
心と魂…バチカンのゼレンスキー[2025年05月02日(Fri)]
ハルジオン。
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むすび・言葉について 30章 より 中村稔
「陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた! ※」
この詩句の「わが魂」を
「わが心」とおきかえることはできない。
心は、私たちの知性、感性が外界に向かって働きかけ、
外界からの働きをうけて反応し、働きかえす。
魂は、私の中のもう一人の私であり、
私を瞶(みつ)め、また時に叱咤し、また時に決意をうながす。
心といい、魂といい、
似ていながら、それぞれ千差万別、多様な意味をもつ。
私たちが的確にこれらのことばを使い分けることは難しい。
しかし「わが魂の願ふこと」は信条告白だ。
この決意をうながすのは魂だ。だから「わが魂」なのだ。
こうして言葉はそのふさわしい位置を占めるのだ。
※中原中也「寒い夜の自我像」
中村稔『むすび・言葉について 30章』(青土社、2019年)より
◆バチカンで椅子に座り、互いの息を嗅ぐ程の近さで膝詰め談判をする二人の男――ゼレンスキーとトランプ――今世紀前半でもっとも記憶に残るシーンとなった。
そこでは、上の詩に言う「心」を互いに働かせていた。
だが、事態の打開を促したものがそこに存在したとすれば、それは母語ではない英語に「魂」を込めて語った、もう一人の私=生者はいうまでもなく、死者も含めた人々の声をその丸めた背に載せたもう一人の私のことばだったはずだ。