谷川俊太郎「しゃがむ」[2026年06月09日(Tue)]
しゃがむ 谷川俊太郎
みちばたにぼくはしゃがんでる
ひとりでしゃがんでる
しゃがんでるだけ
ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど
ぼくにはなまえがある
でもぼくはだれでもない
ただいきているだけ
いまぼくはたんぽぽみたい
みみずみたい かまきりみたい
ちょうちょみたい とべないけど
みちばたでぼくはたちあがる
そしたらにんげんになった
りんごかじりたくなった
『詩人S』(集英社、2026年)より
初出は「びーぐる 詩の海へ」第五号(澪標、2009年)
◆この詩も前回の「生きている」同様、最終連が印象的で、改めて最初に戻って読み返すことになった。
そうすると、それ以前の4つの連が、どれも「しゃがんでる」状態だったのを、「たちあがる」。「ついに」なのか、「いきなり」なのか、ともかく、それまでと全く違うゾ、と宣誓するみたいに「たちあがる」。「そしたらにんげんになった」と、これまで全く花や虫たち同様だったことを思い知らせたうえで、「りんごかじりたくなった」としめくくって読む者を脱力させる。無論、楽園のアダムとイヴの話を思い出させるしかけだ−−ただし、「にんげん」になることと、「りんご」をかじることとの順番をひっくり返してみせて。
◆自意識や欲望その他、このうえもなく「にんげん」くさいもろもろに振り回され、持て余すところの、どうしようもなさを備えた「にんげん」になってしまえば、だれでもない、虫や野の花と同じだったころに戻ることはできない。だが、それに近いところにいて生きることは、時々できるかもしれない。そう思ってただ「しゃがんで」いられる人、それが詩人というものなんだろう。
だからエラい、なんてことは全くない。
大体が、この姿勢、いちばん無防備な状態なんだし。



