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新型コロナと「子どもの権利条約」[2020年07月11日(Sat)]

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こちらが見ていようが見ていまいが倦むことなく進むカタツムリ。

*******

◆「子どもの権利条約市民・NGOの会」が6月15日に、「新型コロナウイルス感染症と子どもの権利に関する声明」を発表した。

【新型コロナウイルス感染症と子どもの権利に関する声明】
https://591907a0-1b71-47e3-a44f-2d81f43329d0.filesusr.com/ugd/723d7f_2a2a79509d78405c841b40c1b57de213.pdf

◆2月の長期休校要請は日常のかけがえのなさと社会のさまざまなシステムの破綻に近い窮状に瀕していたことを痛感させたが、それは現政権がそれらの犠牲の上に一部勢力だけに利する施策を繰り出し続けて来た結果であった。

一般に新自由主義といわれる、小泉政権以来の経済最優先の政策は、弱者を社会的セーフティ・ネットから遠ざけ、消費税値上げがその最終仕上げとなった。

◆上掲の声明は、その結果、学びの場から疎外されようとしているすべての子どもたちのために、彼らの声に耳を傾け、彼ら自身が教育に参画することを追求するものだ。
「子どもの権利条約」を履行する施策として、20人以下の少人数学級を実現するよう求めているが、これはまさに新型コレラウイルス時代の新しい生活様式としてふさわしいものだ。
少子化が進んだ結果、教室数には余裕があり、必要な人間の配置を進めて行けば不可能ではない。

◆声明は国家の責任において果たすべき11の要請を掲げているが、その11番目に次のような項目があった。

第11. 新型コロナウイルス感染症の子どもの罹患と発症の固有性に関する科学的知見を国が集約し、子どもを感染から守るために必要とされる、子どもの行動の制限がより少ない措置を国の責任で実施すること。

◆パンデミックの混乱の渦中にあってもコツコツと症例報告を分析して、このウイルスの特徴について新たな知見を見出す研究が公にされている。感染の仕方、重症化するケースの特徴、有効と思える既存薬の投与法、直近では、獲得したはずの抗体が3か月で減少してしまう、というスペイン保健省の報告もあった。それらを生きた知識として共有し、有効な対策につなげるには、学ぶ主体である子どもたちにそれらの知見が浸透し、行動として定着することが望ましい。
やみくもに消毒や除菌作業を行えばよい、ということでないのも明らかになっている。新しい知見によって更新した認識のもと、無理なく実践できる効率的な手立てを進めること。
そのために子どもたちが主体的にのびのびと取り組める環境が必要だ。

◆おりしも、7/11の朝日新聞朝刊には専門家のインタビューが載っていた。
アメリカのCDCにいた経験もある西村秀和・国立病院機構医療センター・ウイルスセンター長だ。

自ら訳した感染症の歴史書から分かることは――

「パンデミック対策はアクセルを踏んだらブレーキも踏まねばならない。双方のバランスこそが必要だと学びました。現在まさに起きている、意思決定のプロセスを途中で冷静に検証し場合によっては止めるメカニズムの欠如、そして『専門家が確率を語らない』ことも、歴史的に繰り返されてきたのだと分かります」

ここまでの日本の対応・自粛要請をどうみるか――

「感染リスクは環境や条件によって異なります。一律の対策はあり得ません。2月の一斉休校要請もその後の緊急事態宣言も、地域ごとにやるべきだった。分かってきた知見から、高齢者や持病のある人と重症化事例の少ない子どもで対応は違っていいはずです。一つ一つのリスク評価をする際、異なる科学的見解も踏まえて検討する。これもバランスの取り方です。危機と感じる人が多い時こそ『一色』にならないようにしなければ。」


◆そういえば、冒頭の「新型コロナウイルス感染症と子どもの権利に関する声明」の要請第2には次のような記述もあった。

第2. 参加を通じて子どもが人間として成長発達するという条理を踏まえ、施策の策定および施策の影響評価にあたって子どもの参加を全面的に実現すること。

大人の言うことに従っていれば良いのではない。施策を作る段階から始まって、実施、どうだったかふりかえり、修正を加える、それらのプロセスにも子どもたちは当事者として主体的に参加できなければならないのだ。



