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こやま きお〈くすぶり『ながら』〉[2021年02月28日(Sun)]

くすぶり『ながら』   こやま きお


「食べながら 歩く」
「歩きながら たべる」
どちらにしても あまり 行儀がよくないと
昭和生まれの大人はいうが
二つの動作を同時にやれる
ながら族の器用さ
動作の省エネとなれば理にかなうか

友人の話では
イノシシが「傷を負いながら にげる」
そのときが一番怖いという
イノシシはすでに傷を負っているので
行く手に人がいれば
死に物狂いで人間に向かってくるという
傷を負っているのであれば
イノシシは逃げると思うのだが
動作は逆である
『ながら』
いつも同時に行う動作に
使われるとは限らないようだ

原発事故を起こしながら 再稼働する
甲状腺癌を疑いながら 暮らしている
君の残像を引きずりながら 被災地へむかう
同時であれ 逆接であれ
八年経ってもくすぶっている


『日本現代詩選2020』(日本詩人クラブ、2020年)より
ただし、「ながら」、原詩では傍点を施されているのを、下線によって代用した。

***

◆10回目の3.11が来る。
13日の福島沖震源の地震が10年前の大地震の「余震」であるという専門家の説明に驚いた。同時に原子炉格納容器の水位が30cmも下がったとか、汚染処理水タンク50基余りにズレが生じたことが明らかになり、3号機建屋に設置した地震計が故障したまま半年放置されていたことも判明した。今なお薄氷の上で暮らしていることにゾッとする。

◆助詞「ながら」は同時進行や並行を表すほか、逆接を表すこともあるが、広辞苑によれば、「前の事態から予想されなかったことが後に続く関係を示す」のだそうだ。
それに照らせば、「過酷事故を起こしながら再稼働する」のは、この説明にスッポリ当てはまるやり方だということになる。
コロナ変異株による感染拡大を危惧する専門家の警告が多数ありながら「緊急事態宣言解除」に突き進もうとするのも同様だ。
予想しなかった手に打って出ること、普通はそれをバクチと呼ぶはずだが。


倉田史子「すだじい」[2021年02月27日(Sat)]

立川談四楼氏のツイートで「こうなると御食事券汚職事件か分からない。総務省に続いて農水省だ。」というコメントがあって、噴き出した。
耳から入れば全く一緒で、こういう同音は連想を刺激して止まらなくなる。

◆昨日と同じ『日本現代詩選2020』から、「すだじい」という椎の木の仲間を歌った詩を紹介しようと思っていたのだが、それも詩の中味より耳への聞こえ方に惹かれたのが発端だ。
まずは詩全体を――



すだじい   倉田史子


太い枝々を張り広げ
老いたすだじいが一本泰然と
朝もやのなかに立っている

夜の気配が知らぬ間にうすらいで
丘の上の 木々の枝先に
白い光の縞が流れ込む

うっそうとした雑木林の一帯
開発で丘陵の伐採が進められるなか
どっしりした樹冠のこの木だけが残された

夏には葉の茂りが風のそよぎを送り
寒い季節は錆色のまだらのある葉をひきとめ
太くからみあう根が冷たさに耐えていた

何百年ここにこうして立っていたろう
雨の日も晴れた日も空を支えていた
一本の木のために小高い丘はあるようだった

今朝も丘まで木に会いにいく
なつかしい人に会いにでもいくように
わたしは一人で苔むした階段をのぼる

そして黙って木の時間のなかへ
木の広がりのなかに入り
老いた木の重い孤独に抱かれる


『日本現代詩選2020』(日本詩人クラブ、2020年)より
 

◆丘の上に立つ一本のすだじいの老木。空を支えて立つ孤高の姿はスダジイという木を知らなくてもイメージできるだろう……去年どこかで会ってるよなあ、と探したら、鎌倉文学館だった。
8月の撮影で枝葉がうまく撮れていず、上の詩にふさわしい樹影でもないのだけれど、いちおう載せて置く。

DSCN4221.JPG
鎌倉文学館のスダジイ。門と文学館との中間くらいのところ(2020年8月)。歩道に濃い陰を落としていた。

シダジイの幹DSCN4220-A.jpg
スダジイの幹。樹皮の深い裂け目が印象的だ。

◆「スダジイ」という木に出くわして思い出したのは、「〇〇ジイ」と呼ばれていた先輩教師のことである。そのニックネームのまま、マンガにも登場したことはだいぶ前に書いたので省く。
「〇△じい」という呼ばれる人はあちこちにいることだろうし、上の詩の作者も頭のどこかに旧知の「△▼じい」を思い浮かべていたのではなかろうか。


井上嘉明「横になる」   [2021年02月26日(Fri)]

