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服部剛「天の賜物」[2021年09月30日(Thu)]


天の賜物  服部剛


小児科の医師は
私達の前で
紙を引っくり返し
周の染色体の写真を見せた

「正常よりも一本多いです」

二人で溢れる涙を流した
翌朝
僕は恩師に電話をした

「その一本の染色体に
天の息吹がこもっています」

「これから僕と嫁さんで
周が授かった賜物を探します」

携帯電話のスイッチを押した後
周の命そのものを信じよう…という
今迄とは何か違う
不思議な喜びが胸の内に広がった


服部剛(ごう)『詩集 我が家に天使がやってきた』(文治堂書店、2018年)より


◆詩集のタイトル「天使」は、愛息・周君のこと。
彼の誕生、ダウン症の告知を受け、それを親として、夫婦として、どう受けとめたかが歌われる。

「天の息吹」という表現、授かった一つのいのちを魂で受けとめたことが伝わってくる。
誰もがこのように言葉にできるとは限らないけれど、顔を上げたからこそ言葉も高い所から降りてきてくれたのだと思う。



服部剛「色鉛筆」[2021年09月29日(Wed)]


色鉛筆     服部剛


鉛筆の芯を、削る
何処までも鋭く、削る
(誰かを傷つけるのではなく)

(あ)せた現実に、風穴を空ける為に



詩集『我が家に天使がやってきた』(文治堂書店、2018年)より


◆三ヵ所ある読点が、手の動きに注がれた目、仕上がりを確かめる指と目、さらには息づかいまで感じさせる。
小さなナイフで鉛筆を削る、一回ずつ止める動きを「、」がとても良く表しているのだ。
息を止めていては芯は削れない。

刃先を滑らす=小さく息を吐き出す→止める→刃を戻す=息を吸う

そのようにして指先を細心に働かせて芯を尖らせるにつれ、やろうとすることがはっきりと見えてくる。
色鉛筆の芯のように内面は柔らかいまま、世界に向かう意識は、いよいよ先鋭になってゆく。

服部剛(ごう)氏は1974年生まれの詩人。




新川和江「火へのオード 6」[2021年09月28日(Tue)]

新川和江に、万物の根源〈土・火・水〉に寄せたオード三部作がある。
Odeすなわち頌歌として、〈土へのオード13〉〈火へのオード18〉〈水へのオード16〉が連作された。それぞれを讃えた詩群だ。
(数字はそれぞれに含まれる詩篇の数。ただし、〈土へのオード13〉は、実際にはT・Uの2部から成り、Tには番号を付さない8篇。これに番号を付したUの13篇の計21篇を数える。)

そのうち「火へのオード18」から一篇――


〈火へのオード18〉より


  6    新川和江


ひれふるふれひ
むらさきののに
ふれふれふれひ
のもりがはなつ
きよめののびを
きみふるひれと
みまがひしひと
やかれてはつる
ふれふれふれひ
めしひしこひに
ひれふるふれひ
ひいろのひれに

   *この章のみ旧仮名使用


  ほるぷ〈日本の詩〉『新川和江』(ほるぷ出版、1985年)より

◆「火」への讃歌にふさわしく「ひ」音および同じハ行の音が次々と爆ぜて火の粉が上がり、炎が噴きあがるような詩だ。

◆「ひれ」は万葉歌に出てくる「領布(ひれ)=比礼」のことだろう。女性が肩にかけて用いた帯状の裂(きれ)である。

万葉集の巻五に松浦佐用比売(まつらさよひめ)の悲恋物語を歌った歌群の中に、山上憶良の歌として、例えば次の歌がある。

海原のおき行く船を帰れとか
  領布振らしけむ 松浦佐用比売


佐用比売=佐用姫が朝鮮に向かう大伴狭手彦(おおとものさてひこ )を行かせまいと、山の上から「ひれ」(領布)を振ったという物語である。
こらえきれない思いを届かせ、かつ「ひれ」振ることで願いが叶うことを祈るのである。