「ウポポイ」をめぐる萩生田発言[2020年07月10日(Fri)]

DSCN3865.JPG
イヌマキ。先日載せたのと同じく雌株の方で、丸い実の下に細長い果床という部分が、トーチの持ち手のように付いているのが見えた。

*******

萩生田光一文部科学相が10日の会見で、民族差別への無理解をあらわにした。
明後日オープンする先住民族アイヌをテーマとする国立博物館「ウポポイ」をめぐり、アイヌの人々が受けた差別の歴史をどう伝えるか問われてのコメントだ。
朝日新聞によれば「原住民と、新しく開拓される皆さんの間で様々な価値観の違いがきっとあったのだと思う。それを差別という言葉でひとくくりにすることが、後世にアイヌ文化を伝承していくためにいいかどうかは、ちょっと私は考えるところがある」と述べたという。

「原住民」という差別的な語を用いて平気であることに驚く。
「価値観の違い」としてアイマイにする言い方も、差別した側に立った自覚を欠いたまま、負の歴史を覆い隠すものだ。

報じる側も、「持論」と書いただけでは、中立的表記を盾にして実際は差別した側に加担することにしかならない。「差別の歴史、修正の意図か」程度の指摘はすべきところだろう。

萩生田氏のコメントは上西充子・法政大教授の言うアベ首相「ご飯論法」と同じく、論点をずらす話法である。
それだけでない。ソフトな言い方のようでいて、底意を探れば、「差別という視点にこだわるなら、この施設を活用したアイヌ文化伝承にも支障が出ることになりますよ」と圧力をかける用意があることをほのめかしたともとれる。

文科省が息しづらい役所に成り下がったのは先刻承知だが、「民族共生象徴空間」と銘打ったアイヌ民族をテーマとする初の国立民族博物館である「ウポポイ(大勢で歌う、の意味)」、自由に呼吸できる「窓」がちゃんとあるだろうか?

【朝日新聞7/10】
アイヌ差別の歴史に持論 萩生田氏「価値観違いあった」
https://www.asahi.com/articles/ASN7B5GDXN7BUCVL00V.html



〈窓はどこにあるのだろうか〉[2020年07月09日(Thu)]

DSCN3803.JPG
ムクゲの花。
激しい雨風に耐えた朝。

*******

◆香港に中国の公安機関が設置され、開所式があったという。
所長には強硬派で知られた人物が着任、300人体制で香港行政の指導と、国家に異議を唱える人間を取り締まる。昨年来、自由を求める人々が歌って来たテーマソングというべき「香港に栄光あれ」を歌うことも禁じられると言う。
上のニュースを伝えたNHK-BSの「ニュース・キャッチ」は、解説で「香港に栄光あれ」を流していた。地上波でも同じ扱いをする勇気を発揮したかどうか。

◆今週号の『週刊金曜日』が届いた。巻頭は同誌編集委員の一人でもあるピアニスト・崔善愛(チェ・ソンエ)の随想「存在の否定」。

トランプのアメリカ同様に、日本でも人種差別が常態化していると指摘し、一例として、ナイジェリア人の父を持つプロ野球のオコエ瑠偉選手を取り上げた。ツイッターにつづられた彼の苦悩は多くの共感を呼んだが、肌の色や血筋の違いをあげつらい、時に陰口で、時に公然と口にされ投げつけられる差別の言葉に「普通の日本人になりたい」と願い、自らの存在すら否定する体験は、在日としての崔善愛にも全く他人ごとではない。

同じ思いは、オコエ選手と同世代である娘も味わって来たと記す。自分と同様に夢の中でさえ身の危険を味わったことがあるという。

結びの2段落を引用する。

 数ヵ月前、娘がこう明かした。「実は小学生のとき友だちから、『お母さんは韓国人なの? でも半分日本人でよかったね』と言われた」と。このことを娘は15年間胸に秘めていた。
「日本人でよかった」「JAPANESE ONLY」という空気を毎日吸っていると「息ができなくなる」。窓はどこにあるのだろうか。


