CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2020年09月 | Main | 2020年11月 »
<< 2020年10月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
日別アーカイブ
カンカラ三線・演歌師 岡大介「湘南社」を歌う(2)[2020年10月21日(Wed)]


雨岳文庫民権の会岩崎稔さんが10月31日の民権講座・岡大介公演に寄せた文章を拝読した。
今回初演される「湘南社ソング」を作詞された生みの親である。
これをメロディに乗せて歌う岡大介さんがもう一人の生みの親となる。

私たち市民は、これを口ずさんで21世紀に大きく育くむ育ての親ということになる。

初演に先だって「湘南社ソング」の歌詞を収めた全文を紹介する。

*****


カンカラ三線・演歌師岡大介「湘南社」を歌う

           雨岳文庫民権の会 岩崎 稔

 2020年10月31日(土)伊勢原の公益財団法人雨岳文庫(山口家住宅 国登録有形文化財)において、第6回「湘南社」民権講座「カンカラ三線・演歌師岡大介“現代の自由民権を歌う”という、これまでの民権講座とは趣が異なる公演が開催されることになった。そこで歌われる「湘南社ソング」を本紙面にて紹介しようと思う。湘南社とは、相州の最初で最大の民権結社で、その講学会で行われた「憲法論議」は「湘南社の主権論」として、高く評価されている。その主権論は、憲法草案には至らなかったが、人民主権論を徹底させた憲法論議で、多くの憲法草案が「君民二元論」をとっているなかで、堂々と「人民主権一元論」を展開している点で注目される。『神奈川県史』は、その意義を「五日市憲法をも超えるもの」と評している。それらの憲法論議の内容を是非、伝えたいと思い、カンカラ三線・岡大介公演での「湘南社」ソング公演の開催となった訳である。自由民権運動は、現在の民主主義を考える上での原点と考えたからに他ならない。

岡大介氏.jpg
岡大介(おかたいすけ)さん

 「湘南社」ソングは二つ用意したが、今回、歌われるものは、憲法視点から近現代史を歌ったもので、日本国憲法には自由民権運動の遺産が受け継がれているという点を強調し、主権在民と人権擁護規定が、敗戦後に制定された日本国憲法で復権された点を強調するものであった。岡大介さんは自由民権運動から始まった明治大正演歌をうたう現代唯一のカンカラ三線・演歌師、特に演歌師、添田唖蝉坊・知道親子の作品をうたっていることで知られている。添田唖蝉坊の流れをくむ岡さんの演歌は、唖蝉坊のように、時代が孕む世相に鋭く入り込み、笑い飛ばす力をもつ。今回、「湘南社」民権講座で、岡大介さんをお呼びして「公演」を依頼した訳が、そこにあった。岡さんがいう「演歌」とは、明治時代から脈々と続いてきた『演説歌』の意、庶民の不満や怒りがこもっている本来の演歌と言われるものである。今回、公開講座で歌われる「湘南社」ソングは以下の通りである。

1 自由は大山の麓より         
  民権魂 ここにあり
  雨岳文庫で 目をさませ
  ワレラガ湘南社シットクレ

2 自由は大山の麓より
  君主主権 道理なし
  国民主権こそ 正義(正理)
  ワレラガ湘南社シットクレ

3 自由は大山の麓より       
  国民主権 奪われて
  戦争惨禍 耐え抜いた
  ワレラガ湘南社シットクレ

4 自由は大山の麓より
  繰り返しはせぬ 戦争を
  決意を込めて 憲法に
  ワレラガ湘南社シットクレ

5 自由は大山の麓より
  主権在民 わが宝
  未来へつなぐ 心意気
  ワレラガ湘南社シットクレ 
     


碑.png
山口左七郎旧居(現山口家)にある民権碑

 次のもう一つの「湘南社」ソングは、今回は歌われないが、湘南社の主権論を主題にしたもので、猪俣道之輔「主権の帰属」と宮田寅治「主権は何に帰属するや」との講学会レポートを要約した「演説歌」である。

 湘南社の憲法論議
   〜宮田寅治と猪俣道之輔の主権論〜

 憲法は国家の基本を規定する
 主権在民こそ 正理
 国民は主権の権力をもつ
 主宰者だから
 総領・帝王を置くか否かは
 主権者の命ずるところ
 137年も前のことだけど
 宮田寅治は 述べている
 まるで 日本国憲法第一章と同じだ