横になる   井上嘉明


中国には かつて戸口に
棺を準備しておく村があったという
わたしなら 居間の片隅にでも
立て掛けておく
木の香りを嗅ぐのもいいではないか
酒を ちょっと飲(や)ったり
星がきらめいて
よい朝(あした)が迎えられそうな夜など
しばし 棺に
横になってみたいのだ

海を越えた戦場で
「転進」などといって
暗闇にまぎれ
夜通し 歩き続けた兵士たち
立ち止まったら終わりだ
馴れると 歩きながら眠れるという
夢もみる
どんなに横になりたかったことだろう

好い加減 起きて
家人の声がする
もう少し 眠らせてくれよ な
あの兵士たちの分までも――

これを二、三回繰り返したあと
家人は ついにいうのだ
そんなに眠りたいなら
誰も起こしに来ないから
このまま いつまでも
横になっているがいいさ
――そうは 参らぬ
わたしは 木の底から
くぐもった声で言い返す


『日本現代詩選 2020』(日本詩人クラブ、2020年)より


◆語り継ぎ、読み継ぐ戦争、などと大上段に構えることなしに大事なことを言うのは結構むずかしい。
この詩がスッと胸に入ってくる理由の一つはリズムにあるようだ。3音、4音、5音の言葉たちが自在に組み合わさって紡がれて行き、単調に陥ることもない。

加えてユーモア。闇中行軍の兵士たちの分まで眠りたいとは、言葉の関節をハズした言いぐさだ。なのに、ぶしつけではない。
死者たちとともにわが身を横たえているからだ。




西條八十「 ,」と「 .」[2021年02月26日(Fri)]

コンマ     ピリオド
,  と  .    西條八十


わたしの好きなのは ,
切れてもまたつづく言葉のあるしるし。

私の嫌ひなのは .
うてばそれぎり
あとは冷たい沈黙。――

あゝ、青葉の窓に
今日も寂しくリイダアの頁を繰りつゝ
わかれて遠き人におもひを通はす。


ハルキ文庫『西條八十詩集』(2004年)より

◆シャンソンのように洒落た詩だ。
季節は五月がふさわしいのだろうけれど。
横文字でなく縦書き邦文の「`」や「◦」(テンやマル)でも同じ感じになるだろうか。




堀部泰子「風」[2021年02月25日(Thu)]


風  堀部泰子


聴きとれなかった
その 音

日の雫 のような
言葉では なかったか

白樫の林を 通りすぎていった
この風は なぜか

ひとところ
透明水彩の 塗り残した
紙の白さのように

鳴りつづけて


『日の音』(書肆とい、1996年)より 


◆風は何を語っただろう。

風の言葉は「日の雫」にたとえられているが、これもまた捉えがたい。
雨か夜露か、あるいは木洩れ日?
さもなければ、それらすべて、つまり四時(しいじ)=春夏秋冬のいつであれ、眼で音を聴く状態になればいつでも。

葉の輝きや木肌のくすみ、木下闇、それら目に映るものたちの間に動いて在ると感じられる、名づけがたいもののかすかな語りかけ、それを聴くためには林の中に身を置けばよい、それだけのことなのだが。

柏木正行「自立」[2021年02月23日(Tue)]


自立  柏木正行


じりつ
そんなの 絵に かいた もちや
あたまで かんがえたかて
じっさいには どうにも ならへんのや
アパートに ひとり すんで
おしっこや うんち しとなったら どうするんや
うごかん 手して
どうして めしを 食うんや
足も 立たんのに
どうやって 買物に ゆくんや
そんなこと かんがえんと
しせつで おとなししていて
死ぬのを まってんのや



◆詩集『むくの木の詩』(批評社、1981年)の最後に置かれた詩だ。
この詩集の作品たちは「こひつじ苑」という施設にいた時代に書かれた。
その後、部屋を借り、「自立」生活に突き進む。
「死ぬのを まって」いる生き方に訣別するのである。
施設を出て「自立」するには多くの介護者を必要とする。それを獲得するために彼は自らタイプした介護者募集のチラシを持って動いた。いわば、糸を人々に伸ばし生きるための網を自分の力でひろげていった。「おとなしして」などいなかったのである。

施設を出てからの彼を知る平田義(ただし)という牧師さんが、詩人との出会いを記した文章で、もう一つの「自立」という詩を紹介している。その詩に次の一節があった。

自立は賭です。生きるか死ぬかの闘いです。
  
  *柏木正行詩集『路』明石書店、1990年)所収

★平田義さんの文章は下から
http://www.christian-center.jp/chapelhour/2008/wed_tanabe/1210.html


柏木正行「闇」[2021年02月22日(Mon)]


