹介した人物でもある。

手に載せたカスタネットひとつが、異国の炎熱と目くるめく舞いを出現させる。
異国逍遙の記憶と幻想が陶然と融け合った世界だ。


カスタネット   ヴォローシン
               神西清・訳

燃え焦がす太陽の国土、金光燦爛たる国土より
家苞(いへづと)に持ち帰つた響たかいカスタネット、
その響、からからと楽しげに、情熱の歌節(うたふし)に合せようと
乾いた橄欖の樹肉より刃(やいば)もて切りいだしたものであれば、
南国の雑色(まだら)の飾紐(ひも)に華やかに装はれて
そが胸にはエスパアニュの炎熱と、太陽の美はしい光とを秘めてゐる。
大都パリがどんよりとした霧のうちに沈みゆく夕べ、
かかる幽暗の夕べには、屋根裏の長椅子に独り坐して
カスタネットを弄(もてあそ)べば、思ひいづ、海湾の波涛の調べ
海底に閃く光、はた、そが幹の節くれだちたる橄欖樹、
さてはまた狭き部屋ぬちに坐したる白髪の妖術師、
(うる)はしき踊り女(め)らが柔媚(じうび)の舞ひ姿、
南方の妖(あや)しき水の精とも見まがはん、
その舞ひ姿、さて朗らかに優しげの歌ごゑを。
かくて踊り女(め)ら、艶なる灯(ともし)の色浴びながら舞ひ狂ふ、
ギタアルの調べ、カスタネットの音にまじりて
おそ夏の焼き燃えつくす真昼なか、蟬しぐれの響とばかり。



谷耕平・編『ロシア詩集』(平凡社・ロシア・ソヴィエト文学全集、第35巻、1966年)より





風の本当の色は[2022年03月27日(Sun)]

◆ウクライナ、爆撃から乳呑み児をわが身で覆い守った母親の話があった。
若い母親は全身に20数カ所もの裂傷を負ったが、赤ちゃんはかすり傷一つなかったとのこと。

◆むろん、子どもたちの痛ましい犠牲は続いているはずで、プーチン・ロシアの侵略1ヶ月を報じる特集番組の中では、幾つものボカした画像が悲劇を伝える。

*******


赤い風    佐々木淑子


風は本当はどんな色をしているの?
いつか妹と
瓦礫の中から見つけた 絵本の中の
遠い国の空の色と 同じですか

僕らは 本当の風を知らないのです
僕らの風は いつも赤い色
爆音と一緒に燃えながら
ぼくらを追いかけてくる

妹の手を握り 泣きながら裸足で
ずっと ずっと 赤い風から逃げてきた

風が幸せを運んで来るって 本当ですか?
それならひとつ お願いがあります
たった一日 赤い風を止めて
妹の小さなお墓の上に
涼しい風を吹かせてください
やさしくやさしく 吹かせてください



佐々木淑子(としこ)詩集
『母の腕物語 増補新版 ――広島・長崎・沖縄、そして福島に想いを寄せて』
(コールサック社、2014年)より




佐々木淑子「道」――振り降ろす一鍬[2022年03月26日(Sat)]


道  佐々木淑子


荒れ地に 道を造る時
人は はじめ
どこに 鍬を振り降ろすのだろう

それは 心の中だと知ったのは
道を無くした時だった

  いつも 子ども達と一緒に歌っていた
  学校に続く 朝の道
  潮風が微笑んでいた
  ペダルを踏んで走った道
  家路をいそぐ あの道は
  いつも 夕日に紅く染まっていた

あのふるさとの道は
あのまぶしく光る道は
みんな 何処へ行ったのだろう
哀しみと瓦礫に 埋もれ
たどりつくことさえ 出来ないままで

けれど 私の心の中には
確かな 一鍬が残っている

どんな道も 心から始まり
どんな道も 心からのびている

私は 立ち上がる
あのまぶしく光る道を
太くまっすぐな道を
再び 築くために
この一鍬から 立ち上がる

ふるさとの道よ
まぶしく光る道よ

   (二〇一二年五月八日 被災地に想いを寄せて)


佐々木淑子(ささき としこ)詩集
『母の腕物語 増補新版
  ――広島・長崎・沖縄、そして福島に想いを寄せて』
(コールサック社、2014年)より


◆詩に添えられた日付けから、3.11から1年余りの時に詠まれた詩だと分かる。
草木が力強く伸びゆく季節を迎えても、喪ったものの大きさに途方に暮れるばかりであった人々。