 主権在民あればこそ
 国の平和が 保たれる
 君主の横暴押さえなければ
 人民主権は 成り立たぬ
 国の平和を望むなら
 主権は人民に帰せられるべき
 137年も前のことだけど
 猪俣道之輔は 述べている
 まるで 日本国憲法前文と同じだ

      (「湘南社ソング」A歌詞原案)

 カンカラ三線・演歌師岡大介さんが湘南社ソングを「是非、全国に広めたい」と言われる。これは現在にも引き継がれている自由民権の精神を全国に広めていこうという思いの現れで、われわれに、大きな励ましと勇気を与えるものであった。ここに岡さんの作曲への労を謝し、お礼としたい。
       (東京唯物論研究会会報『燈をともせ』第31号寄稿)



カンカラ三線演歌師・岡大介「湘南社」を歌う(1)[2020年10月20日(Tue)]

2020年 第6回「湘南社」民権講座

カンカラ三線・演歌師 岡大介
”現代の自由民権を歌う


2020年10月31日(土)14〜15時
会場:雨岳文庫(山口家住宅:国登録有形文化財)
 伊勢原市上粕屋862-1 電話1(プッシュホン)0463-95-0002(山口方)
 参加費:1000円

*コロナ対策のため定員30名で、申し込み締め切りが10/15となっていました。締め切りを過ぎてからのお知らせとなり、恐縮です。
ただし、今回の公演は収録され、追って公開する予定があるとのことですので、詳細が分かり次第続報としてアップします。



***

◆神奈川における自由民権運動をリードした結社・「湘南社」の歴史を掘り起こしてきた伊勢原の雨岳文庫および雨岳文庫を活用する会が、第6回民権講座を開く。

会場は神奈川の民権家たちが実際に集って学び合い議論を闘わした山口家住宅

今回はカンカラ三線の演歌師として知られる岡大介(おかたいすけ)さんを迎える。
岡さんは添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)添田知道(ともみち)父子の作品を今に歌い継いでいる。
政治と世情を諷刺し笑いで肩の力をゆるめてくれる演歌師だ。

添田啞蟬坊(1872-1944)は大磯の人で、民権講座の最初は「湘南社」の拠点・大磯をスタートとしたから、岡大介さんの今回の登場は待望のものと言って良い。

「ウィルス戦線異状あり」(元は啞蟬坊の「生活戦線異状あり」)や「ウィルス復興節」(元は知道の「復興節」)など、コロナ禍も早速取りこんだ新作をお披露目したばかりの演歌師・岡大介。その歌声は、民権と演歌の歴史を明治・大正から現代までまっすぐにつないで、明日へと踏み出す私たちの足を軽やかにしてくれることだろう。

”現代の自由民権を歌う”というタイトルにふさわしく、今回は、何と「湘南社ソング」という新作が本邦初演となる予定だ。

***


スキャン_20200904 (3).png



〈ひとは曲がった木のように生きる〉[2020年10月19日(Mon)]

イツカ、向コウデ  長田弘

人生は長いと、ずっと思っていた。
間違っていた。おどろくほど短かった。
きみは、そのことに気づいていたか?

なせばなると、ずっと思っていた。
間違っていた。なしとげたものなんかない。
きみは、そのことに気づいていたか?

わかってくれるはずと、思っていた。
間違っていた。誰も何もわかってくれない。
きみは、そのことに気づいていたか?

ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。
生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。
きみは、そのことに気づいていたか?

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?

サヨナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。



『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年より。もと2003年同じくみすず書房刊『死者の贈り物』に収む)

◆かけがえのない友をうしなった悲しみの夜、こだますら返ってこない闇に向かってことばをつぶやくことに何の意味があろう。語りかける相手はもういないのだから。
そうした日が永遠に来ないで済むように――上の詩に出会って、そんなことを思う。

◆同じ詩集の2つ前の「こんな静かな夜」には、次のような一節もある。

わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をすべきでないか考えるべきだ。



全面的に承服はしないけれども、喪失の悲しみゆえにそう思うほかない一夜があることは分かる気がする。

平田俊子「ひ・と・び・と」[2020年10月18日(Sun)]


