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くりはらすなを「闇」[2021年10月21日(Thu)]


闇  くりはらすなを



ちかごろでは
ひとつひとつの文字が影のように思え
どこか暗い闇を含んでいるようでもある
画数の多い漢字ほど
その闇は深く
その中に
こちらを
誘いたがっている
その暗さの中では
古代中国の
妖しげな
呪術が繰り広げられる
欧米の文字では
こうはいかないだろう
アラビア文字やキリル文字は
相変わらず
その闇を抱えているかもしれない
今では
世界は澱み
混沌としているから
大陸が移動していた時代が
再び近づきつつあるのだろう



詩集『遠くの方で』(国文社、2016年)より

◆夜中、ヒヤリとすることが時々ある。
探し物で常夜灯を灯した寝間に入り、とうに寝入っている相棒を踏んづけそうになることがこのところ多いのだ。

暗い場所での視力が落ちているに加えて、視界の一部に見えにくくなっている箇所があるみたいだ。腰を落として布団のどこかに丸まっている相棒の姿を確かめるために手探りすることも少なくない。

◆数年前、新宿だったか、小洒落た食べ物屋に入ったら間接照明がほとんどで、出された料理もよく見えないから、食べてもお腹の落ち着く感じが全くしなかった。
食事とは目でも味わっていることが良く分かったけれど、すでにその頃から加齢による視力の低下は始まっていたのだろう。

◆さてこの詩、文字が抱えている暗い闇にブラックライトを当てたような詩だ。
その闇の中でうごめいているのは、人間が文字を手にするより以前から嘗めてきた天変地異や戦乱の記憶、それに加えて無名の人々の往生を遂げないままの魂の堆積であろうか。

*試みに、手もとの漢和字典(旺文社『漢字典』1999年)で最も画数の多い漢字を探したら、「鹿」を3つ重ねた「麤」という文字だった。総画数は33。
「ソ」と読み、訓は〈あらイ〉。〈離れる・そまつ・そまつ・あらまし〉などの意味があるそうだ。
三頭の「鹿」が離ればなれにいるかたちから、「まばら/あらい」という意味になるようだ。
森の木下闇にたたずむ三頭の鹿、彼らの親疎、交情あるいは確執・暗闘に向けて、想像力の矢をつがえたくなる。





吉野弘「風流譚」[2021年10月20日(Wed)]


風流譚    吉野弘


          葭(ヨシ……善)も
          葦(アシ……悪)も
     私につけられた二つの名前です
どちらの名前で呼ばれてもハイと答えます

         善のさかえる世の中は
        悪のはびこる世の中です
      私にはよくわかる理屈ですが
   人は首を傾(かし)げることでしょう


 (註)「葦」は「芦・蘆」とも。



清水哲夫・編『吉野弘詩集』(ハルキ文庫、1999年)より

***

※この詩は各行の終わりが揃うように活字が組まれている。
画面でもそうなるように入力したが、スマホでは行末が揃って表示されないかも知れず、その場合はご容赦を。

◆忌詞(いみことば)というものを国語学の授業で教わった。(ひげを〈剃る〉、〈するめ〉といった否定的な意味を含むことばを言い換えて(ヒゲを〈あたる〉、〈あたりめ〉などと言い換える類いである。
「あし」を「よし」とも呼ぶのもその一例だが、この詩は、善と悪の両義を併せもつことになった当人(?)、「あし=よし」自身に語らせることで、物事の一面しか見ない世人を諷している。

◆16日の朝日新聞「天声人語」が、経済政策で「分配」を多用する岸田首相に対して、立憲民主党は「再分配」の語を使う、と論評していた。
これにも「配分」という語順を入れ替えた類語があってややこしい。
経済学上は「分配」を用いる習慣なのだろうけれど、どうもこれには「分け前」という卑しい感じがつきまとう。アベノミクスでは、一向に実現しない「分配」を、下々はひたすら垂涎しつつ首を長くして待っていたという図でなかったか。

「配分」の方には、不正がないよう細心の注意をもって分ける、という感じがあるように思うが、どうだろう。

いずれにせよ、もとは税や国債という民草のお金にほかならないものが、お上から下賜されるもののように扱われるのはサギだよなあ、と思わずにいられない。

選挙カーが街を走り始めた。コウセイのためにコウセイな配分を求める一票を行使し、善政を装った悪政に終止符を打ちたい。




久保木宗一「風に」[2021年10月19日(Tue)]

◆今日19日、神奈川県内のコロナ新規感染者は10人、今年最小を更新する日が続く(藤沢市は1名。市内に関して日曜ゼロは確か一日あったが、平日は1~3名の日が続く。「ゼロが当たり前」とはなかなかならない。全国の新規感染者は372名、亡くなった方は27名を数える。