◆今またユーラシア大陸の彼方で、焼尽された街に立ちつくす人々。

〈心を鍬で掘り起こし〉その手応えを力に立ち上がる日が一日も早からんことを。




アレグリ「ミゼレーレ」(詩篇51)[2022年03月25日(Fri)]


アーマンディ・クレマチス2 DSC_0242.jpg
アーマンディ・クレマチス。

◆花の付き方がテイカカズラに似ていると思ったが、あれは夏の花。
この時期に白い花と言えばコブシやハクモクレン。味わっているいとまもないまま、それらは花期を終えつつある。
日が長くなって来たはずなのに、一向に実感できない気分の日が続く。

◆「HEALING VOCAL」というCDに、アレグリ(ルネサンス期の作曲家)の「ミゼレーレ」が入っていたので買って来た。
バチカンから門外不出のこの曲を、神童モーツァルトが一度聴いただけでそらんじ、譜面に起こしたというエピソードで知られる。

どこかに別のディスクがあったはずだが、探すより早い。むろん、ネットで探せるはずだけれど、聖書の詩篇51の祈りのことばに目を落としながら聴こうという気になった。
下に掲げるのはCD解説からの転記である。

******

《ミゼレーレ Miserere》 
      アレグリ(Gregorio Allegri 1582-1652)

詩篇51   訳・美山良夫

神よ、汝の御憐れみによりて
われをあわれみ、
汝の深い慈愛によりて
我が咎(とが)を消したまえ。
絶えず我が咎を洗い去りて、
我が罪を清めたまえ。
われ、わが咎を認め、
罪は常に我が前にあり。
ただ汝に向いて、われ罪を犯し,御目の前に
悪しき事をおこなえり。み言葉のうちに
汝が正しきを認め、汝が裁きに誤りなし。
われ不義の中に生まれたり。
汝は真実(まこと)をのぞみ、わがかくれたるところに
知慧の深さを知らしめたもう。
ヒソプをもてわれを清めれば、われ清くならん。
われを洗いたまえば、雪より白くならん。
われに喜びと歓呼を聞かせたまえ。
されば砕かれし骨も喜び踊らん。
わが罪より御顔ををむけ
わがすべての咎を消したまえ。
神よ、我に清き心をつくりたまえ。
わがうちに新しき確かな霊を与えよ。
われを御前から退けることなかれ、
おんみの聖なる霊をわれより取りたもうことなかれ。
救いの喜びをわれに返し、
寛仁な霊をもてわれを支えたまえ。 
われ罪人たちに、おんみの道を教えん。
されば罪人、汝に立ちかえらん。
神よ、わが救い主たる神よ、血を流せし罪よりわれを
解き放ちたまえ、さればわが舌、汝の正義を声高く歌わん。
主よ、わが唇をひらかれよ、さらばわが口、
汝の誉れをのべまつらん。
汝もはや、いけにえを好まれず、
われ供物をせんとても、汝それを喜ばず。
神へのいけにえとは、悔悟せし魂。神よ、汝は、
悔い改め、へりくだりし魂を軽んずることなし。
慈愛にみてしみ心によりてシオンにあわれみをくだし、
エルサレムの城壁をたて直されよ。
そのとき捧げられるべきいけにえ、供物と捧げ物を、
汝うけ入れ、
かくしてわれ、汝が祭壇に雄牛を捧げん。


CD《HEALING VOCAL》(UCCG-7098)より
このディスクではウェストミンスター大寺院聖歌隊が歌っている。
指揮はサイモン・プレストン。

ヒソプ…ハーブ。枝を清めに用いる。花言葉は清潔。ヒソップ。

◆◇◆

様々な演奏家のものをネットで聴くことができるうち、タリス・スコラーズが歌う《ミゼレーレ》を――

タリス・スコラーズ
https://www.youtube.com/watch?v=NmWZIPri38Q
 



NO WAR! NO、ポイ捨て!![2022年03月24日(Thu)]

◆空き缶ポイ捨て防止の標識を新調した。
鍋のフタ、ポール、固定用のネジなどすべて不燃ゴミに出すはずのものの再利用で、蛍光色のペンキだけホームセンターで買って来た。

神社裏手の山道なので、産土の神も嘉(よみ)し給いて効験あらたか、となるかな?