ひ・と・び・と   平田俊子


あなたの声を聞かせてください
わたしの声を聞いてください

あなたの好きな窓を描いてください
わたしの好きな色にぬらせてください

あなたの湖をちょっと貸してください
わたしの山にのぼってもいいよ

あなたの鎖骨を見せてください
わたしのと片っぽ交換しましょう

あなたの運命線を見せてください
わたしの生命線を少しあげます

あなたの物語にさわらせてください
わたしの歴史を抱きしめてください

あなたの傷を見せてください
わたしの傷あとも見てください

あなたの泣き顔を見せてください
わたしも泣くからそばにいてほしい

あなたが生まれた町の
地図を描いてください
いつかいっしょに行けたらいいね

あなたの影を見せてください
わたしの影とならべてみましょう
きっとふたつはとてもよく似ている

あなたの名前を教えてください
わたしの名前も尋ねてください


現代詩文庫『平田俊子詩集』(思潮社、1999年)より

◆題名、「ひ・と・び・と」と間に点が打ってあるところからすでに、ちょっと待てよ、と思わせる。
ことばはどれも平易だが、「あなたの湖を〜/わたしの山に…」というような意表を突く対句に出会うので、その手前のすんなり読んだ2行にも、何か含意があったのかも、と戻って考え直したくなる。

冒頭の「あなたの声を〜/私の声を…」にしてからが、造作もないはずのことが、実は本当は難しいのだ、と言いたいのだろうか?
この冒頭2行は最後の対句「あなたの名前を教えて下さい/わたしの名前も尋ねてください」と呼応している。

◆ふつうなら出会いの最初に交わす応答が、この詩では最後になっている。
名乗られ・名乗るのがクライマックスであるのなら、そこに至る手前で次々とぶつけていた呼びかけ――「あなたの鎖骨を〜」という飛んだ提案や「わたしの生命線を少しあげます」という度肝抜く申し出などなど――それらは重要度において全く比較にならないのだろうか?

恐らく、そうではない。
名を尋ねこちらも名乗る最初の一刹那に、これらの提案のことごとくが束になって身の内に溢れて来てしまうのだ。
それらのお願いのどれにも応じてくれるという直観と相手への信頼と自負と。

大事な点は、呼べば応えること。どんな突飛な思いつきも無視せず返してくれること。

*******

◆以上のこと、互いの傷を含む歴史を共有すること、似ているところを認めて大切にし、互いの声に耳を傾けることは、男女の間に限らず、国同士の付き合いにも通じそうだ。
初の外遊でベトナム・インドネシアに向かうスガ首相にも是非味わってもらいたい一篇。




水平線がある[2020年10月17日(Sat)]


水平線  小泉周二

水平線がある
一直線にある
ゆれているはずなのに
一直線にある

水平線がある
はっきりとある
空とはちがうぞと
はっきりとある

水平線がある
どこまでもある
ほんとうの強さみたいに
どこまでもある


*現代児童文学詩人文庫『小泉周二詩集』(いしずえ、2004年)

◆海がゆれている以上に、海を見ている私自身が揺れて苦しんでいる(詩の中に「私」という言葉は全く使っていないのだが)。
それだから「ほんとうの強さ」を持ちたいと願っているのだ。

海に対する人は、我が足もとばかり見ていた目を、はるか遠くに向かわせる。
海に向かえば、全く、そうするほかないではないか。

そうして、画然と空と海とを分かつ一本の線を、わが心にもギリリと引くほかないではないか。


空気と勇気[2020年10月16日(Fri)]

DSCN4446.JPG



空気と勇気   小泉周二

あるのかないのか
はっきりしないが

すうのが空気
だすのが勇気

つつむのが空気
ささえるのが勇気
どっちも
なくては
生きていけない


*現代児童文学詩人文庫『小泉周二詩集』(いしずえ、2004年)

◆上のような詩選集のシリーズがあることを初めて知った。

2連目、計算高い大人はこの逆で世渡りする。
すなわち――

だすのが空気/すうのが勇気」
(上位者の意向に添う雰囲気をあたりに醸し出す=異を唱えそうな者には、蛮勇に過ぎないから呑み込めと促す)

次も同じだ。

ささえるのが空気/つつむのが勇気」
(どんなボンクラでも支えることを忘れず、詭弁と記録抹消でボロを包み隠す覚悟)

◆まっすぐ子どもたちのこころに届くようにと願って紡がれたことばは、澱で見通しが利かなくなった大人たちの姿を照らし出す。

冷え冷えした空気が官邸を占有して一ト月。
未だにちゃんとした記者会見を開く勇気がない官邸の主!!



