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チュッチェフの山の詩  [2020年07月31日(Fri)]

DSCN4151.JPG
久しぶりの陽の光を浴びて、いがぐりも伸びやかに見えた。

*******


やすらぎ   チュッチェフ
       泉三太郎 訳

雷雨一過――まだけぶりながら、横たわる
高い樫、雷神に打ち倒され、――
あおい煙がその枝から逃走する
雷雨に浄められた草のうえを。
が、ややあって、甲高いふくよかな
小鳥の唄が茂みにひろがり、
虹はその弓なす足を
みどりの山頂によりかける。


  鳥見迅彦・編『山の詩集』(角川書店・エーデルワイスシリーズ2、1968年)より

◆落雨が過ぎ、急速に晴れ上がってゆく山、落雷に身を固くしていた草や小鳥のホッとした気分に誘われて上方を見上げると、虹。
急変する山の天気を数行で表現し得ている。

◆チュッチェフ(フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフ。1803-1878)は現在も良く引用・愛誦されるロシアの詩人だ。

*翻訳の泉三太郎(1926-2003)は本名・山下三郎。ドイツ文学の山下肇の弟にあたる人という。
・この『山の詩集』を編んだ鳥見迅彦(とみはやひこ。1910〜1990)は横浜生まれの詩人で、山の詩がたくさんある。




田村驤黶u影の馬」の〈鬣 たてがみ〉[2020年07月30日(Thu)]

DSCN3926.JPG

*******


影の馬  田村驤

空と地を分つもの
それは満天の星にきらめく
水平線
あるいはどこまでもつづく
地平線

空と地をつなぐもの
イルカの歌声
一本の大きな楡の木
歩く人
(たてがみ)を風になびかせ
あさぎ色の地平線を一直線に
駈けぬけて行く馬の影 影を追う馬

空には雲の魚
地には影の馬

人間の魂だけが
燃える太陽の意味を知る


 *青木健 編『田村驤黹Gッセンス』(河出書房新社、1999年)より

◆たとえば第2連「イルカ」には、西脇順三郎の『Ambarvaria』の一編、有名なこの詩集の中でもとりわけ良く知られた「太陽」の一節、〈少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた。〉の、少年とイルカの歓声、水しぶきの音とともに反響している(中学三年の時に『Ambarvaria』を古本屋で手に入れ、詩の世界に引きずり込まれた田村驤黷フ、西脇へのオマージュでもあるだろう)。

音だけではない。
来る日も来る日も地平線から上り水平線に沈む太陽は、空にさまざまな魚たちの姿を描き出す。時に舟どころか地上にあるあらかたのものを一口に呑む大魚であったり、また時には群れる幾万ともしれぬ小魚たちの姿だったり。

◆一方で太陽は地上に「影の馬」を映し出す。
(「影の馬」はむろん、水辺のイルカと少年→大地から高く高く伸びる楡の木→大きな歩く人、その高いシルエット、と想像の連鎖から生まれたものだ。)

ただ、馬の細部をいちいち描写するやり方はとらない。
「鬣」という一部をもって馬全体を表してしまう。

おそらく、この詩の誕生には、この特徴ある漢字がもたらすイメージが最初に存在したのだろうと思う。ギリシア神話のペガサスであれ、太陽神ヘリオスを乗せた馬車であれ、駈け抜けるものの影をほうふつとさせる動的な文字「鬣」。そこからこの一編は生まれたと言って良いように思う。







感染拡大が止まらない[2020年07月29日(Wed)]

DSCN4020オニドコロ?.JPG
オニドコロ(鬼野老)。
葉っぱの形からヤマイモかと思ったが、花の形大きさが違う。
どちらも雌雄異株だそうで、これは雄花のほう。
名前も、それにあてた漢字も不思議な命名。林を抜ける道に咲いていた。

*******

◆新型コロナ感染者が全国でついに1000名を超えたそうだ。各地で新規感染者数が最多を記録している中、これまでゼロを保っていた岩手県でも感染者が出た。

◆これを伝えるニュースの中に首をかしげたくなるものがあった。

FNNニュース(フジテレビ系)である。次のように原稿を読み上げていた。

FNNニュース:
全国各地で感染が相次いでいる新型コロナウイルスですが、全国で唯一、感染者が出ていない岩手県で初めて確認されました。 これから県が会見などで説明するものとみられています。 日本国内では、今年1月16日に中国・武漢市に滞在後に帰国した30代の中国人男性から陽性結果が出て以来、感染が相次いでいます。 