友だちの無邪気なことばが、彼女にトゲとして長く突き刺さったままであったことに慄然とする。



川崎洋「どうかして」[2020年07月08日(Wed)]

DSCN3788アカメガシワ?.JPG
アカメガシワだと思う。若い時期の赤い葉はよく見かけるように思うが、白い花が顔を出しているのが珍しい。場所さえ与えられれば高く伸びる樹であろうに、舗装の隙間に芽を出したばっかりに、いずれ刈られてしまう運命なのが気の毒だ。

*******


どうかして  川崎洋

(き)          
なんとかお前に交わる方法はないかしら
葉のしげり方
なんとかお前と
交叉(こうさ)するてだてはないかしら


お前が雲に消え入るように
僕がお前に
ずっと入ってしまうやり方は
ないかしら
そして
僕自身も気付かずに
身体の重みを風に乗せるコツを
僕の筋肉と筋肉の間に置けないかしら

夕陽(ゆうひ)
教えておくれ
どうして
坂の上に子供達が集まって
お前を視(み)るのか
どうして
子供達は
小さな頬(ほお)の上に忙(せわ)しく手を動かして
まるで
夕陽をそこに刷り込む様にして
其処(そこ)
歌かおしゃべりか判(わか)らない喚声が
渦を巻くのか
日の暮れ方を教えてくれ
森の色の変わり方を
蜻蛉の羽の透きとおり方を
土の湿り方を
粗い草の匂(にお)い方を
教えておくれ


ハルキ文庫『川崎洋詩集』(2007年)より。

◆川崎洋は『教科書の詩をよみかえす』(ちくまプリマーブックス、1993年。のち、ちくま文庫、2011年)の中で、自作からこの1編をとりあげて解説している。それによれば、26歳ころに書いたもので、こころの原風景として存在する東京大田区・馬込かいわいのイメージに背中を押されるようにして書いた、と振り返っている。
昨日の長田弘の紀行について「大気のように向こうからやってくることばを、大きく吸って」と書いた。その伝で言うならば、川崎のこの詩では、鳥は鳥自身のほうから雲の中に入ってゆくのであり、自分も、そのように鳥や樹の中に入ってゆきたいと焦がれている。
世界の不思議に遭遇したとき、その秘密が知りたくて子どもは対象の中に分け入り、それとの合一をすら願うのだが、不思議の度合いは増すばかり。世界は不思議に満ちていて、飽きることがないと知るだろう。そうなったら「教えておくれ」というほかない。
「知らない」ことが成長のエネルギーになるのだから、これは無尽蔵だと言ってよい。



夢を見るには[2020年07月07日(Tue)]

DSCN3797-Bヒメヒオウギズイセンとアゲハ.JPG

ヒメヒオウギズイセンは日陰でも鮮やかだ。
地元・御嶽神社(猿田彦神社)の参道脇斜面にあったのにレンズを向けたら、黒い影が二つ前をよぎった。
見ると一対のアゲハである。
ひとしきり花の上を飛んでいたのだが、間もなく上の社殿の方に飛び去った。

*******

長田弘『詩は友人を数える方法』は、大気のように向こうからやってくることばを、大きく吸って、肺腑の深いところまで広がるのを確かめていくような紀行集だ。

アメリカの詩人たちの詩のほかにも、さまざまな本から吸い上げたことばたちを、枝を広げた葉からのしずくのように読者に注いでくれる。


〈山を見ていると、目がきれいになる〉

アパラチアの山の人びとのいままでを語り伝える本で読んだ、かつて山の少年だった一人の老人の回想。夢を見るには、目をきれいにしなければならないと、少年の父はよく少年にいった。父はいつも、山を見ていた。山を見ていると、目がきれいになる。いい夢を見ることができる。これは信じていいことだ、と父は少年にいった。少年は信じなかった。そのことを、老人は後悔している。山はいまでも、そこにある。しかし、いまでは、父のように、誰ももうゆっくりと山を見ない、と老人はいう。われわれは夢の見かたを、いつか忘れてしまったのだ。