衆院選公示日とあってニュースも選挙関連が冒頭にいくつも並び、人の命が軽んぜられていると感じる。数として扱われることの理不尽さは幾度でも立ち止まって考えるべきことだと思う。少なくとも報じる側の人間が定型の報知に慣れて、鈍感になってはいけない。

*******



風に  久保木宗一



路上を風が吹きぬけたとき、
舗石は涕いた



日々の結び目に かなしみは落ちている


季節を渡る風に
   ふるえていたりする




『暮れなずむ路上』(書肆山田、2009年)より


◆「舗石」や「かなしみ」を擬人化しているのではない。

愛別離苦のときには、舗道の石であれ、人同様に「涕く」であろうし、「かなしみ」は「モノ」と同じ重さや手触りをもって、そこここに零れ落ちて「ふるえていたりする」というのである。

喪失感の表現というようなヤワな修辞ではなく、喪った「こと」すなわち、喪った「もの」そのものである一日、また一日…………。




小野ちとせ「水のダンベル」[2021年10月18日(Mon)]

◆十三夜の月が雲に見え隠れしながら空に在る。
昨夜と同じ詩集から、水と重力の詩を――(私たちの時空には月も大いに関与して在る)


***


水のダンベル  小野ちとせ



  水の高さを揃え ふたつの重さを整えるため
  蛇口からそそぐ   からのペットボトルに
  握りしめる掌の    肩へ移動する重力の
  パシャパシャと プラスチックの壁に叩かれ
  大小さまざまに   気泡は生まれて消える
  

  上へ行きたがる    空はどうしても上へ
  下へ行きたがる 水はどうしようもなく下へ
  一歩もゆずらず      せめぎあうのは
  小さなボトルに   封じ込められてもなお
  水準器のように   瞬時に水平を保つため
  やすむことなく 重力は地球の中心へ向かう


振り回さなければ
激しく揺すらなければ
泡立つこともないけれど
そのかたちさえ包み込もうとする水は
瞬く間に空っぽを空へかえし
重さの底から
静まろうとする
(より柔軟なのは 空?それとも 水?)

地軸の傾きを
月がささえているとしても
厖大な海水の重さは纏わりついたまま

骨格の歪みの
核のいたみよ
微かな兆しよ
(どこへ逃れていけばよいのだろう)

(ぬし)の動きに隷属する関節も
月を数えて徐々にずれ
限界に達すれば頽れてしまう

わたしは水のダンベル
両手にしっかり握りしめ
きらきら光るもどかしさのバランス
舞うようにかわしながら
苛立つ気泡を
取り巻く水を
宥めてゆく



小野ちとせ詩集『微かな吐息につつまれて』(土曜美術社出版販売、2019年)より

原詩は、第一連と第二連は2文字分下げ、なおかつ行頭および行末がそれぞれ揃うようにしてある。
画面上もそのように表示されるようスペースを入れて入力したが、スマホの表示はうまくいかないかと思うのでご容赦を。


◆水を入れるダンベルは我が家にも一組あるが、使うのはもっぱら家人の方で、トレーニング中の感じを訊いてみたこともないが、この詩を読むと、重さを文字通り体感しながら、重力およびそれと拮抗しようとする力を、体全体で感じるものらしいということが伝わってくる。

ダンベルの中の水は、我々自身の体内の水と一緒に揺れ、外へ飛び出ようとしてなしえない。それは地球の中心から呼ぶものの力があればこそ。
そして水の惑星たる地球の上には空があり、月と引き合いながら運行している。
いわば、私たちは地球と月の間にいる、ということになろうか。

そうした位置にある私たちは、ぶつかり合い、斥け合う力をねじ伏せることはできない。その間に在って御すること――水のダンベルによる運動は、そのレッスンなのかもしれない。



小野ちとせ「木洩れ日」[2021年10月17日(Sun)]



木洩れ日   小野ちとせ



老木が一本かろうじて立っている

近づいてみると
ひとまわり細い木が寄り添っていた
入り混じる葉は互いの枝に支えられ
木洩れ日を揺らしている

発芽した地点の巡り合わせに
適応しなければ生きられない植物は
たとえ切り立った崖の隙間にあっても
夢の城へとつくりあげてしまう

雨の日も雪の日も
葉は傘になり屋根になり
どちらからともなく手はつながれ
やくそくは交わされたのだろう

老木は静かに微笑んでいるようだ
光と風の想い出をうたいながら
つねに翌朝の小鳥の囀りを希求して
影の夢 その姿を整えてゆく


小野ちとせ詩集『微かな吐息につつまれて』(土曜美術社出版販売、2019年)