*ニュースの動画⇒https://www.youtube.com/watch?v=gzhIsITgnZ0

◆こうした報じ方は新型コロナを「武漢ウィルス」と言い続けて恥じない麻生副首相に同調しヨイショする宣撫活動に見える。トランプ米大統領も同様の中国批判を繰り返して今や最悪の米中関係をもたらしている状況下で対米従属しか外交戦略がない日本政府への阿諛追従放送と見える。
少なくとも報道とはいえない。

案の定、ネットでは、嫌中派からのヘイト書き込みが見られた。
(一方で、これまで感染者を出さずに来た岩手県民の健闘をたたえ、ねぎらうコメントが多数寄せられていることにはホッとする。)

◆いずれにせよ、この局面を迎えてGoToキャンペーン(という名の感染拡大運動=一部団体および一部政治家のみへの利益誘導)やワーケーションなどという造語で取りつくろうことぐらいしか思いつかないのが現在の自公政権だ。
国民のためを思うなら正面きって退陣を迫るのがまともなメディアの使命だと思う。





石原吉郎「白い駅で」[2020年07月28日(Tue)]

DSCN3970.JPG

アカシア。今ごろ咲くんだった、と改めて思うが、花の記憶が薄い。
みちのくでの高校時代、朝、跨線橋の階段を上ると傍らに生えているアカシアの高さに並ぶことになる。それを横に見ながら橋を渡ってグランドに入る。
帰りも同じ所から下校して駅へと向かう日々だった。
朝な夕なアカシアのところを通っていたわけだ。
花が咲くのは関東より早かったろうか。
だが、白い花は見たような、見なかったような。
記憶の中に季節をよみがえらせようとしても難しい。

上の写真を撮ったとき、甘い香は、長梅雨のせいか、漂ってこなかった(嗅覚異変?熱はないけれど)。

南北に細長い列島で住処を変えた人間の季節感は宛てにはならないと思い知る。
彼処に居たという記憶も、ここに居るという手応えもどちらもあいまいなまま、いぶかしさを持て余している。

*******


白い駅で  石原吉郎

白い
清潔な駅におり立つと
生涯は そこで
終っているようだ
そこからあるき出す
一服の煙草と
よく透る挨拶とー
めくるめく記憶は
不意にとおいにせよ
そこで終るのが
おれであっていいはずはない
風があると
君はいったな
風があるだけでなく
おれが ある
さようならといわずに
ひとつの領域をこえる
まぶしい背なかだけの
おれだ


小海英二 編『精選 日本現代詩全集』(ぎょうせい、1982年)より

◆向こう側の世界の旅へと足を踏み出すような不思議な光景だ。
朝だとするなら「まぶしい背なかだけの/おれ」は、朝の日を背中全体に浴びて西へと歩き始めるのだろう。終着点のような場所からの出発。

夕方だとするならその逆。つまり東に向かっていま足を踏みだそうとするのだろう。
暗夜の旅であるなら、時間の刻みはもはや関係がない。
ある領域から跳躍して別の領域へと、再生であると同時に新生であるような。

「ターミナル」が終点であると同時に始点でもあるのと同じく、この詩全体が、あることの終わりを同時にあることの始まりと引き受けて歩む者の訣別と挨拶のことばなのだ。


依怙地にアベノマスク配り続けるんだと[2020年07月27日(Mon)]

アガサンパスの実
3週間ほどまえに花の盛りを紹介したアガサンパス、緑のさやがふくらんで来た。

DSCN3998.JPG

指で挟んでみるとさやは結構固く、薄緑の柔らかな色が与える印象からすれば意外だった。

*今月初めの同地点で撮った花の写真は下から
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1633

この先、どんな変化を見せてくれるのか。
植物も虫たちも生き物は、例外なく次の世代のために準備怠りないことを目の当たりにする。

***

アベノマスク追加発注!!
次世代どころか明日のことすら放棄した政府


◆今日の朝日新聞(電子版)に次の記事を見て仰天した。

【7/27朝日デジタル】
布マスク、今後さらに8千万枚を配布 不要論でも発注済
https://digital.asahi.com/articles/ASN7W5SR4N7NUUPI007.html?pn=6

