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平田俊子「目的、鼻的」[2025年09月15日(Mon)]

◆詩人は、聴覚・視覚とも鋭敏なだけでなく、それらを同時に働かせてしまう。


目的、鼻的   平田俊子


「お摑まり下さい」
バスが曲がるたび
運転手さんはアナウンスする
お言葉に甘えて
運転手さんの腕に摑まると
「お放しください」と叱られた
目的のない日本
目的語のない日本語
お放しください
お話しください
何に摑まれば安全でしょうか

「お摑まりください」
アナウンスのたび
ぎょっとする乗客がいる
ブラボー!がドロボー!に聞こえる人だ
縁起でもない 捕まってたまるか
逃げ延びるのがきょうの目的
あしたの鼻的
ライ麦畑で捕まってたまるか
玉ねぎ畑で捕まってたまるか
革は使われていない吊り革
そんなものに摑まってたまるか

ハンドルに摑まっている運転手
ハンドルを捕まえている運転手
乗客はバスに捕まえられて
目的地という敵地に
連れていかれる


 『戯れ言(ざれごと)の自由』(思潮社、2015年)より

◆「ツカマル」「ハナス」など同音異義語がある言葉に反応するのは、街に出かけ、乗りものに身を預けていてさえ、周囲の言葉に耳を向けずにいない詩人の習性によるのだろう。
耳が「ツカマエ」た音たちは、頭の中でグルグル回って、くっついたりほぐれたりしながらフワフワ浮かぶ。ちょうど綿菓子機のようなぐあいだ。
綿菓子はおいしいが、口以外のところにくっつくという厄介な性質がある。

言葉も、「誤解」を生んで「事件」になることがある。
バスの運転手さんのアナウンスでは何に摑まれというのか、目的語がないので、「誤解」を生じる。
ハンドルを「捕まえ」ているのか、ハンドルに「摑まって」しまっているのかわからないが、ともかく運転に注意力を集中させたい運転手さんが、わかりきった目的語は省く、その気持ちは理解できる。
だが、「摑まる」のは「吊り革」に決まっていると誰もが自動思考するとは限らない。
そんな「児童」思考からはみ出して、「目的語のない日本語」⇒「目的のない日本」という批評に転換させたりする人だって乗客のなかに居たって(至って)不思議はない。

広島原爆死没者慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」の意味が分かりにくいとしばしば議論になる。これも目的語を(ばかりか主語をも)省いた表現であるためだろう。「言わなくても分かるはず」という前提はもはや通用しない。記憶を継承することは平和の中味と主体をつくる目的をはっきり見定める時に可能になる。




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