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辻征夫「林檎」[2025年10月15日(Wed)]


林檎   辻征夫


転がりし林檎投手は手で拾い
(掌
(たなごころ)におさまる丸いもの
ちいさくつめたくかたいものを手にとると
おのずと投球感覚がよみがえる
できればこの艶やかな光沢をすばやく
前方に一直線に送球したいが
球場ならぬわたくしどもの日常では
受けとめてくれるものが常にあるとはかぎらない
かくて林檎は 断念された夢のように
籠あるいはテーブルに置き直され
投手は降板することも許されず
悄然といまある場所にとり残されている)


  谷川俊太郎『辻征夫詩集』(岩波文庫、2015年)より


『俳諧辻詩集』という詩集の中の一篇。
その名の通り、一行目は俳句で、( )の中には俳句の作者解説もしくは鑑賞のような体裁をとっている。

ボールを弄んで興じるのは犬や猫に限らない。人間もまた実に様々な球をスポーツにまで高めてきた生き物だ。
ただ、犬猫と決定的に違うのは、ほとんどの場合、球を介してゲームする相手が存在することだ。
チームメイトとの連係、敵手とのかけひきと真剣勝負の緊迫には無言の名乗りや対話すら交わされる。

林檎を拾ってたちまち湧き起こったのはせりあがった球場のフェンスや満員のスタンド、大観衆のどよめき、固唾を吞んで見守る目と目と目……それら手指から全身に広がり、さらにスタジアム全体に膨張してゆく高揚感――林檎一コがそこまで盛り上げる……

◆だが、球を受けとめる捕手か野手、もしくは迎え撃つ打者がいないとサマにならないのだった。
高潮した気分は相手不在の現実にぶつかってもろくも潰える。

潮が引いたあとを孤独が埋めつくす。




鶴見俊輔「この時」[2025年10月15日(Wed)]



この時    鶴見俊輔


宇宙の底に
しずかにすわって
いると思う時がある
この自分が まぼろし


私の眼にうつる人も
ここにいる時はみじかく
いない時の中に
この時が 浮かぶ


池澤夏樹 『日本文学全集29』(河出書房新社、2016年)より


◆「宇宙の底」にすわっている、という認識に感銘を覚える。
宇宙の辺境ではない。まして中心ではない。

上から大きな眼に観察されているかも知れない。だが卑屈におもねることも、斜に構えて虚勢を張ることもない。「しずかにすわって」いるのである。
そうして自分を「まぼろし」と観じている。
そのようなものとして時間の上に存在していると認識しているのである。

いずれその「宇宙の底」から姿を消す。自分も、自分が見ている人間も。
透徹していて潔い。





 
鶴見俊輔「この時」[2025年10月15日(Wed)]



この時    鶴見俊輔


宇宙の底に
しずかにすわって
いると思う時がある
この自分 がもぼろし


私の眼にうつる人も
ここにいる時はみじかく
いない時の中に
この時が 浮かぶ


 『日本文学全集29』(河出書房新社、2016年)より


 
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