最大の愚策として末代までも語りぐさとなりそうなアベノマスク、全戸向けへの配布が6月20日にようやく完了した後の6月22日、さらに5800万枚分を伊藤忠商事など9業者に発注していたというのだ。介護施設や保育所などに向けたものの配布が終わっていないということのようだ。
当初約466億円としていた費用もとうに500億円を超えている。

◆世論調査では8割余の人々が「役に立たなかった」と答えている(全戸配布が終わった6月下旬時点の朝日新聞調査)。
計画発表段階から悪評ばかり「嘖々(さくさく)」だった布マスク配布に、今も依怙地なまでにこだわるのは奇観としか言いようがない。

今やアベノマスクは無能政権のシンボルと化した。それでも撤退することができない。
深い泥沼に政権が首まで浸かってしまったことを物語ると言えよう。

だが、もはや「要らない」マスクというより、この先も無駄な支出を続ける結果、医療・介護・保育など必要な所への支援がますます遠のくということだ。とりわけ逼迫している医療現場は深刻だ。

◆朝日の記事が示す数字をもとに、6月22日に発注した分の費用を試みに単純計算してみたら、91億円余りである。

どうしてこのムダを止めることができないのか?
――発注先およびそれぬ群がる有象無象をもうけさせてやれなくなるから、と考えるのが自然だ。
ではなぜ彼らをもうけさせる必要があるのか?
――このさき献金その他で自分たちに還流させねばならないからだ。
ここまでのアベ政権のふるまいから、ほかに思いつかない。

◆かくして国民一統は操舵する人間もいないまま幽霊船ごと万丈の滝を落ちてゆく危機に瀕している。



やまゆり園事件4年 母の言葉[2020年07月26日(Sun)]

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スコールと熱暑を何度も繰り返した一日。
日が照るたびに蟬や蝶、蜂などが活発に動いていた。
夕方の散歩から帰ってくると頭上には燕たちが伸びをしたり毛繕いをしたり。

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*******

津久井やまゆり園の事件から4年目を迎えた。

裁判に臨んで「甲Aさん」と記号で呼ばれるのではなく名前で呼ばれたいと、19歳で命を断たれた愛する娘の名前と写真を公表した美帆さんの母親が「今の気持ち」と題する手記を発表した。


◆裁判中の植松聖被告について――

彼は拘置所の中で初めて自分の話をきちんと聞いてくれる人達に出会ったのではないでしょうか。裁判中もたくさんの人が彼の話を真剣に聞いてくれて嬉しかったのではないでしょうか。
私は、法廷では顔を見ず、声を聞いていただけですが、「はい」と元気よく嬉しそうに話していたように感じました。言いたくないことは誤魔化していましたが。

(略)
彼はお金では買えないもの、愛情とか思いやりの心、人を大切に思う心、無償の愛のような目では見えない大切なものがわからなかったのではないか、彼は心(気持ち)が成長しないまま、大人になってしまったのではないかと思いました。


◆娘の名前と写真を公表したことについて――

裁判と社会に「美帆」の名と写真を4枚出せて良かったと思っています。たくさんの方に覚えて頂けたこと、裁判員の方にもこれまで見えてこなかった被害者のことが少しはわかってもらえたのではないかと思いました。
後悔はしていません。たくさんの方に覚えて頂き、その方々が美帆のことを思いだしてくれる時、美帆は生きているわけですから。本当にいろいろな方々に見て頂き、覚えて頂いてありがとうございます。



◆私たちが忘れないかぎり「美帆は生きているわけですから」という母親の言葉が胸を打つ。

手記は、現在の世情にも思いを向けている――

今、コロナで医療従事者の方への差別があります。感謝しなければならないのに悲しいことが起きています。アメリカでは人種差別で黒人の方が亡くなっています。肌の色が違うだけで同じ人間なのに、なぜ差別されなければならないか。日々悲しくなります。
差別は容易になくならないでしょう。でも少しでも減ればいいと思います。差別をされる方も悲しいし、人を差別して本当に気持ちいい人はいないと思います。
これからどうしたらいいのか、日々考えながら過ごしています。心穏やかに過ごせる社会になればいいと願っています。



◆事件を忘れないこととは、差別を許さない砦を、我と人々の心の中に高く強く築くことだ。
その石垣の石ひとつを自分の手で摘むことだ。


*事件の5ヶ月後にやまゆり園を訪れたときの記事は…
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/396

思いつきのコロナ対策で権力濫用の恐れ[2020年07月25日(Sat)]