◆木はその姿を遠くから眺めても、間近で見上げても、さまざまな思いに誘う。
そこに自分の立ち姿を重ねていることは多い。
自分の来し方と、この先の姿が自然に連続したものであるかどうか、木に照らしてこちらが恥ずかしくないか、確かめるもののようだ。
結びの一行「その姿を整えてゆく」に、こちらも背筋が伸びる。

命あるものの老年に昔日の壮んな勢いはないだろうけれど、年長けてふさわしい姿というものはある。
人の目を意識してではなく、自分自身のメガネに適った姿でいるかどうか。




塔和子「吠える」[2021年10月16日(Sat)]


吠える  塔和子



大人であることは
お客様むけの顔をして
そつのない話をし
行儀よく座り
自分をわきまえて行動し
ねじ仕かけの人形のように
型にはまっていなければならない
だからひとりになると
元気な子供のように
生気をとりもどした目の中から
私はだんだん破れてゆき
ひろびろとした湖を見る
そこで原始の動物のように
ぼうじゃくぶじんにふるまうと
大人の時間にたまった
怒りや悔しさや恨みやうっぷんが
塩酸でとける物質のように解消する
そして
自由な動物にかえった私は
原始に向って
うおっと
さびしくほえて見るのだ


詩集『いのちの宴』(編集工房ノア、1983年)より


◆「自分をわきまえ」た大人ばかりの世の中で、矯めた角、抜いた牙や爪を、捨てるに忍びずひそかに隠し持っている人がきっといるだろう。
元通りにならないにしても、それを装着して吠えてみることは、時々やったほうが良い。
さもないと、「自由」という言葉すら忘れてしまうかも知れないから。

吠えるために必要なのは「ひとりになる」時間と、「ひろびろとした湖」を現前させる想像力のみ。ほかに元手は要らない。




塔和子「人の時」[2021年10月16日(Sat)]

◆ネット上に衆院選立候補予定者の広告が出没してわずらわしい。公示日前だが、問題はないのだろうか?
名前と顔だけでも相当に押しつけがましいものだ。
TVなら、点けなければ見ないで済むものを、時には画面の相当部分を占めて目障り。
モグラたたきのように「×」をクリックして消しながら、絶対に入れないゾ、という気持ち固めて行くことになる。

TVにしてからが与党総裁戦の辺りから一方的に一政党のボス決めにふんだんに時間を与えていた。
国会解散前後から野党代表をスタジオに呼ぶ番組もあるが、時間配分にしてからが公平ではない。

◆自民党新総裁のキャッチフレーズに「寛容な政治」というのがあった。
これも押しつけがましいばかりか、下々を見下すニュアンスを含んでいて、倨傲尊大である。
そのことを奇異に感じない我々自身も鈍感になっているのだろう。

ロクでもない政治に民草まで寛容であってはならないと思う。


*******


人の時   塔和子



どんなところに逃げ込もうとも
はりめぐらされた時の網目から
逃れるすべはない
ゆうゆうと口笛をふいてすごす人も
むだ口やおあいそ笑いにすごす人も
いつも口元に崇高な微笑をたたえて
奥深い
真理のために身をささげて暮らす人も
いちように
同じ時の中に置かれ
時は秒毎に生きている時間を削っている
  人は削られながら
  生きている地歩を
  かためているという確信を深め
  ゆるぎない地位
  ゆるぎない暮らしを追って余念がない
けれども時は
鋭い刃物で休むひまなく
誰の時間も削りとり
人がゆるぎないと思うとき
時も
しっかり削りとって
人の思いとは別に
いっさいは終る



塔和子詩集『不明の花』(改装版 海風社、2006年)より






大手拓次「こゑ」[2021年10月14日(Thu)]


こゑ   大手拓次


こゑは つぼみのあひだをわけてくる うすときいろの霧のゆめ、
こゑは さやいでゐる葉の手をのがれてくる 月色の羽音(はおと)
こゑは あさつゆのきえるけはひ、
こゑは こさめのふりつづく若草の やはらかさ、
こゑは ふたつの水仙の指のよりそふ風情、
こゑは 月ををかしてとぶ 鴉(からす)のぬれいろ、
こゑは しらみがかつてゆく あけぼのの ほのむらさき、
こゑは みづをおよぐ 銀色の魚の跳躍、
こゑは ぼたんいろの火箭(ひや)
こゑは 微笑の饗宴。



原子・編『大手拓次詩集』(岩波文庫、1991年)より

◆大手拓次(1887-1934)は萩原朔太郎(1886-1942)と生年、生まれ故郷ともに近く、朔太郎との交流もあった詩人だのに、余り知られているとは言いがたい。

