リルケ/古井由吉『ドゥイノ・エレギー』第九・十歌より[2020年12月31日(Thu)]
◆2020年が終わる。
恒例の相棒との散歩がてらの「境川クリーンアップ・プロジェクト」(ポイ捨て回収)の報告を。
今年はペットボトル439、缶574、ビン71の計1,084本だった。
2010年4月のスタート以来の累計は17037本となった。
今年1年の総本数は少なかった方から数えて3位タイで、稼ぎが少ない。
コロナ禍でも散歩は朝夕欠かさないから回収本数が少ない理由はほかにある。我が家で最長老となった相棒の散歩の距離が最近は減じているためである。2~3km歩く日もあったのが最近は1km余り。従者たるこちらの怠惰がそれに便乗し増長しているせいもある。
アベ・ガースー政権に付き合ううちに、こちらも他人のせいにすることだけが上手くなった。
◆もっと大事な報告が一つ。
岡大介さんの「湘南社ソング」がYouTubeにアップされたことだ。
今年10月31日、雨岳文庫・民権講座において本邦初演を実現し、その歌詞は拙ブログでも紹介した。
★カンカラ三線・演歌師 岡大介「湘南社」を歌う(2)
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1745
下記リンクから伸びやかな歌声をぜひ味わってほしい。
★岡大介 湘南社ソングを歌う
⇒https://www.youtube.com/watch?v=kgGQtsuWCpc
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リルケ/古井由吉『ドゥイノ・エレギー』第九・十より
◆R.M.リルケの『ドゥイノ・エレギー』、古井由吉の訳により、その第九歌の結び――
現世よ、お前の求めるところはほかならぬ、目には見えぬものとなって、われわれの内に甦ることではないのか。いつかは目に見えぬものとなること、それがお前の夢ではないか。現世、しかも目に見えぬ。この変化を求めるのではないとしたら、お前の切々とした嘱(たの)みは何であるのか。現世よ、親愛なる者よ、わたしは引き受けた。安心してくれ、わたしをこの務めにつなぎとめるには、お前の春をこれ以上重ねる必要はおそらくないだろう。一度の、ああ、たった一度の春だけで開花には十分に過ぎる。名もなき者となってわたしはお前に就くことに決心した、遠くからであっても。お前は常に正しかった。そしてお前の聖なる着想は、内密の死であるのだ。
このとおり、わたしは生きている。何処から来る命か。幼年期も未来も細くはならない。数知れぬ人生が心の内に湧き出る。
*「現世」という訳語、手塚富雄訳『ドゥイノの悲歌』(岩波文庫、1957年)では「大地」と訳出し、地上の物たちを広く総括して呼びかけた、と注する。
◆「われわれの内に甦」り、務めとして引き受けるものとは、これに先立つ連において「単純なもの/世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるもの」のことだと歌われている。それらの物たちは「無常の者」であるわれわれ、「無常も無常のわれわれ」に、「救いを憑(たの)むのだ」と。ならば、それをわれわれはわれわれの務めとして、「はてしのない務め」(同連)として受けとめるのは当然であるばかりか、「わたし」にとって十分すぎる存在理由ではないか。幾世代・幾万もの「数知れぬ人生が心の内に湧き出る」のを全身で感じるのだ。
*
◆第十歌は、夭折した青年が「歎き」の一族の少女に導かれ、さらにその姉の案内により「歓びの泉」が湧き出る山の麓に至り、そこから先「原・苦悩(ウアライト)」の山中へ、運命の無言(しじま)の中へと消えて行く道行きが叙される。
そうして結び、現世に在るわれわれに示唆と啓示がもたらされる――
『ドゥイノ・エレギー』第十歌
より結びの2連
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しかし彼らは、無限の境に入った死者たちはわれわれに、ただ一つの事の比喩を呼び覚まして往った。見るがよい、死者たちはおそらく、指差して見せたのだ。榛(はしばみ)の枯枝から垂れ下がる花穗を。あるいは雨のことを言っていたのだ、早春の黒い土壌に降る雨のことを。
そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう――幸福なものは下降する、と悟った時には。
◆「幸福なものは下降する」――死者たちがわれわれに呼び覚ましたもの―「垂れ下がる花穂/降る雨」という比喩―は、「死」もまた幸福であることを示している。
「死」がすべての終わりではなく、人間が感受・領解できる範囲のその先にある世界であって、そこからわれわれが汲み上げるものが無限であることを示唆しているのだろう。
もし後に残された者において、そうであるのならば、先だった者においても等しくそうであるはず、と考えるのは自然なことだ。
それは諦めや断念ではなく、むしろ放念して豊かさに分け入ることだと思えて来る。
◆今年逝去した古井由吉氏の「ドゥイノ・エレギー訳文」(『詩への小路』所収。書肆山田、2005年)のおかげで、小冊ながら読み通せぬままだった岩波文庫版『ドゥイノの悲歌』を読む機会を得た。
古井氏自身は「訳詩とは言わない。詩にはなっていない。これも試文である。エッセイの地の文の中へ、仮の引用のようなものとして、入るべきものだ」と控えめに語っているが、詩と散文をつないだ言葉の架橋に導かれて、豊かな山の麓に立つことができたこと感謝したい。