DSCN3952オニユリのムカゴ.JPG

オニユリの季節となった。茎に黒いムカゴ(零余子)をたくさん付けている。

*******

思いつきのコロナ対策で権力濫用の恐れ

◆都内の夜の繁華街で、風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)に基づく警察の立ち入りにコロナ対策のために行政が同行し調査を始めたという。
7月19日に菅義偉官房長官が方針表明していたことに基づく。しかし専門家からは、法の目的を逸脱した権力濫用の危険をはらむと指摘されている。

【ハフポスト7月25日記事】
風営法で立ち入り、同行はOK?「法的にグレー」と専門家
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f1bd89bc5b6296fbf43062e?utm_hp_ref=jp-homepage

◆そうした中、西村康稔経済再生担当相は今日25日の記者会見で、劇場や飲食店の換気徹底を促すために建築物衛生法に基づく立ち入り検査を進めることを検討していると述べたという。
建築物衛生法=建築物における衛生的環境の確保に関する法律

◆発言が風営法名目への批判を意識したものか、網をさらに広げて飲食店以外の施設にも広くかぶせる意図なのかは不明だが、これは実効性という点では迂遠であるばかりか、建築物衛生法を所掌するはずの厚労省とのすりあわせがなされたかも不明で、いかにコロナ対策担当と言っても勇み足、というより越権に当たるだろう。閣内の意思統一がなされないまま、思いつきを口にしたのだろう。

◆たとえば建築物は建築基準法をはじめとする法令によって換気・空調設備が充たすべき基準が定められている。ただし、新型コロナの感染対策としてどのような設備をどのように稼働させるのが有効か、既設の設備では限界があるのか、目下模索中の状態であるだろう(感染のしかたについてもスーパーコンピュータまで動員したシミュレーションなどによってようやく輪郭が見えてきた段階だ)。
万全と評価出来る基準を策定するには、場合によっては関連法の改正を行う必要も出てくるだろう(国会は皮肉なことに閉会中だ)。その場合には、改善命令その他、実効性がある具体的な措置がなされるのは先の話だ。設備の改良で済むとしても既存の建物にただちに導入or適用して行くには相応の時間と費用がかかる。実効性という点で迂遠だ、とは、その意味である。

今頃になって既存の法律を引っ張り出して良く吟味もしない思いつきを並べ立てる。例の「新型コロナ特措法」が、いかに拙速かつ疎漏なものであったかが、分かる。
*ただし、法律に罰則など強制力を持たせれば良いということでは全くない。

◆ひょっとして西村大臣は、法律をいかようにも運用できると勘違いしているのではないか?
罰則規定がない法律についても閣議決定で法解釈を変えれば強制力を持たせられる、と思っていやしないだろうか(まさか、と思うが、これまで安保法制、検察庁法など数々の倒錯した解釈変更を閣議決定一つで強行してきたアベ内閣であるから、あり得ぬ想像ではない。)

◆もう少しここまでの実際的な動きを確認しておくと、実は「建築物衛生法」を根拠とした厚労省から以下の「事務連絡」が3月・4月と各自治体に出されている。

●3月19日付け:「新型コロナウイルス感染症のクラスター(集団)の発生のリスクを下げるための3つの原則」の周知について」
●4月2日付け:「特定建築物における空気調和設備等の再点検について」

これらを受けて、各自治体は対策・点検を促す通知を出している。

*〈福岡県の例〉
【建築物衛生法関係者(特定建築物所有者・維持管理権原者・登録事業者)の皆さまへ】新型コロナウイルスに関するお知らせ
https://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/kentiku-eisei.html

◆こうした事務連絡からも、「建築物衛生法」は厚労省の所掌であることが確認できる。
であればこそ、この法律に基づくコロナ対策を行おうと考えているのなら、厚労省との協議を経てコメントするのでなければおかしいわけだが、そうした動きは報じられていない(記者から西村大臣や加藤厚労相に確認したかも報じられていない)。

もっとも、関係方面の了解ナシで突然の方針を表明するのは、西村大臣を含むアベ政権の「いつもの手」である。
そこから推して言うなら、これまでのコロナ対策と同じように、この「建築物衛生法」活用の話も、しかるべき法人や特定の業界にビジネスチャンスを提供する(その見返りに政治献金等による環流を図る)狙いが潜んでいるのかも知れない。

何しろ経済再生担当大臣がコロナ対策を仕切る、という矛盾が未だにそのまま、というおかしな政府であるから、あり得ぬストーリーでもない。


田村驤黶u木」[2020年07月24日(Fri)]

