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長田弘「この世の間違い」[2025年11月15日(Sat)]


この世の間違い  長田弘


春、暖かな日がきたら、草とりをする。
家のまわり、日の当たらない、冷たい場所に、
いっせいに、びっしりと、生えでてくる、
幼い、名も知らない、草たちの草とり。
身を屈め、草たちをぬいてゆく。
ニガナ? ノミノツヅリ? ホトケノザ?
荒れた草をぬき、土をととのえる。
そして、風の小さな通り道をこしらえる。
ここは、家と家のあいだの、
ほんのわずかな隙間にすぎないのに、
ここには、神々の世界がある。
日の翳り。風の一ひねり。するどい
鳴き声をのこして飛び去るキセキレイの影。
白木蓮の落ちた花片。枝々の先の新芽。
沈丁花の匂いがする。ここでは、
どんな些細なものにも意味がある。
ここからは この世の間違いがはっきり見える。
ゲーテの言った、この世の間違いが。
限界を忘れて、神々と力競べしようとした
人間たちの冒した、この世の間違いが。

  『奇跡 ― ミラクル ―』(みすず書房、2013年)より


◆前回の「涙の日 レクイエムに続く詩は、一転して春の景だ。
暖かな春日、しかし、目が注がれているのは、日の当たらない場所に、それでも隙間なく生えでてくる草たち。
その微細なものたちを抜いて行ってできあがる小さな風の通り道に全身を開放する。
鳥の影や枝を離れた花びら、木々の枝にふくらむ新芽や沈丁花の匂い――それらに五感をゆだねれば過酷な原発事故に代表される人間の取り返しの付かぬ所業、その間違いがはっきり認識される。
――草のところに身を低くして見えてくるもの、聞こえてくるもの、肌で感じるものをないがしろにしない生き方、それこそは草莽の魂というべきものだろう。




長田弘「涙の日 レクイエム」[2025年11月15日(Sat)]

涙の日 レクイエム   長田弘


あるところに、女がいた。
男がいた。走りまわる
子どもたちがいた。じぶんを
羊だと思っている年寄りもいた。
来る日、来る日、慈しむように
キャベツをそだてる人がいた。
道を尋ねるように、未来は
どっちですかと、尋ねる人もいた。
石の上にはトガゲが、池には
無名の哲学者のような
ツチガエルがいた。
遠く赤松の林がみごとだった。
そうして、一日一日が過ぎたのだ。
そうして、無くなったのだ。
それら、すべてが、
いちどきに。
いつもとおなじ、春の日に。
そうして、一日一日が過ぎたのだ。
そうして、いつもの年のように、
やがて朱夏がきて、
白秋がきて、柿畑に柿は
実ったが、収穫されなかった。
その秋、ヒヨドリたちは
啼き叫んで、空をめぐったか?
絶望を語ることは、誰もしなかった。
けれども、女も、男も、
大声で笑うことをしなくなった。
風巻く冬が去って、
陽春が、いつものように、
めぐり、めぐり来ても。


  『奇跡 ― ミラクル ―』(みすず書房、2013年)より

◆前回の「未来はどこにあるか」に続く詩。
やはり3・11をテーマとする。
収穫されなかった柿の実は、放射線が音もなく村の生活から奪い去ったものを象徴する。
それをついばむ鳥たちも沈黙した。

廃炉の見通しが立たないまま、原発再稼働。そればかりか、原潜を持とうとする国家なんて、まともじゃない。
だが、しかし、それでも、なお、人々は正気を保とうとしている。



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