〈W アナザー・カレッジ〉の最終段。

「夢を見るには、目をきれいにしなければならない」とは、子どもから年寄りまで、忘れずにおこう、と大事にしまって置きたいことばだ。むろん、時々は取り出し、虫干しもして。




焚書[2020年07月06日(Mon)]

◆「国家安全維持法」が施行された香港で、図書館から民主活動家たちの著書が閲覧も貸し出しも出来なくなりつつあるという。収蔵図書の検索もできなくなっているそうだ。

現代版「焚書坑儒」が21世紀に行われつつある、ということだ。

【朝日新聞7/6記事】香港の図書館から消える本 「言論弾圧が広がっている」
https://www.asahi.com/articles/ASN756RHSN75UHMC002.html

◆焚書はナチス支配下のドイツでもあった。
本だけではない。多くの美術作品も「退廃芸術」の烙印を捺されて迫害・弾圧を受けた。
(作家ミヒャエル・エンデの父でシュールレアリスムの画家であったエドガー・エンデ〈1901-1965〉もその一人。)

むろん、治安維持法が猛威をふるった戦前の日本も例外ではない。
検閲がまかり通り、しばしば発売禁止や記事削除、もしくは×××の伏せ字で当局の忌諱に触れると判断されたものは国民の目から公然と遠ざけられた。

◆現代はどうか?
折しも来年度使用する教科書の展示会が各地で開かれているが、教科書もまた「検定」というシバリを受けている。それだけではない。各学校の自由な教科書採択が保障されるべきところ、特定の教科書を採択させない動き、あるいは逆に特定の教科書を採択させる動きが実際に教科書を使う学校現場を暗雲でおおってきた。
中学・高校での歴史教科書などを主な標的にして歴史修正主義陣営からの政治的圧力が、思想弾圧と同じ効果をもたらしているのである。

***


本を燃やす  ウィリアム・スタフォード
               長田弘・訳

たがいにささえあって、真ん中に直立して、
わずかなページが、長いあいだ燃えている。
カヴァーが最初に燃えつきる。それから、外側の紙が
捻じれてゆく。本の背が燃えて、ばらばらになる。
真実は、砕けやすく弱々しいから、簡単に燃える――
その炎は、嘘がつくりだす炎とおなじに、熱い。
真実も嘘も、炎は区別しない。黒焦げの言葉が
灰のなかに、たいてい、いくつかのこっている。

当てこみの、ただ見せかけばかりの本は
燃やしてしかるべきだ。もっと心みだされるのは
本の灰よりも、まだ書かれてもいない
すべての本――荒廃する町々、
無策がはびこる都市、動くものなら
何でも所有する野蛮なやつらが
めちゃめちゃにしている田園の光景――もし
本が書かれなければ、誰も本を燃やす必要はない。
無知は、炎で燃やせない。しかし、跳梁できるのだ。

だから私は、本を燃やした。まだ書かれてさえいない
たくさんの本がある。誰も書いていない本がある。



*前2回と同じく長田弘『詩は友人を数える方法』、〈V ワン・アンド・ロンリー〉より。
ウィリアム・スタフォード(1914-1993)は米カンザス州生まれの詩人。


◆「まだ書かれてさえいない」本は、過去の歴史ばかりでなく、未来の我々が直面する危機についても書かれるはずだ。
それらの検証されるべき真実を誰も書かなくなったら……





レトキ「少年と灌木」[2020年07月05日(Sun)]

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何の木か、青い実をつけていた。
光がもたらす恵みの中でも緑の色の味わいは格別だ。
人が造り出す緑の色は、ペンキにしろ衣服の染色にしろとうていかなわない。

*******


少年と灌木  セオドア・レトキ 長田弘・訳

何でもためしてみなければ気のすまない少年がいた。
灌木にむかって、しょっちゅう話しかけていた。
たまりかねて、灌木はいった。「きみ、
ぼくにもいいたいことがある。
きみが黙って聴いてくれるとわかれば、ね」