DSCN3959ホオジロ.JPG
ホオジロ。ひとしきり良い声で鳴いていた。

***


木    田村驤


木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない

若木
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ



*青木健 編『田村驤黹Gッセンス』(河出書房新社、1999年)より。


◆「木は愛とか正義とかわめかない」とある。
むしろ「愛そのもの」「正義そのもの」なのだ、と言う。

逆に言うなら、「愛」や「正義」を言い立てる者たちは、それらから最も遠い人々なのだ、という辛辣な批評をここから汲むこともできるだろう。

◆鳥に限らずあらゆる生き物が木に身を寄せ宿を借りる。

「地下水を根から吸い上げて/空にかえす」木の孜孜(しし)たる営みこそは、誰かに褒められることへの期待や、他に範を示す押しつけがましさからも全く自由な、正義そのものの働きであるという。

動かず黙したままの木に、声やさかんな動きを感じるのは人間の心の働きだが、そのようにして木から吸い込んだものを、今度はひとが世界にかえす営みとして行われずにはいないだろう。



田村驤黶u恐怖の研究 8」[2020年07月23日(Thu)]

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恐怖の研究 8  田村驤

日と夜のわかれるところ
日と夜の調和と秩序のあるところ
日と夜の戦いのあるところ
それは
一本の針の尖端
無名の星の光りにひかる針の尖端
歴史の火の槍
ふるえる槍の穂先



*昨日と同じく青木健『田村驤黹Gッセンス』 (河出書房新社、1999年)より

◆針一本をみつめることから分け入る想像力の宇宙、そこに次々と生まれ、ふるえ、咆哮し、争闘と興亡を繰り広げるいきものの歴史と色彩と音楽、つまりはすべてを10〜0までの連作にした詩群、その8。
「針」の尖端は明と暗の分岐点であり、闘いぶつかり合う日と夜が不思議な調和と沈黙を一刹那だけ実現させる処であり、星の光りを一点にとらえて運命を啓示する地点である。

「針」が歴史を開く「火の槍」としてイメージされるとき、それを握っているのは自分自身である。
その穂先が「ふるえる」のはそのためである。
同時にその穂先は戦火をもたらす、まさに「火の槍」にほかならない。それゆえに触れるものすべてを焼尽させる魔力をもって炎がそこに「ふるえ」ているのだ。

◆たとえばコロナ禍の極点の一つをそのように視る者はどれだけいるだろうか。


*以前「恐怖の研究」をいくつか読んだ時にこの「8」も取り上げた。
その頃と現在とでずいぶん違ったものも、相変わらずのこともあるが、世界全体がウイルスで日も夜も明けぬ今現在ではさらに別の光が「針の尖端」に凝集していることを知る。

【2018年10月29日の記事】心を偽造するわけにはいかない
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1031





〈心の世界には部屋のない窓がある〉[2020年07月22日(Wed)]

DSCN3892.JPG
オクラの花

*******

Nu  田村驤

窓のない部屋があるように
心の世界には部屋のない窓がある

  蜜蜂の翅音
  ひき裂かれる物と心の皮膚
  ある夏の日の雨の光り
  そして死せる物のなかに

あなたは黙って立ちどまる
まだはっきりと物が生れないまえに
行方不明になったあなたの心が
窓のなかで叫んだとしても

  ぼくの耳は彼女の声を聴かない
  ぼくの眼は彼女の声を聴く


詩集『四千の日と夜』所収。
青木健 編『田村驤黹Gッセンス』(河出書房新社、1999年)によった。

◆「部屋のない窓」が読む者を不思議な磁力で引きつける。

実際にはそうした窓は存在しない。
それが存在するのは、詩や絵画においてである。

引きつけられるのはそこに「窓のなかで叫」ぶ「あなたの心」が聞こえるからだ。
「窓のなか」とは窓のガラスとガラスの間とも、ガラスそのものの中とも、窓枠によって画された窓とも取れるが、いずれにしても「部屋のない窓」である。
窓を開けて部屋の中を覗くようにすればそこに「心」があると思う人にはそれは聞こえもしない。まして彼らが、叫ぶあなたの姿を見ることはない。

現実には存在しない(としか人々には思われない)「窓」を言葉で在らしめることで、ぼくには叫ぶあなたの姿が見える。
「ぼくの眼は彼女の声を聴く」=「眼」が「聴く」と表現したゆえんである。



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