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野木ともみ「想像」[2025年05月20日(Tue)]


想像   野木ともみ


高度何千メートルだろうか
飛行機の窓から下をのぞくと
山脈や平地や川や海が見える

地下はもとより
地上の生きものは何も見えない

高度何千メートルだろうか
地上から空を見上げる
点のような飛行機が飛んでいる

今わたしは
平地のどこかにいるはずだが
あそこから見下ろす肉眼に
わたしの姿は映っていない


  『その日も曇天で』(思潮社、2025年)より


◆飛行機で高空から見下ろす眺めとその飛行機を地上から見上げる視線と――
それはことばを紡ぎ出す上では、この順に描かれる二つのシーンの切りかえなのだが、詩人の中では想像力というフラッシュの明滅を浴びて浮かびまた消えることを繰り返す視線の運動だ。
寸秒のうちに激しく双方向に交流を繰り返す。

だから、機上の誰かにたとい「わたし」の姿は見えていないとしても、誰かが地上にいるという想像は働かせているはず――そう私は信じられる。

だが、それも平和に安んじていられる間のこと。

機上の人間が地上に想像を働かせないとき――あるいは想像力と肉眼を持つ者がそこには存在せず、〈眼〉の代わりのレンズやセンサーが載っているだけのとき、「わたし」の姿は本当に向こうには映っていないのだ。
それはとどのつまり、「わたし」が存在しない乾いた石と土埃だけの世界だ。




野木ともみ「ある錯覚」[2025年05月20日(Tue)]

◆野木ともみの詩集『その日も曇天で』からもう一篇――


ある錯覚   野木ともみ


何千年も前の人たちが
七つの大木を倒し
たて半分に割った十四本を
海山見える地に運び
円形に突き立てた

何のために造られたかわからず
いつとはなしに
その木柱の環に近寄る者はいなくなった

話を聞いて
ひとりの知りたがり屋がよそからやってきた

木柱のすきまから環の内側に入ると
閉じ込められたような感覚をおぼえ
丈の高い古びた木柱の先を
おそるおそる見上げたとき
小さく息をのんだ

空をまるく穿つ十四の頂点
まさに今
自分は土中に埋められようとして
地上最後の明かりの環を見ている

と錯覚して
猛然と環から飛び出した

尽きることのない後悔の歳月
果てることのない空の晴朗



  『その日も曇天で』(思潮社、2025年)より



◆遠い古代の木柱の中に身を置いて上方を見上げたときに感じたもの、視線と正対するような力――それを「錯覚」と表現するが、果たしてそうなのだろうか?

列柱の真ん中に置かれた生け贄――捧げものは人間の未来が約束されるためには欠かせない。
ただ、その生け贄になる者の視線から世界を見たものはいなかった。

だから、この詩の「知りたがり屋」が環の中に入ったのは、むしろ自然なことだった。
だが、恐怖に駆られた彼が環から飛び出したのは残念なことだった。

見届けることをしなかったために彼は「知りたがり屋」にとどまり、「(世界の全貌と本質)を知る人」になることはできなかったからだ。

おかげで、あれは「錯覚」だったのか、そうではなかったのか、結論は読む者に委ねられてしまったのだが。






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