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パウル・ツェランの「死のフーガ」[2019年04月20日(Sat)]

DSCN0559燈台草.JPG

トウダイグサ(燈台草)
和名の由来は燭台に火を灯したように黄色い花が咲くからという。

*******

死のフーガ    パウル・ツェラン

あけがたの黒いミルク僕らはそれを夕方に飲む
僕らはそれを昼に朝に飲む僕らはそれを夜中に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない
一人の男が家に住むその男は蛇どもをもてあそぶその男は書く
その男は暗くなるとドイツに書く君の金色の髪のマルガレーテ
彼はそう書くそして家の前に歩み出るすると星また星が輝いている
 彼は口笛を吹いて自分の犬どもを呼び寄せる
彼は口笛を吹いて自分のユダヤ人どもを呼び出す地面に墓を掘らせる
彼は僕らに命令する奏でろさあダンスの曲だ

あけがたの黒いミルク僕らはお前を夜中に飲む
僕らはお前を朝に昼に飲む僕らはお前を夕方に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
一人の男が家に住む蛇どもをもてあそぶその男は書く
その男は暗くなるとドイツに書く君の金色の髪のマルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない

男はどなるもっと深くシャベルを掘れこっちの奴らそっちの奴ら
 歌え伴奏しろ
男はベルトの拳銃をつかむそれを振りまわす男の眼は青い
もっと深くシャベルを入れろこっちの奴らそっちの奴らもっと奏でろ
 ダンスの曲だ

あけがたの黒いミルク僕らはお前を夜中に飲む
僕らはお前を昼に朝に飲む僕らはお前を夕方に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
一人の男が家に住む君の金色の髪のマルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート男は蛇どもをもてあそぶ

彼はどなるもっと甘美に死を奏でろ死はドイツから来た名手
彼はどなるもっと暗鬱にヴァイオリンを奏でろそうしたらお前らは
 煙となって空に立ち昇る
そうしたらお前らは雲の中に墓を持てるそこなら寝るのに狭くない

あけがたの黒いミルク僕らはお前を夜中に飲む
僕らはお前を昼に飲む死はドイツから来た名手
僕らはお前を夕方に朝に飲む僕らは飲むそしてまた飲む
死はドイツから来た名手彼の眼は青い
彼は鉛の弾丸(たま)を君に命中させる彼は君に狙いたがわず命中させる
一人の男が家に住む君の金色の髪マルガレーテ
彼は自分の犬を僕らにけしかける彼は僕らに空中の墓を贈る
彼は蛇どもをもてあそぶそして夢想にふける死はドイツから来た名手
君の金色の髪マルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート


*飯吉光夫編・訳 『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、2012年) より

◆パウル・ツェラン(1920.11.23-1970.4.20)の代表作。
1945年に書かれた詩であるという。
ユダヤ教徒の家に生まれたツェラン、その両親はともに1942年に強制収容所で死に(父はチフスで、母は射殺)、ツェラン自身も強制労働に従事させられた。
詩のモチーフはナチスによるユダヤ人虐殺である。

さて、「犬をけしかけ」「墓を掘らせ」――地面に掘らさせる自分たちのための墓、しかもそれは、実は〈空中の墓〉だ――「甘美な死を奏で」させる中、「鉛の弾丸を〜狙いたがわず命中させる」者が、我々の国の詩歌に登場したことがあったであろうか?
この詩の「彼」のように、命令と計画を喜々として確実に遂行し、逡巡や呵責とは無縁な殺戮者がこの国に絶無だったはずはないだろうに。


手指を見つめるパウル・ツェラン[2019年04月19日(Fri)]

DSCN0465.JPG



祈りの手を断ち切れ  パウル・ツェラン
     

祈りの手を
宙から
目の鋏で
断ち切れ、
その手の指を
おまえのくちづけで
切りとれ――

組みあわされたままのものがいま、
息を奪うようにすすんでいく。

           (飯吉光夫・訳) 

◆ツェランの没後に刊行された詩集『迫る光』(1970年)の一篇。

地上に在って両手を組んで祈る私。
高きにましますものに、わが手指を断ち、切り取れと懇願するほどの苦悶。
死への烈しい念慮に身を苛む者の叫び。

*飯吉光夫 編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、2012年)に拠った。



巴里、ミラボー橋[2019年04月18日(Thu)]

