「畑バカとなった母」2:木村迪夫「夢の記録」[2026年09月06日(Sun)]
(承前)
◆木村迪夫(みちお)「東北の死者と伝承――自家小史の内側から――」、詩人は、母がみずからの生涯を語ることばを録し収めた。刈り込まれ整序された文章語とは異なる、手の感触をまとうことばたちである。
土に滴り落ちる母の汗や、土に手を触れている母親の息遣いさえも感じさせる〈語り〉となっている。
夢の記録
祖母同様の文盲に近い母が、生涯にたった一度だけ (多分、そうなるであろう)文字に託した、自己史がある。それは文章の体を成していない。<語り>なのである。わたしは、これに「夢の記録」とする題をつけた。
わたくしは、めいじ四十四年四月十五日 まえの中川むら足ノロぶらくののうかに生まされてもらい 一年二年とあたたかいお母さんのてでかわいがられ 七ツのとしまでそだてあげられましたが 七ツのときにお母さんはなくなりました わたくしもくろうし 父もくろうして とてもお父さんだけではわたくしたちをそだてあげることはできませんので まま母をもらい たにんのつめたいお母さんにそだてられ ようやくがっこうにはいり あとお母さんにはこどもがたくさんうまれたから がっこうにいくときもこどもをおんぶしていったり てんきのよいときにはひまをいただき あめがふったときにはよいなどといわれて さいほうやいろいろな本をもってがっこうにいって 先生から てんきがあがっていそがしくなりましたから ひまをくださいといってしかられたり おまえは そんなにさいほうや本をたくさんもってきて べんきょうがいやになったのかといわれたりして ようやく六年生まではいって そつげようしました
そしてままお母さんとお父さんと一生けんめいにはたらきつづけましたが 女としては一番にきものです 何もかってもらわずにただ何年もはたらきつづけて ようやく十九さいになりました 十九さいの年にままお母さんのあねの家によめにくれられました きょうだいだからきものもかってくれなくともよいといってくれたのです そして一年二年とたち女の子供がうまれました 春にうまれて冬の一月ころに夫がげんえきでへいたいにとられいよいよ今日は家から出ていかねばならなくなった そのときわたくしはなんていったかわからない 夫が出ていったあとは あっちヘいってなき こっちへいってはなき ただ心さびしくなくばかりです こんなことだったら一年半はどうしてくらす しかられながらそうしておしゅうとさんとはたらきつづけるのです 月日のたつのははやいもので そうしているうちようやく一年半もたってかへってきたといってよろこんで 二人ともせっせとはたらくことができました また秋になるとよび役だのこうび役だのといってまたゆかねばならない 子供は二人になり いってくるとまたしょうしゅうれいじょうのゆう あかいかみがきたといって心さびしくなり なくばかりです
二日三日とはたらくうちにげんきが出て山形のれんぺいばに入えいしてから 六日めでまんしゅうじへんに行くことになりました
そのときのあさわ とてもひえるあさで わたくしは子供をはだの中におんぶしてえきまでいきました しょんぼりとしてたっているうちきしゃがむこうからひゅうひゅうとなってきてしばらくするとていしゃばにつきました きしゃのまどから首をだしてさがしているところにみつけ げんきでかへってともいえなくただわあわあ泣くばかりです 夫はわずかな金をくれながらげんきで子供をたのむといってるまに きしゃがたちまちみえなくなるまでみてなきながらとぼとぼとかへってきた
おくにのためではしかたがない またはたらくの一年半というとながいことどうしてくらすのか何してもしかられしかられ こうしているうちに月日のたつのははやいものです くらしたあとはゆめのごとく ようやくかへってきたといったら またしょうしゅうれいじょうあかいかみきて またしょうしゅうれいじょうがきたといってさいごは子供五人です すえの子はかぞえのニツであった 子供が五人めの時にお父さんはしんでしまい いつもへいたいにばかりとられ 一生けんめいはたらきつづける よその人にかが*1そんなにはたらくとはやくしぬぞといわれても 自分のいのちよりも子供をたいせつに家をたててゆかねばならない
よそでは となりほとり*2は皆んなそろってはたらきつづけてりっばなせいかつをやっているのを見ると ざんねんでたまらないどうしてこんなにうんがわるく生れたのかとおもいおもい なみだとあせとふきながらはたらくのです
まえにはおしゅうとさん二人でまいにちまいにちわるくちばかりで よるはとこの中で目のあくかぎりぐちばっかりいわれ いくらねむっていたものでもすぐとなりのへやなものですから すぐ目をさましみのつまるようでした いくらわたしが何もわからなくてできないからだでもあるが なんとつらいことでやうと思い よめにきてからただのいちどもわらったことがありません ただあさはくらいうちゆうがたもくらくなるまではたらくばかりでした
こんなことをかいてほとけさまに申しわけございま せんが ここまでようやくくらしたかと思えばあげくのはてに夫にしにわかれ ないてばかりいたんでは子供をそだて上げることはできないことです 冬になってお正月になるとじっかにとまりにいってはけご*3や わらじ になわなどつくりあげてそれをりようするのです 冬がおわり春になると田やはたけにでるときはぶらくでも一番はやくでてはたらく 牛で田をたがやしたりするのです 牛はひとのようにじゆうにならないあばれてはすりまわされたこともあります
まあ いろいろなことばかり そしてようやく五人の子供をそだてあげました
ながながと、生涯のうちでたった一度だけながながと語り記した母の死も、そう遠くはないはずである。死後の世界は、わたしなどには未だに見えようはずもないが、父と祖母とが再会のよろこびを分ちあい、多くの死者たちとこの家の裔を見取って居てくれるとしたら、あとを継いでいるわたしにとってはこれ以上の喜びはない。祖母が口唱した数多く(残っているのは、死期の迫った祖母の枕元で痛苦の果ての、重ねて衰えゆく記憶に迫りながら書きとめておいたものだけである)の、最後に口にしたのは、なんのいんがか/いくさのたたり/みせものうづになりました/であった。みせものうづの果ての、四十数年を費やした年月のはての再興(といえば、聞えはよいのだが)なった座敷で、母親は次のようなうたを歌っている。
ああ ああ あの顔で
あの声で
てがらたのむと妻や子が
ちぎれるほどにふった旗
とおい波間に また浮かぶ
――――――――――
死に近づき到ってもなお、この歌以外国ずさむことの知らない老婦のまえで、息子であるわたしは、ただ卒然と立ちつくすのみである。
(初出:一九八七年「現代詩手帖」四月号)
日本現代詩文庫『木村迪夫詩集』(土曜美術出版社、1995年)より
【引用者注】
*1「かが」…人の嫁に呼びかける称。「女房殿」ぐらいに当たるか。
*2「となりほとり」…まわりの家。近所。
*3「はけご」…ワラを編んでつくるカゴ。



