谷川俊太郎「いまぼくに」[2024年11月21日(Thu)]
いまぼくに 谷川俊太郎
いまぼくになすべきことがあるとするなら
それはただ 死ぬまでは地上(ここ)にいること
歌うでもなく嘆くでもなく
見たものはすぐに忘れ書きつけることもせず
言葉をもたぬカナブンのように蜜を吸い
花々の実りにささやかな手助けをして
山あいに川のほとりに
ほんの少しの知識だけで暮らす人々
彼らに教えることは何もない
いまぼくになすべきことがあるとするなら
それはただ 彼らから遠く離れて
祈りの最初の旋律を思い出すこと
朽ちかけた釣り橋をわたり
愛する者に近づくこと
死ぬことを禁じられたからだに
生臭い血を流させること
アンモナイトの太古の闇に
チタンの仮面で歩み入ること
もしもいまぼくにほんとうに
なすべきことがあるとするなら
一九九四年九月十二日 カトマンドゥ
『夜のミッキー・マウス』(新潮社、2003年)。初出は『こ・ん・に・ち・は』1999年
◆ちょうど三十年前の詩。
詩人はネパールを訪れたのだろう。
この詩を入力していると、リズムを感じる。どこかで似たリズムがあった。
――賢治の「雨ニモマケズ」だ。
それは全部で30行ちょうど。
こちらは四連(6+6+6+2)で20行。「雨ニモマケズ」の3分の2だ(タイトルと1行あきを含めても25行なので、一回りコンパクト)。
「なく」「ない」などの否定の言葉が目につくのも似ている。だが、「雨ニモマケズ」は「ズ」「ナク」の類いは10回出て来てどれも強い意思表明のたたみかけになっている――そのように思わせておいて、最後に至って「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と、詩全体が「ワタシ」の願望であったことを明らかにする詩であった。
谷川俊太郎の「いまぼくに」は、それとは違う。だが同じリズムの上に歌い継がれているように感じる。
◆カトマンドゥを訪れ、そこに暮らす人々を見つめながら、山を造り岩を削る大きな営みの上に在って「いまぼく」が「なすべきこと」は、限りなく「ぼく」でないものになることのようだ。
小さな「カナブンのように蜜を吸い/花々の実りにささやかな手助けをして」生かし生かされること、同時に第三連に荒々しく夢見られるように、愛や不死や古代の闇への冒険に身を任せること――それらはどれも現実の肉体を離れて「ぼく」でなくなり、どこまでも自由になること――それが「祈りの最初の旋律を思い出すこと」と表現されている。
「祈り」は「ぼく」の発明ではない。もっともっとたくさんの人々によって、終わることのない輪唱のように歌い継がれてゆくもの、その祈りの歌に「ぼく」もひとふし加わるだけのこと。
◆賢治の「雨ニモマケズ」を歌い継ぐような谷川の詩が大きな変化をもたらしたものがある。
「ワタシ」から「ぼく」へのバトンタッチだ。
これによって、「ぼく」という一人称が宇宙を自由に飛び回ることが可能になった。