DSCN0036-a.jpg

*******

◆ノートルダム炎上の報で思い出したのは、高校時代に英語を教わったN先生のことだ。
東京外大のフランス語を出たと聞いたが、戦時中南方で乗っていた船が沈められた経験を持つと聞いた。

戦争がフランスに行く彼の夢を摘み取ったわけで、生徒間に「鬼」というニックネームで畏怖されながらも、ちょうど国語の教科書で習った朔太郎の詩「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」(『純情小曲集』所収の「旅上」)の力も与って、学徒の花の都への夢よ、いつの日か実現を、と応援する気分が醞醸せられていたものとみえる。卒業アルバムにはメガネをかけた鬼のN先生が、くわえ煙草でバイクにまたがり(このスタイルで学校にやって来るのだった)、「どけ、どけ!巴里へ行くのだ!!」と吹き出し付きで描かれることとなった。

◆パリを描いた日本人画家の作品を見た折など、果たしてN先生の巴里行きは実現しただろうか?と思うことがあった。と同時に、見果てぬ夢のままというのも悪くはない、という考えを弄んでいたりもするのだから、我ら戦争を知らない世代は脳天気だった。

◆その英語の授業で何を学んだか、霞のかかった記憶の底に残っているのは、わずか1コマだけだったが、英詩を取り上げたことだ。R.ブラウニングの上田敏訳で知られる「時は春/日は朝〜」(春の朝'Pippa's Song')やW.ワーズワースの「水仙 Daffodils」などである。韻律についても触れた。キャサリン・マンスフィールドの「風が吹く」という小説もN先生の授業で読んだのだったか。詩のような短編だったように思う。
1、2年の教科書にも詩ぐらい載っていたかも知れないが、授業で扱わなければ一生触れる機会はない。わずか1コマでも英語の詩を取り上げてくれたことには今なお感謝している。

◆さて、巴里に話を戻して詩を一つ挙げるなら、アポリネールの「ミラボー橋」だ。
堀口大學の訳で知られる。


ミラボオ橋  ギィヨオム・アポリネール
               (堀口大學 訳)

ミラボオ橋の下をセエヌ河が流れ
   われ等の恋が流れる
  わたしは思ひ出す
悩みのあとには楽(たのし)みが来ると

   日が暮れて鐘が鳴る
   月日は流れわたしは残る

手と手をつなぎ顔と顔を向け合(あは)
   かうしてゐると 
  われ等の腕の橋の下を
疲れた無窮の時が流れる

   日が暮れて鐘が鳴る
   月日は流れわたしは残る

流れる水のやうに恋もまた死んで逝く
   恋もまた死んで逝く
  生命(いのち)ばかりが長く
希望ばかりが大きい

   日が暮れて鐘が鳴る
   月日は流れわたしは残る

日が去り月が行き
   過ぎた時も
  昔の恋も、ふたたびは帰らない
ミラボオ橋の下をセエヌ河が流れる

   日が暮れて鐘が鳴る
   月日は流れわたしは残る


*講談社文芸文庫版・堀口大學『月下の一群』(1996年)に拠った。

マリー・ローランサンへの失恋から生まれた1912年の詩。
大學がマリー・ローランサンと会うのはその3年後である。

さてそれから半世紀以上ものちに、セーヌ川に身を投げた一人の詩人がいた。
パウル・ツェランである。その場所こそ、このミラボー橋だったという。
1970年の4月20日のことであった。



「右向け右」を強いられた津田梅子像[2019年04月17日(Wed)]

DSCN0481.JPG

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◆新5000円札の津田梅子の肖像画が物議を醸している。
津田塾大が提供したオリジナル写真を反転させたものであったからだが、そのままでは着物の襟が左前になるため、襟元は右前に修正し、かつボカして目立たぬようにしてある。
他の紙幣の肖像はどちらも向かって左を見ている顔なので、それに合わせるための苦肉の策ということだろうが、男二人に合わせるべく、向かって左、本人にとっては「右向け右」に、無理やり変貌させたものというしかない。