もう誰も少年をからかったりしない。
少年は灌木と、黙って話すようになったから。
もう二人の話は、誰にも聴こえない。
動物たちにも、鳥たちにも、ね。
そうして少年と灌木は、黙ったまま、いつまでも話しつづけた。
 


長田弘『詩は友人を数える方法』(単行本:講談社、1993年。講談社文芸文庫、1999年)
〈Z ルーフレス・スカイ〉より。


◆一風変わっている、という理由で、のけっぽにされている少年に出会った人は少なくないだろう。
だが、彼が「木と話す」ことができる、と気づいた人は決して多くあるまい。

コロナ禍で失われた授業の補充にあくせく・汲々とする学校では、もっと多くのだいじなものを失っていくような気がしてならない。






〈大気の中に分け入る〉[2020年07月04日(Sat)]

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散歩道わきのグラウンドに若者たちが戻って来た。およそ4ヶ月ぶり。

*******

物を完全なままにたもつ
     マーク・ストランド
 訳:長田弘


野のひろがりのなかで、
ほくは
場所ふさぎだ。
いつだって
それは
本当のことだ。
どこにいようとも、そこに
要らないものが、ぼくだ。

だから歩くとき、ぼくは
大気のなかに分け入る。
すると、大気が入り込んできて
つねにぼくの身体のあった
空間を満たす。

誰の行動にも
理由がある。
ぼくは行動する、
物を完全なままにたもつために。



須賀敦子の『本に読まれて』(岩波文庫、2001年)が長田弘『詩は友人を数える方法』(講談社、1993年。のち講談社学芸文庫、1999年)を取り上げていて、拾い読みしていたら、上のマーク・ストランド(1934-2014)の詩に出会った。

〈Z ルーフレス・スカイ〉という章。
アメリカのインディアナ州、どこまでもつづくトウモロコシ畑を車で走りながら、トウモロコシ博士というべきバーバラ・マクリントック(1902-1992)という分子生物学者の言葉をかみしめる。

 ―― 根本的にいって、すべてのものは一つなのです。ところが、私たちがすることといえば、細分化をおこなうことなのです。しかし、分けられたものは真実とはちがいます。私たちの物を見る見かたは人為的で、実際にはあるはずのない細分化に満ちています。……
私たちは、細分化された科学の技術をもちいて、今日じぶんたちがその一部である世界を恐ろしく損ないながら、それでも平然としているのです。…… 


この引用に続いて、昔ながらの暮らし方を続けているアーミッシュの人々の古い農場で木の馬車に揺られ、穏やかな時間に身をゆだねながら紹介するのが上掲の詩だ。

◆世界からの疎外感をうたっているのではない。その逆だ。
野の広がりや世界を充たしている大気――「ぼく」はその一部なのだ。

トウモロコシの一粒に過ぎないという謙虚さと、自分の行いが世界をより完全に保つようにはたらきますようにと念じる気持ちが揺るがないならば、世界の中の小さなごく一部に過ぎない「ぼく」の中に大気が入って来て、全く自由な生き方をさせてくれるのだ、と。



石原吉郎「卑怯者のマーチ」・「直系」[2020年07月03日(Fri)]

DSCN3749イヌマキ.JPG
イヌマキのようだ。白っぽい花(雌花らしい)が葉の根方に集まっている。
近づいて花を確かめたかったが、急な傾斜の下方に生えていて叶わず。ズームで撮った。

*******


卑怯者のマーチ  石原吉郎


この街の栄光の南側の出ロ
この街の栄光の膝までの深さ
欠けた堤防は膝でうずめ
欠け落ちた隊伍は
馬鈴薯で理める
偉大な事だけを
遠くへ生起させて
この街の栄光の南側の出ロ
この街の栄光の膝までの深さ
医師と落丁と
僧侶と白昼と
ひとにぎりの徒党と
系譜と病歴と
(酒と希望が残りを
 やっつける)
この街の栄光の右側ひだり側
この街の栄光の膝までの深さ
一人の直系を残すための
憎悪の点検は日没からだ
この街の勾配を
背なかでずり落ちて
眼帯のまうらへ
ひっそりと整列する
起て ひとりずつ
移動せよ省略するな
省略しえたにせよ
名称はのこる
卑怯者であると
故にいうのだ