220323ポイ捨て禁止標識B DSC_0240.jpg

*缶をネジで固定するために、ここで回収した空き缶を2ケ使ってある。



長田弘「Home Sweet Home」[2022年03月23日(Wed)]

◆今夕のゼレンスキ―大統領の日本の国会議員たちに向けた演説。
日本とのえにしの一つとして、夫人が、日本の協力によってオーディオ・ブックを作ったことを話していた。子どもたちのための本だという。

彼ら、子どもたちが、本を読む時間を持ち、そのかたわらに―ベッド・サイドや次の間に―家族が同じ時間を生きていること――平和とは、そうした世界を失わずにいることだ。


*******


Home Sweet Home   長田弘


敵なしにはありえない戦争。
憎しみをもって打ち倒すまで敵と戦う戦争。
いつでも戦争は、そう考えられてきた。
違う、とわたしはわたしに言った。
敵を打ち倒すべき戦争によって
危うくされてきたのは、敵ではなくて、
いつでもHomeだったのだ
Homeというのは、人が
そこへ帰ってゆく場所のことだ。
わたしはわたしに言った。戦争くらい、
Homeというものをつよく、
するどく意識させるものはない。
戦争にいったものは、死んだ者も
生き残った者も、かならず、
Homeへ帰らなければならないからだ。
それが戦争だ、とわたしはわたしに言った。
Home Sweet Homeという
ことば、知ってる?
アメリカを激しく引き裂いた
南北戦争に至る時代が生んだ歌のことば。
暗殺された悲しい目をした大統領が
愛したということば。すべての
戦争の目標は、戦闘でなく、帰郷なのだ。
わたしはわたしに言った。
紅茶にしよう。ピラカンサの実が、
日の光をあつめて、今年も赤く色づいてきた。
季節と共にある一日の風景が好きだ。
これがHomeだ、とわたしはわたしに言う。
戦争をしない国にそだったのだから、
わたしは心底に思い留める。世に
勝者はいない。敗者もまた、と。



詩集『奇跡 ーミラクル―』(みすず書房、2013年)より



フランシス・ジャム「子どもが死なないようにとの祈り」[2022年03月22日(Tue)]

◆昨日の阪田寛夫の詩「はなやぐ朝」には、大中恩のほかに、中田喜直が作曲したものもあった。
さまざまな人が歌っている動画がYouTubeにたくさんアップされていて、この中田喜直版の方がよく歌われているのかも知れないが、「はあ〜」と民謡調の歌い出しからして相当違う世界になっている。

◆従兄弟同士であった大中恩&阪田寛夫たちの家には基調音のように賛美歌が存在した。
そのことを思うと、邦楽より西洋風の歌の方が似つかわしいように思ってしまう。

◆それをふまえてか、古元麻結美が歌うCD『大中恩 愛の歌曲集』は、フランシス・ジャムの詩に作曲したものを最後に置いた。大中恩が、ジャム(1868-1938)の、信仰と祈りから生まれる愛の詩を歌曲にしたのは自然なことだったように思われる。

***


子どもが死なないようにとの祈り
      フランシス・ジャム

               田辺保・訳


神さま ちいさな ちいさな この子どもを
親たちのために助けてやってください
風の中の一本の草をも
助けてくださるのですから
母親も泣いておりますし 神さま
いずれはさけられないことでしょうが
なにも今すぐ この子を
お死なせにならなくてもよろしいでは
ありませんか
神さま あなたが この子を生かしておいて
くださいますなら
来年の たのしい聖体の祝日には
この子が バラの花をまきに行くことでしょう
しかし あなたは
あまりにもよいかたであられます
神さま そのあなたが バラいろのほおの上に
青じろい死を お点じになるはずがありません
子どもたちを
窓べの母親のそばに おいてやりたいが
適当な場所がないと おっしゃるのですか
どうして ここではいけないのでしょうか
ああ 時の鐘が鳴っています


 古元麻結美『大中恩 愛の歌曲集』(Victor VICG-50503、1993年)より

◆「バラいろのほおの上に/青じろい死を お点じになるはずがありません」ということばが哀切だ。
病む子を助けてと祈る親は、神さまを問い詰める言葉すら口にする。

ただ、受けとめる者が雲の上にいると信じられる限り、死の理不尽さがもたらす苦しみもいつかは清浄なものに変わるだろう。
大中恩のこの歌曲は、そのような余韻を含んで歌い収められる。


◆だけど、いま目の前に起きている強いられた死に対しては?
ウクライナ、マリウポリの産科病院への攻撃で犠牲となった妊婦の家族の悲しみ、母子ともに助けられなかったと語る医師たちの怒りは、どこにぶつければ良い?


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