紙幣の内側を向くようにしたいのなら、オリジナル同様に右向きの肖像を左に配置したデザインでも構わないだろう。渋沢栄一、北里柴三郎の男性陣と逆に、右向きの姿で気を吐くのも女子教育の道を拓いた津田にむしろふさわしいはずだ。

◆ネット上の意見ではデザインに携わる方の「肖像写真の反転は絶対にしない。ましてや歴史上の人物で、紙幣でしょ?修正すべき。失礼極まりない。」という声が説得力があった。
その人間に敬意を払うなら反転写真をもとにした肖像画で平気でいられるはずがない。

1万円札の渋沢栄一と併せて、歴史認識と人間観において現内閣の倨傲と無神経を物語るものとしか言いようがない。

*渋沢の肖像は戦前植民地化した韓国で通用させた紙幣(渋沢が創始し頭取であった第一銀行券)に使われていた。金融・経済における収奪を象徴する人物を、ほぼ同じ図像で新一万円札に採用するという厚顔無恥ぶりに韓国でも日本でも批判の声が上がっている。
その点では現行一万円札の福沢諭吉(「脱亜論」で知られる)も、朝鮮・アジアへの差別的な民族観を普及させた人物であり、その肖像を眺めて何ら抵抗を感じないどころか、その顔を拝むことを無上の喜びとしていては日本の「近代化」150年の歴史認識が問われてくる。

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◆余談だが、イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモア(1873-1933)を描いた映画「レオニー」には津田梅子も登場していた。ブリンマー大学の同窓で(津田が3年上に在籍)、キャンパスで交遊するシーンが映画の冒頭にあった。のちに野口米次郎を追って来日したレオニーが、自活を余儀なくされ、津田に働き先を相談する場面もあったように思う。

幾百万の小さな花が[2019年04月16日(Tue)]

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ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)

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「黙想の夜」から   ティク・ナット・ハン

今宵 すべての武器は
われらが足元に落ち
塵と化す

一輪の花
二輪の花
幾百万の小さな花が
緑の原にあらわれる

解放の門が
無垢な子どもの唇の
微笑みとともに開く


ティク・ナット・ハン詩集『私を本当の名前で呼んでください』(島田啓介・訳 野草社、2019年)

◆13連からなる詩の結びの3連。
この詩は詩人への批判とともに1965年「ハノイマガジン」に掲載されたという。
同じベトナム人同士が大国をバックに血を流し合う戦いを強いられているさなか、詩人はどちらの側からも批判と攻撃を受けながら、なお倦まず平和への祈りをうたい実践する人であり続けた。
この簡潔な3連は不屈の魂の流露にほかならない。

ティク・ナット・ハン「私を本当の名前で呼んでください」.jpg

輝く[2019年04月15日(Mon)]

DSCN0044.JPG
ケヤキの若葉が風に吹かれていた。

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静寂  ティク・ナット・ハン

少年時代――
輝く十二歳――
何を感じる?

大昔からの川
古い町
雲が青空に呼びかける

静寂


ティク・ナット・ハン詩集『私を本当の名前で呼んでください』より
(島田啓介・訳 野草社、2019年)

◆ティック・ナット・ハン(1926〜)はベトナム生まれの禅僧・平和・人権運動家にして詩人。
国際的な仏教徒のコミュニティ〈プラムヴィレッジ〉のリーダー。
ベトナム戦争の中で平和活動を行い、ために70年代初頭よりフランスでの亡命生活を余儀なくされた(著者略歴より)。

少年時代に世界に感じた光を、今も静かに見つめ続けていることがわかる。
空を輝かせ地上の命あるものを内側から照らし出す。それは世界が託した希望なのだと。


金子文子、13歳の回心(えしん)[2019年04月14日(Sun)]

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ウキツリボク(浮釣木)。チロリアンランプともいうそうだ。
ホオズキのように膨らんだ赤い部分は萼だそうで、そこから黄色い花が顔をのぞかせている。