コロナ禍と安保法制・イランをめぐる危機[2020年10月15日(Thu)]

DSCN4453.JPG
落果のときを迎えた銀杏、重たげだ。横浜市日本大通で。


かながわ安保法制違憲訴訟 第12回口頭弁論

◆ほぼ1年ぶりの横浜地裁、コロナ対策で傍聴数が限定されるのは予想していたが、70名余の一般傍聴希望に対して、用意されたのはわずか11席で、倍率6,7倍。当方は残念ながらハズれ。
予め確保されていた原告席が一定数あるものの、小雨の中、傍聴に足を運んだ人にとっては気の毒な限り。
特に今回は横浜空襲を体験された原告への本人尋問があり、直接傍聴できなかったのは残念というしかない。

◆並行して別会場で開かれた報告集会、法廷で陳述に臨んでいるはずの福田護弁護士の意見陳述書を読んだ。

◆昨年から今年にかけてのイラン情勢について強い危機感を表明している。
コロナ禍で国内のことに注意が向きがちだが、昨年から今年にかけて、全面戦争に突き進んでもおかしくなかった2度の危機。

◆昨2019年6月のオマーン湾でのタンカーへの攻撃をめぐるアメリカ・イランの対立(無人機が撃墜された)。そして今年1月3日、アメリカがバグダッドでイスラム革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害し、イランが米軍施設に報復攻撃を行ったことである。その後も不穏な状況に変わりはない。メディアの報道が鈍いので日本国民は殆ど意識の外に追いやっているが、コロナ禍は国同士の対立を一気に燃え上がらせる火種でもある。

◆安保法制制定の理由として政府が取り上げたのはイランによってホルムズ海峡が機雷封鎖されたならば、という想定だった。
その後、日本としては米軍を中心とする「有志連合」に加わらなかったものの、「調査・研究」という名目による自衛隊派遣は続いており、実態として有志連合と一体的な関係であることが指摘されている。

仮に彼の地で戦端が開かれ、自衛隊への出動要請がなされれば、政府はそれに応じる構えだろう。
現在22地域・25件の裁判として闘われている安保法制違憲訴訟によってストップをかけなければならないゆえんである。

◆かながわ安保法制違憲訴訟、次回の期日(口頭弁論を行う日)は明年2月4日(木)14:00と決まった。
「戦争への不安に脅かされることなく平穏に生活することは憲法が保障する国民の権利である」という原告の訴えに、国は真っ正面から応える責務があるはずだ。

*******


坂のある道  くりはらすなを

白と青の空をうっすらとなぞるように灰色の空
気が覆っている。どこからか飛行機の音が聞こ
えてくる。尖った戦闘機が南へ向かって飛んで
いく。ときおり姿を見せては雲の中に消えてし
まう。

坂のある道では時間は時々後ろ向きのまま訪れ
るらしい。老人が薄笑いを浮かべながら歩いて
いる。老いた犬が億劫そうに後をついて行く。



*詩集『遠くの方で』(国文社、2016年)より。

◆「老人の薄笑い」が何がなしシュールである。絵に描かれる寒山拾得のようでもある。
連れの老犬が老人を引っ張って行くのではなく、老人の後に犬がついて行く、というところが意味深長である。




シンボルスカ「決算のエレジー」[2020年10月14日(Wed)]

決算のエレジー   ヴィスワヴァ・シンボルスカ
                沼野充義・訳

わたしが知っていた
(もしも本当に知っていたとして)
男たち、女たち
(もしも男女に分けることがいまだに有効だとして)
そのうちの何人があの敷居をまたぎ
(あれが敷居だとして)
あの橋を駆け抜けていったのか
(あれを橋と呼ぶとして)――

人生には長いものも短いものもあり
(生きた当人にとってやはりその違いに意味があるとして)
始まったからには良いものだし
終わってしまった以上は悪いもの
(人々が逆のことを言いたいのではないとして)
その人生を終えて何人が向こう岸に辿りついたのか
(もしも辿りついたとして
そして向こう岸が存在するとして)――