◆さまざまな読み方ができる詩だ。
「栄光」と「欠けた堤防」を持つ「この街」は、燦たる「栄光」の歴史を持つが、今は天変地異によってか戦乱によってか、廃墟同然で、日の目が見えなくなる頃には「憎悪の点検」が始まる。
まるで、「自粛警察」が現実の巷でも電網の世界でも跋扈する現在みたいではないか。

「点検」はむろん卑怯者を告発するために行われるのだが、その目的は「一人の直系を残すため」だという。
とすれば、それは、皇居に住む「御一人(ごいちにん)」を指すと考えるのが自然だろう。
「欠けた堤防」は「神の国」が囲みを破られ、国土荒廃に直面したというわけであろう。
その決壊を埋めるのは生身の肉体。「馬鈴薯」同様に凸凹した面貌を泥まみれにした兵たちの使命、というわけである。

◆ずばり、「直系」と題する詩もある。


直系  石原吉郎

こうりょうと風に鳴りながら
片足で一族は立ちつづけた
(てのひら)で壁をあたためては
片足ずつ世代を入れかえた
幕となって杭をめぐり
集結すれば すべて
正面をさえぎられた
ひとつの枕と
ひとつの牢獄と
すべて継承に耐えぬものを
継承すべく継承して
砥石を割り
息をころし
一人の直系へ集約して
森よりもさらに森であり
襲撃よりもさらに襲撃であり
燃えおちては
防衛の燠(おき)となって
笛の音(ね)のごときものを
曳きながら
僧侶のように
乾燥しつづけ



◆長いシベリア抑留から帰国した石原(1953年。スターリンの死に伴う恩赦による)を襲った衝撃の一つに、故郷の親族の偏見と疎外があった。血脈が無条件の信頼を保証するものでないことは、家族に擬せられた国民と天皇との関係についても同じであっただろう。
詩の最後四行は、「防衛の燠」と持ち上げてみたところでとうてい回復不可能な「魂」のむごい焼尽を表現している。

*現代詩文庫『石原吉郎詩集』(思潮社、1969年)によった。





石原吉郎〈1959年のノート〉から[2020年07月02日(Thu)]

DSCN3762.JPG

アオサギがカラスの群れからは離れて、田中のカエルか何かをねらっているようだった。

DSCN3761.JPG

捕食した後は何ごともなかったかのような姿勢に戻るが、その間も水の中の対象を狙い澄ましているのだろう。

狙われる側の姿は我々からは見えない。想像力が要る。

***

石原吉郎 1959年のノートから


決して長くとはいわぬ。ごくわずかでよい。抵抗せよ。




しかし、少なくともこのようなかしゃくない戦いが現に私たちが生きている世界のなかでいとなまれているということ、そのような人たちが、私たちと時をおなじくしてこの地上に生きつづけているということ、現に私たちがこうして希望をうしないつつある瞬間に、まさしくその人たちの希望のない戦いが、一歩の妥協もなく、執拗につづけられているということ、そのことこそ私たちの希望でなくてなんであろう。

 現代詩文庫『石原吉郎詩集』(思潮社、1969年)の〈1959年のノート〉より

◆2つ目の文章は、山口さとのという人の「愛に生きる」という本を夜半、ほとんど泣きながら読んだ、と記した文章の後半部分。

香港における自由を求める人々の苦闘、シリアなどの難民たちの苦難……彼らの生きるための戦いが痛切に感じられないとするなら、それは海の向こうのできごとであるからではなく、ただ単に生きる事と人間への想像力を欠いているからに過ぎない、ということを、石原のことばは突きつけてくる。



 
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