◆続く「むらさきのの(紫の野)」は、良く知られた額田王の歌をふまえている。

あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき
  野守は見ずや君が袖振る


ここでも「袖振る」ことで恋心を伝えるだけでなく、「ひれ振る」と同じく相手の魂を招こうとしているのだろう。

◆この詩が汲み上げている源泉は和歌だけではない。
最終行にはホーソンの小説『緋文字』もふまえられている。
ヒロインの胸に縫い付けられた「ひいろ(緋色)」の「A」の文字――
――秘しても現れるほかない、あかあかと燃えさかる恋の炎(ほむら)だ。


新川和江「教えてください どこにいればいいのか」[2021年09月27日(Mon)]

◆コロナ禍でいっそう露わになったことがあるのか、子どもたちのいたましい受難が続く。

むかし子どもだったと思えぬ大人たちが世にはばかっている。


*******


教えてください どこにいればいいのか

               新川和江



教えてください どこにいればいいのか
ときどきぼくは
不安でたまらなくなる
腰をうかして立ちあがり
いまいる場所を
うろうろと回ってみずにはいられない

どういうところなのだ ここは
世界のどこなのだ ここは
隣室には父母がいて
アルバムの中には
僕の幼い日の写真が貼ってあるけれど
小鳥がちょっととまっていった
小枝にすぎないのではないか
水夫が漂着した
島なのではないか ここは

ここへお掛け とつよい声で言ってください
宇宙の中で 地球が
夜と昼を どもることなく歌いつづけているように
鐘が
ひびきの中心に吊るされているように
古い森を叫ばせた斧が
日暮れは きこり小屋の板壁に掛けられるように
きょう坐り
そして明日も坐っていい
ぼくの居場所をつきつけてください
まだすっかりは育ちきっていない
ぼくの手で さわれるように 見えるように


新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)より


◆「わたしの居場所がない」と言った子のことを時々思い出す。
大人に向かって精一杯ぶつけた言葉だった。
こちらが受けとめて、返してくれるように求めている言葉だった。

どんな言葉を返してあげられたか。
思い返すたびに、まだまともに答えていないんじゃないか、と自問を繰り返している。



新川和江「詩が生まれるとき」カバー.jpg



新川和江「海をうしろへ……」[2021年09月26日(Sun)]

◆前回の新川和江「いちまいの海」の続編というべき一篇を。


海をうしろへ……   新川和江


海をうしろへ置いてきた
わずかな風にたあいなく満腹する
貧相な帆は 沖へ埋ずめてきた
小さな笊(ざる)を抱えた人々にまじって
朝ごとにあさましい浅蜊はもう漁らない
海浜ホテルに空室があっても
もう予約はしない
浜木綿のほそい花びらで
待ち人を占ったりも もうしない
あとは 胸突八丁
日々険しさを増す山を攀じるばかりだ
山巓で
年代ものの貝殻を拾うのだ
億年前の波音を聴くのだ
潮騒にまじって
わたしを呼ぶ者の声に答えるのだ
身じまいをして すずやかに「はい」と


 新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)、「半秒おくれて言語はやってくる」より


◆前回の「いちまいの海」の最終行、「あの海を どうする」を受けるように、この詩は「海をうしろへ置いてきた」と始まる。

エッセイ「半秒おくれて言語はやってくる」は、自作の詩を読み返し、それに促されるようにして新たに生成してくるイメージを言葉にしていく、そのプロセスが綴られている。
イメージや言葉が生まれる成り行きを述べながら一篇の詩作品を彫琢してゆく文章になっているのである。

第一行がこの形に収まるまでの説明に十数行費やしているが、この一行が成ってしまえば行く先が決まったも同じ。

先行作の「いちまいの海」ではpathosを形象化したものとして「海」を用いたが、そこから離れ、動的な〈生〉そのものというべき「海」との訣別が、やがて自分にもやってくる、それを先取りしてうたってみよう、と方針を思い定めた。
いわば、〈生〉から〈死〉の方へ、海辺のさすらいから山巓へと目差すものを転換させていく。

海にまつわるイメージを次々浮かべては後ろへ置いてゆく。
「朝ごとに…」の行では「asa」音を繰り返して遊んでもいる。
青春期や壮年期の望みや野心と訣別した分、軽やかになってゆくようだ。