あの人たちのその先の運命について
わたしは確信が持てない
(たとえそれが一つの共通の運命だとして
そもそもまだ運命があるとして)――

すべては
(もしもこの言葉で物事を限定しすぎないとして)
あの人たちの後ろにある
(もしも前ではないとして)――

あのうちの何人が疾走する時から飛び出し
遠くのほうに、ますます哀しげに消えていくのか
(もしも遠近法が信じるに値するとして)――

何人が
(もしもこの問いに意味があり
もしも数える人が自分を勘定に入れる前に
最終的な決算に辿りつくことができるとして
あのいちばん深い眠りに沈んだのか
(あれ以上深い眠りがないとして)

さようなら
また明日
また会うときまで
もうあの人たちはそんな言葉を繰り返したくない
(繰り返したくないとして)
あの人たちは果てしない沈黙に身をゆだね
(そのほかの種類の沈黙ではないとして)
不在に強いられたことに
(もしもかまけているだけだとして)
ひたすらかまけている


*『終わりと始まり』沼野充義・訳(未知谷、1997年)より。


◆すべての詩行に留保がつけられている。
述べた言葉が「一般に想定されている前提の上に成り立つとして」といちいち断り書きをしなければならないのは、その前提が成り立たない重大な事件が「わたし」を襲ったこと(あるいは今まさにそれを閲しつつあり、おそらくはこの先も起こり得ると観念せざるをえないこと)を意味する。

◆「敷居・橋」を跨ぎ越してたどり着いた「向こう岸」「深い眠り」「果てしない沈黙」が意味するのが「死」であることは明らかだろう。
最後の3行が難しい。「あの人たち」は「不在(の状態であり続けるよう)に強いられた」と解しておく。
そのように強いられたことに「ひたすらかまけている」ように見えるのは、未だ「わたし」が橋の手前に居て、「あの人たち」の列に加わっては居ないからに過ぎない。

「わたし」が見舞われた重大な事件とは、暴力的なやりかたによる理不尽な死だ。(戦争による死がその典型だ。)
無論、そこに至るべく周到かつ執念深く加えられた圧力、それによって人間的なつながりが分断され、営々と築かれた諸制度が破壊・放棄される過程には、意欲の消耗や精神的・肉体的疲弊のあらゆる態様がある。
それらを含めた「決算」ができるのかというと、「わたし」もそこに算入されずにはいない以上、厳密には不可能な話。圧力や非道な扱いに抗うことを全くしないのなら話は別だが。
その場合、生のこちら岸にいるはずの「わたし」も事実上「不在」であるに等しいことになる。

◆現在の学術会議任命拒否問題もまた、そのプロセスの一つとして考えられるだろう。

かながわ安保法制違憲訴訟10月15日[2020年10月13日(Tue)]

かながわ安保法制違憲訴訟
10月15日(木)第12回口頭弁論


横浜地裁 101号法廷
   JR関内、もしくはみなとみらい線日本大通駅下車

2020年10月15日(木)14:00

集合時間 13:30…横浜地裁、南側正面入口

傍聴抽選締め切りは13:40ころの見込み

◆コロナにより半年延期となった裁判がようやく再開となる。
政府は安保法制・共謀罪・特定秘密保護法・改憲の問題点を指摘し批判の声をあげた学者たちへの露骨な制裁によって日本学術会議全体を権力に従わせようとしている。
大学等の軍事研究協力を進める意図が背景にあり、学術会議会員任命をめぐる官邸の介入はすでに2016年から始まっていたことが明らかにされている。

安保法制違憲を法廷において明らかにするこの裁判がますます重要な意味を持つことになった。

◆今回は原告本人への尋問が予定されている。
コロナ対策で傍聴できる人数に限りがあるものの、YWCA3階ホールで報告集会も行うので、傍聴抽選にはずれても是非参加を!
 横浜市中区山下町225

*******


終わりと始まり ヴィスワヴァ・シンボルスカ
               沼野充義・訳

戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
何といっても、ひとりでに物事が
それなりに片づいてくれるわけではないのだから

誰かが瓦礫を道端に
押しやらなければならない
死体をいっぱい積んだ
荷車が通れるように

誰かがはまりこんで苦労しなければ
泥と灰の中に
長椅子のスプリングに
ガラスのかけらに
血まみれのぼろ布の中に

誰かが梁を運んで来なければならない
壁を支えるために
誰かが窓にガラスをはめ
ドアを戸口に据えつけなければ

それは写真うつりのいいものではないし
何年もの歳月が必要だ
カメラはすべてもう
別の戦争に出払っている

橋を作り直し
駅を新たに建てなければ
袖はまくりあげられて
ずたずたになるだろう

誰かがほうきを持ったまま
いまだに昔のことを思い出す
誰かがもぎ取られなかった首を振り
うなずきながら聞いている
しかし、すぐそばではもう
退屈した人たちが
そわそわし始めるだろう

