覚和歌子「むかし ことばは」[2024年11月24日(Sun)]
むかし ことばは 覚和歌子
むかし ことばは ひびきだった
ほしをどよもす ひびきだった
うみをゆさぶり もりをおどらせ
けものをたけらせ だいちをおりまげた
むかし ことばは ひかりだった
ほしにしみいる ひかりだった
はなをひらかせ こころをみのらせ
ほねをあたため ゆびをつながせた
むかし ことばは なまえだった
なまえをよばれて きみになった
まぜこぜぬかるむ どろのせかいから
きみをきりわけ たちあがらせた
なまえはきみそのもの
おかせない きみのいのち
そしてたったいまも ことばはちから
まがごと ほぎごと よびおこすちから
つかいてにむくいる たいようのやいば
まぶしすぎてぼやけてしまう みらいから
ゆめのりんかくを きりだして
はなしたことを ほんとうにする
かならずきっと ほんとうにする
『覚和歌子詩集』(ハルキ文庫、2023年)より
◆禅問答から上の詩のような「ことば」にまつわる詩につながった。
新聞で誰かが「虚偽の横行が問題、というよりは、真実の不在が問題なのだ」という趣旨のことを述べていた。ウソかほんとうか見定めることが徒労に等しいエネルギーを浪費し、人間主体が消耗させられることへの戒めも含んでいるだろう。
◆「ことばのつかいて」は真実の心をこめる。まがいものには「たいようのやいば」が過たず報いる。それは信じて良いことだ。
真実のことばだけが「ほんとう」の「ちから」を持つ。だから、「きみ」とよぶときの「きみ」は、目の前にいる「きみ」にまっすぐ届くために発せられることばで、「彼」とか「あの人」とかは想定されていない。
おとといの谷川俊太郎の「死と炎」で考えていたこと――(二人称の相手を表す言葉は使われていないのに、あの詩においては、)〈他ならぬ「あなた」や「きみ」――をかけがえのない人、として呼んでいる〉と書いたこと――も同じ意味だ。
多くのことばはほとんどの場合、名宛て人は二人称で呼びかけられるのであって、禅問答しかり、愛のささやきしかり。多数を相手にする演説ですら、聴く者が直接語りかけられたと感じさせるのが要諦のはずだ。