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石原吉郎「事実」[2026年02月12日(Thu)]

DSCN4166.JPG

アオサギが凝然と佇む。その前でそれぞれに過ごす水鳥たち。不思議な階調が支配している。

*******


事実    石原吉郎

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罰を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうしてうすらわらいまでしている


  『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年)より

◆各紙、改憲支持率の極めて高いことを報じ始めた。
選挙期間中、タカイチ自民が隠蔽した本当の争点を追及せず、このタイミングで高い数字を並べて改憲に加担する。戦前もそうだったのだと、思い起こさせる。

引き返せない地点はもう過ぎた。
未だだ、未だ未だ、と思いたい気持ちは常にある。
だが、前に進むことが出来ない。ただただ踏ん張るのみ。多くは後じさりして姿を消す。
この詩にあるように「うすわらいさえして」

退却せず踏ん張っている者は、いつの間にか最前線にいる。
皇軍来たらず――満州しかり、比島しかり、沖縄しかり。

怒れる民草はどこまでも踏ん張る。
死してなお、立ち姿のまま踏ん張る。




石原吉郎「背後」[2026年02月12日(Thu)]


背後  石原吉郎


きみの右手が
おれのひだりを打つとき
おれの右手は
きみのひだり手をつかむ
打つものと
打たれるものが向きあうとき
左右は明確に
逆転する
わかったな それが
敵であるための必要にして
十分な条件だ
そのことを確認して
きみは
ふりむいて きみの
背後を打て


  『新選 石原吉郎詩集』(思潮社、1979年)より


◆難しい詩だ。
「打つもの」と「打たれるもの」が正面から向き合い、次いでそれぞれの右手がそれぞれの意志もしくは本能の発動に従って取る動きが、格闘の範を示しながら解説するようにして語られる。
一方は「打つ」という攻撃を行い、他方は相手の用いざるもう一方の手を「つかむ」かたちで防御しているのだろうか?
ふつう「防御」とは、攻めてくる相手の右手の動きを、その手に正対する位置にあるこちらの左手でくい止めようとすることだろう。まう左の手のひらであいての拳を受けとめる、もしくは相手の右手を払いのけるかたちで我が頰を攻撃から守る。(以上は、どちらもに右利きの場合だ。)

それと比較するならば、上の詩の「おれの右手は/君のひだり手をつかむ」という動き方は全く防御とは言えない。とすれば、この「おれ」の動きは何のためなのか?――「きみ」がきみの左手を繰り出すのを止めるため?それとも、相手のひだり手をつかんで、「打つ」ことなどよりもよっぽど強力な反撃を加えるため?もしくは相手の予測を裏切る動きを敢えてすることで、その虚を衝き、つかんだ手を支ねじ上げるか、ねじ伏せて完全な制圧にもって行くため?

◆「左右は明確に/逆転する」――これも難しい。ここまでの一連の動きを、「きみ」の打つ行為とそれをこちらが受けるふるまいとして表しているのだとみなすならば、「逆転」は、この後に続いて「おれ」が「君」のそこまでの動きを正確になぞるように行うことを意味するだろう。

そうではない、別の読み方を試みるなら、同じ「右手」の動きでも、「きみ」は「打つ」動きを、「俺」は(君のひだり手を)「つかむ」動きを、というように違う動きをする。そのことを「逆転」と表現したのだろうか?

どちらにせよ、ここまで前提となっているのは、一連の相互の動きが終わると今度は主体を入れ替えて繰り返されるということだ。そうしてそれが可能であるのは「おれ」と「きみ」とが対等の関係にある場合だ。もしくは、対等の関係にある場合「だけ」だ。

◆逆に言えば、「対等でない関係」の者同士が向き合ったところで、そこに「敵」という概念は成立しない。(目の前にいるのは「敵」なんかじゃない、とも皮肉交じりに言うことも出来ようか――強大な力をもって一方的に加害する者と、痛めつけられるだけの弱者。つまり、非対称的と言われる関係)。

◆では、「そのことを確認して」「きみ」が「ふりむいて きみの/背後を打て」という時、きみの背後にいるのは誰なのか?――これが最後に残った難問――そこまで「俺」と「きみ」が向き合っていた以上、そこにいるのは「俺」や「きみ」でない誰かだ、と考えて悪かろう筈はない。
二人が「敵」として対峙し合っていたあいだじゅう、ずっとそこにいた、「敵」同士でない者……
一般には第三者あるいは傍観者と呼ぶ彼、もしくは彼ら。
見物人として安全圏にいた彼、もしくは彼らを「打て」、と「俺」が命令口調で言えるのは「俺」と「きみ」との関係が単に「敵」であるのじゃない、別の関係が生まれ始めているからではないのか?命令形ではあっても、傍観者に対して二人はもはやある種の連帯を築き始めていると言ってもいいような……。

ところが、ここに至って詩は最後の最後で難問を突きつける。
(1)「俺」と向き合っていたきみが「ふりむいて」背後を打つとき、君の右手はそのまま背後の誰かを「打つ」のだとするなら、その行為は何を意味するのか?
(2)さらにもう一つ、ふりむく動きに伴って(わずかな向きの変化ではあるが)「きみ」の背後に位置することになる「俺」を打て、と「俺」自身が言ったのではないか?

(1)は闘うことを見世物にされている者の、見物や傍観者への反逆と解しうる。
(2)は、「敵」であるための必要十分な条件に完全に違背した行為に及べ、と既存のルールを完全否定するようそそのかしたと読める。興行主への反乱を含む、搾取する者とそのおこぼれに預かる者たちへの宣戦布告、と読むことができる。

***

◆詩は「手」を武器に「打つ」と表現したが、「手」を剣や弓矢、銃やミサイルに置き換えたらどうだろう?
あるいは「右」や「ひだり」を人が世に処すときの政治的信条を象徴させていると読むなら?
あるいは「位置」*とは、相対する者どうしにとっては相対的なものに過ぎないのを、当事者は絶対的不変のものと思い込んでいるだけなのかもしれない、という含意もこの詩にはあるのじゃないか?

*石原吉郎には「位置」と題する有名な一篇がある(第一詩集『サンチョパンサの帰郷』所収)。
「背後」よりさらに短いわずか13行の詩篇だが、そこにも「右」「ひだり」という語が使われ、「君」に命令形で呼びかけている点も共通する。

(参考)
★拙ブログ 2020年08月10日
石原吉郎「審判」と「位置」
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1673







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