
大岡信「炎のうた」[2025年05月12日(Mon)]
◆5月12日(土)の午後、大岡信展の関連イベントとして、今を生きる詩人たちによるトークイベント〈1人1人の「海」を挨拶に〉が行われた。
登壇した詩人は岡本啓、マーサ・ナカムラ、水沢なおの御三方である。
入口で配られたプリントに、それぞれの詩人が好きな大岡信の詩が印刷してあった。
岡本啓さんは「あかつき葉っぱが生きている」。マーサ・ナカムラさんは「夢はけものの足どりのように/ひそかにぼくらの屋根を叩く」と「豊饒記」。
どれも、詩人たちが自らと大岡信の詩とを、今という時間のステージにともに立ち上がらせていることを感知させる。
そうしてどの詩も、昨日引いた『春 少女に』と対を成しているように思われた。
本展の編集者も詩人たちも、それぞれが2025年という現在、このささやかな列島を載せた地球の上で、山並みや海原の向こうで、つまりはそれぞれが地べたに触れ、水に浸している、その足裏で、いま現在起きていること、人間がやらかしていること、それらがもたらす苦痛に上げずにいられない叫びと、激しくゆがんだ口元からもれる聴き取りがたいことばを、それらの詩の言葉の葉裏に聴き、また目撃しながら、それらの詩を読んでくれたのだと思う。
その中でも水沢なおさんが選んだ次の詩は、「春 少女に」に正対する詩だと思われた。
炎のうた 大岡信
わたしに触れると
ひとは恐怖の叫びをあげる
でもわたしは知らない
自分が熱いのか冷たいのかを
わたしは片時も同じ位置にとどまらず
一瞬前のわたしはもう存在しないからだ
わたしは燃えることによってつねに立ち去る
わたしは闇と敵対するが
わたしが帰っていくところは
闇のなかにしかない
人間がわたしを恐れるのは
わたしがわたしの知らない理由によって
木や紙やひとの肉体に好んで近づき
身をすりよせて愛撫し呑みつくし
わたし自身もまた
それらの灰の上で亡びさる
無欲さに徹しているからだ
わたしに触れたひとがあげる叫びは
わたしが人間にいだいている友情が
いかに彼らの驚きのまとであるかを
教えてくれる
『大岡信詩集』(一九六八年)所収
◆「春 少女に」は大岡信から少女への呼びかけと告白の詩だが、「炎のうた」はそれに「わたし」真っ直ぐに応答した詩となっている。
*(詩の誕生の時間的順序は逆だろうけれど、今これらの詩を読む私たちにとって、事態の生起する順序=心のなかに生まれ承接する順序はそのようなものとして読むのが自然である)
「わたし」はあらゆるものを燃やし、滅ぼし=みずからも亡ぶ「炎」である。
そうしてもし、ふたたび地上に(あるいは水の中に)脈うつ命があるとしたら、それを驚きとして受けとめる人間が存在するところにおいてであることを、この詩は告げる。