三好豊一郎(ちいさな声)[2025年09月27日(Sat)]
*
(ちいさな声) 三好豊一郎
ちいさな声
しずかにひれふす声
ゆっくりとためらう声
たれさがりふるえる声
よじのぼりかけくだる声
たけりくるいしがみつく声
くみふせねじまげへしおる声
かきむしりかみくだきひきさく声
たちあがりのしかかりつきさす声
つきあげおしかえしはねとばす声
なぐりたたきしめつける声
なきわめきのたうつ声
のびちぢみもだえる声
はばたきかききえる声
苦悩の同伴者として私は彼とともに駆けた
無限の空間は無限の方向を示した
われわれの任務は協力して闘うことにある
交叉し渦巻き襲いかかる声の辻で
われわれは行き悩んだ
理想という理想をわれわれは絞め殺したから
では何によって いかなる方向へ君は進むのか
われわれを導く声は
語らない魅惑の鳥の翼の翼とともにくる
現代詩文庫『三好豊一郎詩集』(思潮社、1970年)より
◆「私」は「彼」=「苦悩」の「同伴者」として、また「協力して闘う」者として、片時も休むことなく格闘してきた、という。
運命論を語っているのではない。
生きることが抗い行動することとなる以上、彼=苦悩は常に共に在るのだ。
そうしてそのあいだ、「声」は止むことがない。つまり、生きてゆく限り、それがかき消えるようなつぶやきであれ、闇を引き裂くような叫びであれ、のたうちまわる苦悶であれ、「声」として表出されないことはない。
つまり沈黙してしまうことはない。
「声の辻」とはそれら声の種々相が行き交い交響する地点だ。
かくして「私」は「彼」=苦悩とともに、多くの生きる者たちの苦闘を語る「声」となる。
例えばいま、飢餓に声ならぬ声を絞り出す人々。
失った手指、脚の痛みにのたうちながら、そこから先へ進もうとする人々……
「われわれを導く声」とは、「希望」だ。