闇  柏木正行

くらい 闇が わたしを さそった
出口に ちかづくに したがい
期待と 不安が
こうごに わたしの こころに わいてきた

うれしかった
たのしかった
だれにも みられず
だれからも わすれられ
わたしは 闇の なかにいた
うつくしい 闇につつまれていた

声がきこえてきた
かたときも わすれることの できない
わたしの こころを かきむしる 声だった

いつまでも そうしていたかった
暗闇に つつまれ
かぎりない しずけさに ひたっていたかった

死は となりだ
死のうと おもえば 死ねるのだ
やってみろ
なにものかが そう わたしを いざなった


◆柏木正行氏の詩集『むくの木の詩』全体から受けるのは、懊悩、絶望、怒りの烈しさと、そのエネルギーに見合うだけの心の深いところから汲み上げた言葉のつよさだ。

「かたときも わすれることのできない」声がわたしをいざなう。闇の中に導いたのもその声だったろう。甘美な静寂にひたっていると、その声が挑発する、「やってみろ」と。

幾度もその声に誘われた人の詩の言葉であるからこそ、さまよう凡百の者たちにとって迷妄を吹き払う風となる。


柏木正行「もしもの うた」[2021年02月21日(Sun)]


もしものうた   柏木正行

もしも
わたしが けんこうだったなら
けんこうの すばらしさを しらなかったでしょう
もしも
わたしが しょうがいしゃでなかったなら
しょうがいしゃについて なにも しらなかったでしょう
もしも
わたしが くるまいすに のらなかったら
くるまいすに のっているひとを
かわいそうにと おもうでしょう
もしも
じぶんの あしで あるけるなら
あるいていると かんじないでしょう
もしも
わたしが じゆうに そとに でられるなら
そとに でたいと おもわないでしょう
もしも
あいする ひとが そばに いてくれるなら
そばにいてほしいと おもわないでしょう


『むくの木の詩』(批評社、1981年)より

◆じぶんの不足や欠乏をかこつことをやめて(一時棚上げにしといて)、「もしも」と考えてみることは、コチコチに凝ったからだをほぐし、右か左に(上か下にでも良い)3センチほどズラして世界を眺め直すことになるだろう。
それを可能にするのは内に備わった想像力であって、身体上の特徴とは関係がない。


柏木正行「分身」:〈いちの〉〈いのち〉[2021年02月20日(Sat)]


◆人間・柏木正行の基底には信仰心がある。次のような母への讃仰はほとんど聖母マリアへの思いに等しい。

わたしを そのからだに 宿し
この世に おくりだして くださった わたしの 母よ
わたしは あなたを たたえましょう
平凡な おんなとしてではなく
かけがえのない わたしの 母として
わたしは あなたを たたえましょう



◆「母よ」の最終連だ。
防空壕のなかで幼いわたしを抱きかかえ必死に守ってくれた母、重度障害者の施設に入った息子の面会にはるばる来てくれた母。

しかし、老いを自覚する親として、我が子の行く末を案じて不安を口にし嘆いたことがあったのだろう。

子の方は、一個の人間として自分の人生を引き受ける姿勢を、幾度も考え抜いたことばによって母に伝えようとした。


分身   柏木正行


あなたは まだ
そんなふうに かんがえていたのですか
わたしが じぶんの 分身だとでも
おもっているのですか
いいかげんに してください
いまさら 愚痴は ききたく ありません
だから どうだと いうのですか?
老いてゆく あなたが
どのようにして 責任をとるのですか
じぶんが まいた たねは
じぶんで かりとりたいのですか

母よ
いつから そんなに 弱くなったのですか
わたしを 産んだのは あなたなのです
あなたが
わたしの いちのを 三十年間 まもってくれたのです

さあ しっかりしなさい
わたしを かわいそうだとは おもわないでください
あなたが どんなに あいしてくれようとも
わたしは わたしの 人生を 歩まなければならないのです
それが とうぜんなのです
だから かなしまないで ください
あかるく いきてください


柏木正行『むくの木の詩』(評論社、1981年)より

***

「いちの」?「いのち」?