むろん、登って行く山は険しさを増してゆく。だが、それは悠遠の往古に遡行することでもある。
山巓に登りつめればそこが海であった頃の貝殻を見つけるだろう。そうしてかつてわたしを生んだ処に還れとわたしを呼ぶ者の声を聞くだろう。



新川和江「いちまいの海」[2021年09月26日(Sun)]

◆昨日の詩「相模湾」に出会う前に、下記の詩が目に留まったのだった。


いちまいの海    新川和江

うつくしい海をいちまい
買った記憶がある
青空天井の市場で
絨毯商人のようにひろげては巻き
ひろげては巻きして 海を売っていた男があったのだ
午睡の夢にみた風景のようで
市場のことは はっきりとは思い出せないが

その海に
溺れもせずにわたしが釣り合ってゆけたのは
進水したての船舶のように
けざやかに引かれた吃水線をわたしが持っていたからだ
しかしそれも一時期のこと
引っ越しの際にまたぐるぐる巻きにして
新居の裏手の物置へ
がらくたと一緒にしまい込み忘れたままでいたのだが

一羽の鷗が物置の戸の隙間から
今朝不意に羽搏たき翔び立ち わたしをひどく狼狽させた
今頃になってよみがえって どうする
剝げ落ちた吃水線を弾き直す時間もわたしに与えず
裏庭を水びたしにしはじめている
あの海をどうする


新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)より


◆海が絨毯や絵画のように、くるくる巻いて持ち運びし、しまっておくこともできる、という発想が面白い。ダリの絵のように。

さらに「わたし」は、船のように「吃水線」を持っているのだが、物置に放ってあった「海」のことを忘れているうちに、その吃水線は剝げおちてしまっていた、というのである。


旧作「いちまいの海」を読み返した詩人は、これに促されるようにしてその発展版も生み出すのだが、それについては次回。





油壺マリンパーク[2021年09月24日(Fri)]

◆三浦市にある京急油壺マリンパークが今月いっぱいで閉館するそうだ。
生きものたちは各地の水族館や動物園に引き取られていくそうだが。

子どもが小さい頃に行ったきりで、ご近所の一家と車を連ねて出かけたのであったか、それも茫茫。


*******


新川和江〈水へのオード16〉より


11  相模湾     


「たとえばイワシの腸ですがね
S字型に伸びていって さらに長くなると
両端からこういうふうに はじめのS字を巻いてゆきます
われわれが 麻縄をしまう時に巻くのと同じ要領で……」
油壺マリンパークのレストラン
卓上の紙ナプキンに図を描いて
説明をしてくださるのは
世界的な魚類学者でここの水族館長の末廣恭雄(すえひろやすお)博士です
「ヒラメのような平たい魚になりますと
巻き方はこんな具合に渦巻き状に……」

聞いているわたしはいつか水になって
よじれたり くるくる渦を巻いたりしながら
魚のおなかを通ってゆきます
海水の濾過室に案内された時
指先につけて
水槽の水を ちょっぴり舐めてみたせいです

「いろいろな魚がたくさんいますけれど
もしネッシーのような怪魚が生け捕りにされたら
この水族館に 連れてきたいとお考えですか」
「あれはネス湖の上昇気流が見せた
一種の蜃気楼だとわたしは思っています
蜃気楼は 砂漠に限ったことではないのですよ
海や湖も 時としてそうしたミラージを見せます
それよりもシーラカンス
実体のない幻影とちがってこの魚は
アフリカ東海岸に今も棲息していることが証明されています
なにしろ四億年前の海に出現して
数千年前にすでに絶滅したと
長い間考えられていた魚です」
四億年!
一瞬博士の目の色が途方もなく深くなったのを
海の神秘に触れる思いで わたしは見詰めました

生命が最初に発生した場所は海であると
以前なにかで読んだことがあります
それかあらぬか 胎児を保護する羊水は
海の水――つまり鹹水(かんすい)と成分を同じくしているそうです
子供をひとり産んだことのあるわたしは
一度海だったことがある と言ってもよいのでしょうか

