谷川俊太郎「死と炎」[2024年11月22日(Fri)]
◆『クレーの絵本』という、パウル・クレーの絵に谷川俊太郎が詩を添えた絵本がある(講談社、1995年)。
これまで4篇を紹介していた。
いま取り上げるとするなら、次の一篇を加えたい。
《死と炎》1940 谷川俊太郎
かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしなねばならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
かわのながれ
ひとびとのおしやべり
あさつゆにぬれたくものす
そのどれひとつとして
わたしはたずさえてゆくことができない
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろうか
わたしのほねのみみに
クレーの1940年の作品「死と炎」に添えた詩。
『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社、1975年)に拠った。
◆仕事はそうでもないけれど、食べることや排泄など、個体の生き死にに関することは他の誰かに代わってもらうことができない。
歳を重ねると、ほとんどそうしたことばかりになる。
◆最後に待っているのが「死」ということなら、せめて好きなうたが耳に、と願う気持ちは切実だ。だが、その骨灰さえ残っているか、疑わしい。
◆「わたしのほね」も「ほかの誰かのほね」も区別できないあまたの死においては、彼らの好きなうたを、誰が歌ってくれるだろうか、彼らのために――
そんなことを思いながらこの詩を読み返せば、次のように思えてくる――
「わたし」は、「じぶんの死」を死ぬのだが、その最期の瞬間において、「わたし」や「他の誰か」の代わりではない人――他ならぬ「あなた」や「きみ」――をかけがえのない人、として呼んでいるのだ――その呼び声は詩に全く記されていないのだけれど、それでも。
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◆この詩に三善晃が付曲している。
男声合唱として作曲されたが、それを混声合唱で歌っているものがあった。
「湘南市民コール」30周年記念定演で関屋晋の指揮だ。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=OMtIfDjKmQc
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【参考記事】
★パウル・クレー「ケトルドラム奏者」[2017年6月20日]
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/536
★とりがいるからせかいがある[2017年6月21日]
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/537
★日本国憲法公布75年=谷川俊太郎「庭」[2021年11月3日]
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/2123
★谷川俊太郎の詩〈おなかをすかせたこどもは……〉[2023年11月23日]
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/2869