*******

金子文子を思いとどまらせたもの

金子文子「何が私をこうさせたか」は自分の生い立ちを包むことなく綴っている。
朝鮮の叔母宅で祖母や叔母の虐待に耐えかねた少女は、13歳の夏、自殺の衝迫に襲われ、叔母の家からも見える鉄道の線路に向かう。

叔母の家の東の高台から見られぬよう、私は、踏切り近くの土手の陰に隠れて着物を着替えた。前の着物はくるくると捲いて風呂敷の中に包み、土手脇の草叢の中に突込んで置いた。
土手の陰に蹲(うずくま)って私は汽車を待った。だがいつまで経っても汽車は来なかった。やっと私は汽車がもう通過した後だということを知った。
それを知ると、私は、今にも誰かに追跡せられ、捕えられるように思って気が気でなかった。
「どうしようか……。どうすればいいのか……」


澄み切った頭の働きは敏速だった。私はじきに今一つの途(みち)を見出した。
「白川ヘ! 白川へ! あの底知れぬ蒼(あお)い川底へ……」
私は踏切りを突っ切って駆け出した。土手や並木や高梁畑の陰を伝わって、裏道から十四、五町の道程を、白川の淵のある旧市場の方へと息もつかずに走った。
淵のあたりには幸い誰も人はいなかった。私はほっと一息ついて砂利の上に殪(たお)れた。焼けつく熱さにも私は何の感じもしなかった。
心臓の鼓動がおさまると私は起き上った、砂利を袂の中に入れ始めた。袂はかなり重くなったけれど、ややともすればそれが滑り出そうであったので、赤いメリンスの腰巻を外して、それを地上に展(ひろ)げて、石をその中に入れた。それからそれをくるくると捲いて帯のように胴腹に縛りつけた。
用意は出来た。そこで私は、岸の柳の木に摑まって、淵の中をそおっと覗いて見た。淵の水は蒼黒く油のようにおっとりとしていた。小波(さざなみ)一つ立っていなかった。じっと瞶(みつ)めていると、伝説にある龍がその底にいて、落ちて来る私を待ち構えているように思われた。
私は何だか気味がわるかった。足がわなわなと、微かに慄えた。突然、頭の上でじいじいと油蟬(あぶらぜみ)が鳴き出した。
 

私は今一度あたりを見まわした。何と美しい自然であろう。私は今一度耳をすました。
何という平和な静かさだろう。
「ああ、もうお別れだ! 山にも、木にも、石にも、花にも、動物にも、この蟬の声にも、一切のものに……」
そう思った刹那、急に私は悲しくなった。
祖母や叔母の無情や冷酷からは脱(のが)れられる。けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も祖母や叔母の家ばかりとは限らない。世界は広い。母のこと、父のこと、妹のこと、弟のこと、故郷の友のこと、今までの経歴の一切がひろげられたそれらも懐しい。
私はもう死ぬのがいやになって、柳の木によりかかりながら静かに考え込んだ。私がもしここで死んだならば、祖母たちは私を何と言うだろう。母や世間の人々に、私が何のために死んだと言うだろう。どんな嘘を言われても私はもう、「そうではありません」と言いひらきをすることはできない。
そう思うと私はもう、「死んではならぬ」とさえ考えるようになった。そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない。
私は再び川原の砂利の上に降りた。そして袂や腰巻から、石ころを一つ二つと投げ出してしまった。

  「何が私をこうさせたか」〈朝鮮での少女時代 その15〉p.170〜173

◆命短い油蟬の、ここを先途と鳴く声が、この世の愛すべきものたちに耳目を開かせる。
回心(えしん)とも言うべき大転換の瞬間である。

年端も行かぬ哀れな少女が死を決して死に損ねた。若草のように伸び上がるべきそうした年齢の頃に救いを死に求めるということさえ恐ろしい不自然なのに、復讐をただ一つの希望として生き永(ながら)えたとは何という恐ろしい、また、悲しいことであろう。
私は死の国の閾(しきい)に片足踏み込んで急に踵(きびす)を返した。そしてこの世の地獄である私の叔母の家へと帰った。帰って来た私には一つの希望の光が――憂鬱な黒い光が――輝いていた。そして今は、もうどんな苦痛にも耐え得る力をもっているのだった。
私はもう子供ではなかった。うちに棘(とげ)をもった小さな悪魔のようなものであった。知識慾が猛然として私のうちに湧き上ってきた。一切の知識をだ。世の中の人はどういう風に生きているのか。世の中には一体、どんなことが行われているのか。ただ人間の世の中のことばかりではない。虫や獣物(けだもの)の世界に、草や木の世界に、星や月の世界に、一口に言えばこの大きな大自然の中に、どんなことが行われているのか。そういった学校の教科書で教えられるようなそんなけちな知識ではない。
   (同書P.173)