だが、上の様な佳篇を読むと、視覚と聴覚の共感覚が表現されていて面白い。
皮膚をなでる湿度や空気の揺れには同時代の詩人や芸術家たちが共有していた空気をも感じる。

〈香料〉を歌った連作があるのは、たぶん類を他に見ない。



大手拓次〈「みどりの火」と「青銅の鉦」〉[2021年10月13日(Wed)]


一人のために万人のために  大手拓次


一人の生きるために、
万人の生きるために、
民衆のうへにみどりの火をかざせ。

一人の死をとむらふために、
万人の死をとむらふために、
民衆のうへに青銅の鉦(かね)をならせ。


原子・編『大手拓次詩集』(岩波文庫、1991年)より


◆文部科学省の問題行動・不登校調査が発表され、2020年度の全国の小中学校の子どもたちの不登校は19万6,127人で過去最多となったという(前年比で8.2%増)。
また、20年度に自殺した小中高生は415人。前年度から98人増え、1974年の調査開始して以来、最多となったという。

【読売新聞10/13記事】
コロナ影響、児童生徒の不登校・自殺が過去最多に…昨年度「子供たちの生活に変化」
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20211013-OYT1T50124/

◆記事は、背景として文科省の次の説明を引用している。
「家庭で居場所のない子供たちにとって、救いの場になっていた学校がコロナ禍で休校になり、行事も中止や延期になった影響もある」


記事の見出しも最初に「コロナ影響」を掲げている。しかし丁寧に引用を読めば「コロナ禍で〜成った影響ある」と表現しているのであって、その他の理由を含んだ言い方になっている。漫然と引用するだけでは社会の木鐸たり得ない。

子どもたちの居場所や人間関係を育み支える場として学校の機能の脆弱化がコロナ禍で露わになった、というべきで、その根元を掘り下げない限り、問題の解決には向かわない。コロナの一旦収束をもって、何とかしのいだ、と安心していてはいられないのである。

家族のありよう、社会保障制度の不備をふまえて手を打たない限り、子どもたちの犠牲をなくすことはできないのだと思う。

みどりの火」を高々と掲げ、「青銅の鉦」を渾身の力で打ち鳴らす人物を、国会の内外に結集させなければならない。



柳家小三治さん逝く[2021年10月12日(Tue)]

◆10月7日、噺家の柳家小三治さんが亡くなった。享年九十一。

プライヴェートな姿を一度だけ見かけた。

◆1975年ころだったと思う。
日曜日の昼過ぎ、場所は新宿三丁目辺のレコード屋さんだった。
なぜ日曜だと記憶しているかというと、毎週日曜のバイトの帰りだったからだ。
朝からのビル清掃が昼には終わる。伊勢丹の屋上で持参の握り飯をパクつき、そのあとに寄ったレコード屋に小三治さんが居たのである。店の奥に半分以上進んだところで、レコードを選んでいるようだった。

ふつうにジャンパー姿、というのも意外だったが、それ以上に、手にしていたのがクラシックのLPレコードであったのも意外だった。
(じゃあ何のレコードだったら似つかわしいかと言っても、それは困る話だけれど。)
(クラシックが趣味なんだ……)と知って親近感を覚えた。

ジーッと見ているのも失礼な話なので、こちらもその辺のレコードを見たりしているうちに小三治さんは選んだレコードを手に店員さんに声をかけた様子。その先には「視聴室」と金文字で書いた扉がある。聴いてみようという一枚に出会えたのであろう。

それをしおに、こちらは店を出たが、通りに出て思い出した。寄席の新宿末広亭がすぐ近くにあるのだった。時々立ち寄るのだろう。

◆その後、FMのクラシック番組にゲストとして呼ばれていたのを聞いたこともある。
好んで聴く作曲家についても話されていたはずだが、確かな記憶にない。ということから推して、たぶん、ふつうに古典派やロマン派の大作曲家の名を挙げていたのだろうと思う。

◆今日12日の朝日新聞に京須偕充(きょうすともみつ)さんという方が追悼記事を書いていた。
音楽とオーディオを共通の趣味として、長いつきあいがあったとのこと。

記事の終わり近く、今年7月の末に小三治さんが交友を振り返って語った言葉が紹介されていた――〈僕たちには音楽があったからね、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス……〉

名曲ぞろいの大作曲家ばかりだ。「これも聴いていたに違いない」と思ってふつうに選んだ一曲を静かに流して、秋の夜長、名落語家を偲ぶよすがとしたい。
ご冥福を心よりお祈りします。




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