
『八十日間世界一周』とヨコハマ[2019年10月31日(Thu)]
田辺和郎〈時を濾過する五つの円形捕虫網〉(1999年夏)
◆横浜市中区山下町のバス通りにある。
KAAT&NHK横浜のある通りの県庁寄り、田辺商事本社ビルの壁面にある5つの円形陶壁画。
横浜をめぐる5つの歴史的な日を表現してある。
◆左奥の方から
★ペリー提督上陸(1854年)
★新橋―横浜間鉄道開通(1872年)
★関東大震災(1923年)
★横浜大空襲(1945年)
★ベイブリッジ開通(1989年)
をそれぞれ表現しているという。
それぞれの日付けと時間も銘板に示してある。
田辺和郎は1937年横浜生まれの版画家。
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★ペリー提督上陸(1854年3月8日午前11時。5面中の左端)
★関東大震災(1923年9月1日午前11時58分44秒)
★横浜大空襲(1945年5月29日午前9時)
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◆志澤政勝『横浜港ものがたり』 (有隣堂、2015年)に、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』と横浜港について書いてある。
従僕のパスパルトゥーが主人フォッグとはぐれて、一人香港から乗った汽船カーナティックで横浜に入港するのは1872年、横浜開港後13年目(日米和親条約を結んだペリー上陸からは18年目)に当たるが、そのくだり、例えば田辺貞之助による訳は次のようである。
カーナティック号はヨコハマの桟橋に横づけになった。港の防波堤や税関の倉庫が近くにあり、各国の舟がおびただしく停泊していた。
(創元推理文庫)
多くの訳が「横づけした」としているが、1872(明治5)年当時、横浜港には桟橋も埠頭もまだなかったという。
この小説の最初の日本語訳は川島忠之介訳『新説八十日間世界一周』(前編1878年、後編1880年刊)だそうで、そこでは「『カルナチック』ハ横濱税關ノ波止場ニ近キ錨ヲ萬国ノ船舶羅列スル間ニ投ジケレバ」と訳している由。すなわち、カーナティック号は海上に錨をおろして泊まった、と当時の実際の停泊状態に即して訳出しているわけだ。
原仏語は「整列する、沿って進む」という意味の「ranger」なので、川島訳は原文に忠実に訳しており、それは川島が通訳や銀行員として横浜港をよく知っていたことによるだろうと推定している。
多くの訳者は1872年当時の横浜港の様子を知らぬまま、船は桟橋に横付けするもの、という「常識」に当てはめて意訳したのであろう、と著者・志澤は述べ、一方、来日したことのないヴェルヌがどうして当時の横浜港の姿を正確に記述できたのかを探索する。
志澤氏は富田仁の研究に拠りながら、スイス人エメ・アンベールの見聞記「描かれた日本」(1870年刊。邦訳『アンベール幕末日本図絵』)を参考にしたのだろうと述べ、『八十日間世界一周』執筆当時、株式取引所に勤めていたヴェルヌは情報の中で仕事をしていたのであり、最新の科学的知見や情報を貪欲に収集、吸収していた博捜の人だった、と記している。
船を「横付け」にするという訳語をカギにして、当時の横浜港の実際の様子や人・情報の往来、作家の想像力の裏付けまで記した一篇である。
カーナティック号は実在したイギリスの貨客船で、その姿を描いた図版も添えてある。
『横浜港ものがたり』は「文学にみる港の姿」という副題を持つ。横浜みなと博物館館長である著者が、ひと味違った切り口から港の歴史を描いた一冊。