誰かがときにはさらに
木の根元から
錆ついた論拠を掘り出し
ごみの山に運んでいくだろう

それがどういうことだったのか
知っていた人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりももっと少ししか知らない人たちに
最後にはほとんど何も知らない人たちに

原因と結果を
覆って茂る草むらに
誰かが横たわり
穂を噛みながら
雲に見とれなければならない


 詩集『終わりと始まり』(未知谷、1997年)より

大木毅『独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書、2019年7月刊)が12万部を越すベストセラーになったという(10/13朝日新聞朝刊「ひと」欄)。

アジア太平洋戦争での日本人の死者310万人余という数字は知っていても、独ソ戦におけるソ連の犠牲者2700万人という数字は広く知られているとは言い難い。第2次大戦期の欧州の政治状況や軍事的対立とその結果について、我々の多くは傍観者であった。敗戦後の北方領土問題も独ソ戦における甚大な被害を念頭に置かなければよく理解できないだろう。

◆祖国ポーランドがナチスドイツ、続いてソ連の侵攻、国土の分割に見舞われ、世界大戦に巻き込まれていった時代に青春を過ごしたシンボルスカ(1927-2012)にとって、戦争は遠い海の彼方のものではなかった(1944年のワルシャワ蜂起では愛する従兄を失っている)。

草むらに覆われて横たわる者が自分ではないという保証などないことを知っている以上、戦争の結果が次の原因となっていく兆候を見逃さず警告を発し続けることは、詩人であれ学者であれ、人に押しつけることのできない責務として引き受け、行動するほかないのだ。



シンボルスカ「一目惚れ」[2020年10月12日(Mon)]

一目惚れ  ヴィスワヴァ・シンボルスカ
            沼野充義・訳

突然の感情によって結ばれたと
二人とも信じ込んでいる
そう確信できることは美しい

以前知り合っていなかった以上
二人の間には何もなかったはず、というわけ
それでもひょっとしたら、通りや、階段や、廊下で
すれ違ったことはなかったかしら

二人にこう聞いてみたい
いつか回転ドアで顔を突きあわせたことを
覚えていませんか?
人ごみのなかの「すみません」は?
――でも二人の答はわかっている
いいえ、覚えていませんね

もう長いこと自分たちが偶然に
もれあそばれてきたと知ったら
二人はとてもびっくりするだろう

二人の運命に取ってかわろうなどとは
まだすっかり腹を決めていないうちから
偶然は二人を近づけたり、遠ざけたり
行く手をさえぎったり
くすくす笑いを押し殺しながら
脇に飛びのいたりしてきた

しるしや合図はたしかにあった
たとえ読み取れないものだったとしても
三年前だったか
それとも先週のことか
木の葉が一枚、肩から肩へと
飛び移らなかっただろうか
何かがなくなり、見つかるということがあった
ひょっとしたら、それは子供のとき
茂みに消えたボールかもしれない

ドアの取っ手や呼び鈴に
一人の手が触れたあと、もう一人の手が
出会いの前に重ねられたこともあった
預かり所で手荷物が隣り合わせになったことも
そして、ある夜、同じ夢を見なかっただろうか
目覚めの後すぐにぼやけてしまったとしても

始まりはすべて
続きにすぎない
そして出来事の書はいつも
途中のページが開けられている


 『終わりと始まり』(未知谷、1997年)より

小池昌代はこの詩をアンソロジー『恋愛詩集』(NHK出版新書、2016年)の巻頭に掲げていた。

◆「偶然が必然に変わるとき」「運命は偶然の化学反応」「知るは神さまのみ」……似たような言い方がさまざまありながら、それらがすべて同じ糸の上に乗っかっているように思えるのは、物語の力、ということだろう。あるいは人は物語を生きるように運命づけられている、ということか。
それに気づかないとしたら、せっかくの人生が余りにもったいない。

しかし、それにしてもここに登場する「偶然」という天使の、身のこなしの愛らしく軽やかなこと。


検索
検索語句
最新コメント
マキシミリアナ・マリア・コルベ
コルベ神父のこと その2 (06/23)
タグクラウド
プロフィール

岡本清弘さんの画像
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index2_0.xml