◆第2連最終行は「わたしの いのちを」とすべき箇所であろうと最初思い、ここに書き写す時に改めようと考えていた。昨日の詩集まえがきで示したように、原稿はかなタイプによるもので、打ち直しも多い。印刷原稿を起こす際に写し間違いということもあり得るだろう、と思ったのである。

ところが、詩集の出版に尽力した鈴木淳子氏は、あとがきで次のようなことを書いていた――「かなタイプ」という、何度も書き直すことはできない、制限のある表現手段によること、また彼の詩作は、胸におさめた言葉を一気に吐き出して書き上げるやりかたであること、それによって制約を克服し、ひらがなの分かち書きに語りことばのリズムがとけこんでいるのが彼の詩を独自なものにしている――
さらに、「彼のタイプによる詩作が、そのまま彼の労働であり生活であるなら、その労働そのものの表現されるべきではないか。」と書いている。

◆作者がタイプに向かう姿を想像しているうち、「いのち」とキーを打とうとしたときに、それぞれのキーの位置はどうだったのか気になった。
そうして「い」のキーと「ち」のキーが近い所にあって、打ち損なうこともあるのではないかと思いついたのである。

試みに現在のパソコンのキーボード配列をみると、「い」のキーは左手の薬指が触れそうな位置にあり、「ち」は同じ左手の小指が触れやすい位置、つまりこの2つのキーは極めて近い所に配列されている。
JIS配列というのか、これに落ち着くまでには歴史的な経緯があるだろう、と探してみたら、さまざまなタイプラーターやテレタイプのキー配列を図示した論考が見つかった。
だが、概ね「い」と「ち」のキーは近い所に配列してあるものが多いようなのだ。

安岡孝一「キー配列の規格制定史 日本編 − JISキー配列の制定に至るまで」
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/ISCIE2003.pdf

中には「い」と「ち」が中央部分に隣り合って並んでいるキー配列さえ複数ある。
これに対し、「の」のキーは多くの場合「い」から離れた所にある。現在のパソコンでは右手が受け持つあたりにあるし、上記論考の18ある図では1例を除いて、「の」は「い」から離れたところにとどまっていて、「い」&「ち」が並ぶ辺りを遠望しているという格好なのである。
両手使いでなく一本指でキーを打っていたのであれば、「い」の次に「の」に指を飛ばそうとしたものの、飛ばしきれず、或いはははずみで、「ち」のキーに触れてしまった、というのはありそうに思える。

◆と同時に、「いのち」とタイプに打つ直前に詩人の胸中にたたみ込まれていたのはどんな詩句だったろうと想像することも無意味ではないと思えてきた。
例えば「いちばん」あるいは「いっしょう」といった言葉たち。
これらが「いのち」と同じ重さと熱をもってせめぎ合っていたのではないだろうか?




 
柏木正行「いのり」[2021年02月19日(Fri)]



いのり   柏木正行


かみよ
あなたが かたちづくられた にんげんを
ごらんください
あなたの おくびょうな こひつじの つぶやきを
おききください
あなたは なぜ
わたしを このように おつくりになったのです
どうして
かんぜんで ある あなたが
かたわな わたしを つくられたのですか?
あなたは
きまぐれに わたしを つくられたのですか?

かみよ ごらんください
かんぜんむけつの あなたに つくられた
この わたしの すがたを

ちちよ おききください
みずから いきることも しぬこともできない
あなたの おくびょうな こひつじの こえを

わたしは おくびょうなのです
いきることが おそろしいのです


柏木正行『むくの木の詩』(批評社、1981年)より


◆重度障害を持つ詩人のあふれ出ることばの強さに打たれずにいない。

詩集の題名については、巻頭の「むくのきと わたし。」というタイプによるまえがきに記されている。その一部を写しておく。

わたしと むくのきとの かんけいを けっていてきに しているのは、やはり ●その ●む●くのきの えだにおおわれるように たっていた しょうがっこうに、わた●しが し●ょうがい●●いじであるとの りゆうで にゅうがく できなかったことです。
 そ●れは、1952ねんの はるの ことですが、とうじは し●ょうがいじ●の きょういくを どうするかと いうよう●な ことが ●もんだいになるような じだいではなく、きょういく かんけいしゃの あいだでさえ、●それに ついて いけんを かわすのは、きわめて まれでした。
 ●そうした なかで、わたしの ちちは、わたしが にゅうがくする●はずの しょうがっこうの こうしゃを ●めと はなのさきにみながら、むらの きょういく いいんかいからの しゅうがく ゆうよの すすめに おうじてしまったのです。


*●はタイプを打ち直して消した跡である。

◆先日中教審から『令和の日本型学校教育』という答申が出た。その中に、コロナ禍で学校が持つ福祉的な役割を再認識するに至ったという表現があった。
これまでもそうした認識を一応持っていたと言いたいために「再認識」と表現したのだろう。
だが、本当にそうだったか?

まえがきには、つぎのようなことばもある。

がっこうにゆけなかった わたしは、したがって また ともだちも できませんでした。
(中略)
●むくの●きは ただ 1ぽんでも むくのきにちがいありませんが、にんげんには、どうしても にんげんが ひつよ●うで●す。


これは、いま現在の子どもたちの切なる訴えでもあるだろう。

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