水族館を辞したわたしはタクシーをとばして
近代的な橋がつないでいる城ヶ島に渡りました
両側に浜木綿の咲く石段をのぼり
灯台のある台地に立って 海を眺めました

それにしても海よ
あなたはいったい何なのですか
地球の三分の二あまりを
胞衣(えな)のようにくるんでいる この夥しい水は――
あなたはそのまま大きな答えである筈なのに
わたしをいつも 問いのかたちに佇ませる
博士の言われるミラージも見せてくれず
おだやかに凪いでいる 夕陽にただかがやいている 海よ海よ
ほんとにあなたは何なのですか
わたしの唇(くち)にはまだかすかに
さきほどの塩味がのこっていますのに



日本の詩『新川和江』(ほるぷ出版、1985年)より


末廣恭雄(1904-1988)…多くの随筆で「お魚博士」として知られる。東京大学学生歌「足音を高めよ」(1953年)の作曲者でもある。



強制送還に初の違憲判決[2021年09月23日(Thu)]

DSCN0436.JPG

ヤナギバルイラソウ(横浜市中区日本大通、横浜地裁前で)


*******


強制送還に初の違憲判決

◆政治的な理由による難民申請を却下されたスリランカ人男性2人が東京入管によって出身国に強勢送還された件の控訴審で、東京高裁は原告勝訴の判決を出した。
2人は2014年に「難民申請の不認定に対する異議申し立て」の棄却を伝えられた翌日に強制送還された。送還の40日前に棄却決定が出ていたにもかかわらず、男性たちが訴訟を起こす前に送還するために、あえて告知を送らせたものだと認定し、「憲法32条で保障する裁判を受ける権利を侵害した」と判じたものだ。

◆日本の入管行政の、人権を無視したやり方がここでも指摘されたことになる。難民認定のしくみの欠陥は幾度も指摘されてきた。根本的に見直さねばならない。

朝日新聞9/23(村上友里)】
裁判受けさせず送還、違憲 入管、難民不認定巡り 東京高裁判決
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15052680.html

東京新聞9/23(望月衣塑子)】
スリランカ人強制送還巡る違憲判決 弁護団「歴史的な意義」 続いてきた難民申請者への「残酷な取り扱い」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/132520?rct=national




俣野の案山子[2021年09月22日(Wed)]

◆境川をはさんだ横浜市側の田んぼの案山子コンテストは今年も中止。
いつぞや東京都現代美術館を訪ねた折に、近くの深川資料館通り商店街にたくさん案山子が並んでいたが、未だ続いているだろうか。

◆西俣野の今年の案山子を紹介。いずれも同じ農家の田んぼと見えた。
写真は先週撮ったものだが、今日見たら刈り入れが始まる気配。

先日の台風14号の雨で、倒れた稲の姿がいくつかある。
低く抑え込まれた米価が農家を圧迫している時代、野党の方が農家支援策を積極的に打ち出す昨今だ。

DSC_0196.jpg


DSC_0198.jpg


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「われら…独り酒をのむ」井伏鱒二[2021年09月22日(Wed)]

◆仲秋の名月とあれば真っ先に浮かぶ井伏鱒二の名詩がある。


逸題   井伏鱒二

今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ

春さん蛸(たこ)のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿

ああ 蛸のぶつ切りは臍(へそ)みたいだ
われら先づ腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ

今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ

     (新橋よしの屋にて)


『井伏鱒二全詩集』(岩波文庫、2004年)より

◆『厄除け詩集』(1937年)所載の一篇。
第一連および第四連に繰り返される
〈われら万障くりあはせ
 よしの屋で独り酒をのむ〉
がミソだ。

あれこれの都合はうっちゃって「よしの屋」に寄って呑まずにいられない者たちばかりが、たまたま今宵ここにいる。
仲間をうち連れてここに集まったわけではない。「独り」ばかりが銘々蝟集して「われら」となる。
見知った顔もいようが、今宵初めて見る者も、ともにいっときの歓を傾ける。

孤独を忘れ、さりとて人の事情に差し出口もすることなく、うなだれることも偉ぶることも忘れて身をほぐす。
酒の功徳である。


このコロナ禍で失われた風景でもある。
ようやくピークアウトを迎えた感もある(藤沢市の新規感染者はようやく1ケタ)、が、さてどうだろうか?

*先日再放送されたNHK特集「井伏鱒二の世界〜荻窪風土記から〜」(1983年放送)でもこの詩が流れていた。




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