こうしたことが人間には起こる。


金子文子 朝鮮での少女時代[2019年04月13日(Sat)]

DSCN0046-A.jpg
ケヤキ。高さ、枝ぶり申し分ない。若葉を広げ始めた。

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金子文子『何が私をこうさせたか』より朝鮮での少女時代

9歳になった文子が祖母に引き取られて朝鮮に渡ったのは韓国併合から2年後、1912年の秋である。
*1万円札の肖像として話題の渋沢栄一の肖像が刷られた第一銀行券が出たのはそれより早く1902年。正式な紙幣として韓国に承認させたのは1905年である。

◆無籍者だった文子は9歳の秋に、祖父の五女として入籍した上で、朝鮮で高利貸をしている岩下家(父の妹の嫁ぎ先)の跡取りにする予定で、祖母とともに半島に渡ったのであった。
だが、期待は裏切られ、女中同然に扱われて、せっかく通えるようになった学校も欠席がちな中、気晴らしは栗拾いに山へ登ることだった。そこで出会う雉子や兎を友とし、眼下の川や駅のある辺りを見下ろす。しかしそこからも仮借無い植民地の現実が目撃された――

頂上には、木というほどの木がなく、黄色い花の女郎花や、紫の枯梗だの萩だのが咲き乱れている。先生が、「あれは山ではない、丘だ」と定義をしたことがあるくらいで、この山は決して高い山ではなかったが、それでも位置がいいので頂上に登ると、芙江(ふこう)が眼の下に見える。
西北に当っては畑や田を隔てて停車場や宿屋ゃその他の建物が列なっている。町の形をなした村だ。中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引き出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっばたいている。ひと―つ、ふた―つ、憲兵の店高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。
 (p.155)


◆祖母に折檻され、空腹を抱えたある日の夕方、共同井戸の側で知り合いの朝鮮人のおかみさんが声をかけてくれた。

私の顔を見ると、
「また、おばあさんい叱られたのですか」と親切に声をかけてくれた。
私は黙って頷いた。
「かわいそうに!」おかみさんはじろじろと私の哀れな姿を同情ある眼で眺めながら一言った。「うちへ遊びに来ませんか、娘もうちにいますから」
私はまた泣きたくなった。悲しくて泣くのではなく、ただ大きな慈悲心に融(と)かされた感激の涙で……。
「ありがとう、行って見ましょう」こう感謝して、私はふらふらとおかみさんの後に従(つ)いて行った。
おかみさんの家は、叔母の家の後ろの崖上にあった。そこからは叔母の家の中がよく見られた。そこで私はまた、叔母の家のものに見つけられるのでないかと、心配し始めた。
「失礼ですが、お昼御飯いただきましたか?」
「いいえ。朝から……」
「まあ、朝っから……」と娘は驚いたように叫んだ。
「まあ、可哀相に!」とおかみさんは再びまたこの言葉を繰り返した。「麦御飯でよければ、おあがりになりませんか。御飯はたくさんありますから……」
さっきからの感情はもう胸の中に押し込んでおくことのできないほど高まった。私は朝鮮にいた永い永い七ヶ年の間を通じて、この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった。
私は心の中で感謝した。胃から手の出るほど御飯を頂きたかった。けれど私は祖母たちの眼を恐れた。――鮮人の家などで貰って食うような乞食はうちに置かれない、と怒り出すにきまっている祖母を恐れた。私はそれを辞退した。そして空腹をかかえたまま鮮人の家を出た。が、家に帰る気にはなれなかった。裏の草原をあてどもなくうろついた。
  (p.165)

祖母の叱責を恐れて、ご飯の誘いをすら辞退する!
貧困や虐待の問題がやまない昨今の世情が思い併せられて、このくだりを引いておく。



 
自分の行為の主体は完全に自分自身であること[2019年04月12日(Fri)]

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マガモ

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◆女性と教育をめぐる2つの記事が目に留まった。

(1)川口市の小学校、学校ぐるみで“クルド人少女のイジメ事件”隠し
織田朝日氏のルポ(ハーバービジネスオンライン)
https://hbol.jp/190019

難民申請中の両親とともに川口市に住むクルド人少女への執拗なイジメと、楯となるべき学校関係者の不実な対応。卒業式当日まで繰り返された心ない対応に言葉を失う。
とりわけ校長の「私は中立です」という言葉は、現実には加害側に加担する働きを持つことに無自覚である点で、救いがたいものを感じる。
子どもたちの声(声にならない声もあるはず)に耳を傾ける姿勢がないために、男児の事情への想像力も働かせることなく、話し合わせる環境を作れないまま対面させてしまったようだ。
筆者の憤りは当然だ。

本来、学校とは子供に「ウソはいけないと」教える存在なのではないのだろうか。どれだけ多くの教師をはじめ大人たちが、少女をよってたかって傷つけたのか。


(2)東京大学入学式での上野千鶴子氏の祝辞
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

あからさまな性差別が横行するのは東大も例外ではない、とクギを刺しつつ、つぎのように述べた。

がんばっても公正に報われない社会で、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たち、がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」と意欲をくじかれるひとたちを助け、支えるために、あなたたちのがんばりを、使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

金子文子(1903-1926)もまた、「がんばっても公正に報われない」ことばかり強いられてきた人生だった。
肉親の祖母すらが「無籍者」として文子を蔑み罵った。

だが、そうした境涯に抗う文子のことばの強靱さに心打たれる。

私は何も知らなかったのだ。私の知っていたのは、自分は生れた、そして生きているということだけであった。そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた。いくら祖母が、(注:無籍者は)生れていて生れないことだと言っても、私は生れて生きていたのだ。

金子文子『何が私をこうさせたか』(岩波文庫,p113)


◆罰を与え「これからは決してこういうことは致しません」と誓わせる大人たちは自分を「ねじけた嘘言い」にさせた、と振り返る文子の次のことばも忘れ難い。受け売りでない、自らの尊厳を自らの力で取り戻そうとするギリギリの崖っぷちから発せられたことば――

私は私のこの深刻なる体験から言いたい。
――子供をして自分の行為の責任を自分のみに負わせよ。自分の行為を他人に誓わせるな。それは子供から責任感を奪うことだ。卑屈にすることだ。心にも行為にも裏と表を、監視人に預けるべきではない。自分の行為の主体は完全に自分自身であることを人間は自覚すべきである。そうすることによってこそ、初めて、人は誰をも偽らぬ、誰にも怯えぬ、真に確乎とした、自律的な、責任のある行為を生むことができるようになるのだ――と。

 (同書p120-121)





いっそ目をつぶって[2019年04月11日(Thu)]

DSCN0017-A川上喜三郎「出逢」1996.jpg

川上喜三郎「出逢」(1996年)。本郷台駅近くの「あーすぷらざ」前にある。
川上喜三郎(1945~)は建築家にして彫刻家。

右方向からの姿も悪くなかったのだが、「駐車場入口」の看板が背景に映り、ウルサイ感じだった。

左に移動して見上げると、咲きそろった桜と調和した感じに撮れた。
この角度とて、少し引いて撮ると道路標識が横から侵入してきて邪魔をする。

作品をそこに設置すれば終わり、ではなく、環境をデザインする発想に立って景観を眺め直し、人工物による蚕食・侵食を放置しないことが必要だと感じた。

*******


目をつぶつて   杉山平一

いつも おれの前に
標識があつた

「この先 いきどまり」
「売り切れました」
「入場ご遠慮下さい」
「手をふれないで下さい」

これから おれは
目をつぶつて 行く


水内喜久雄・編『一編の詩がぼくにくれたやさしい時間』(PHPエディターズ・グループ、2008年)より


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