秋山洋一「冬の始まり」[2024年11月16日(Sat)]
冬の始まり 秋山洋一
道端に見上げるドングリの実の
みなそっぽ向く空の下
各駅停車で来る人も
快速電車で到着する人も
街から循環バスで来る人も
湾を見下ろす曲り坂に息弾ませる
白亜のドームあるところ
一九四×年
よく乾く厚い衣の下に
薄い蒼い血めぐらせる
錆くさい冬木の町へたどり着き
歪んだ船渠のほとり
国籍知らずの迷い猫といっしょに
みんな昔は若かったと
もう影もなく笑う人たちが
鳶のように雲間に消えた後
腕まくりして駆けて上がってきた
見たことがないのに懐かしい
坊主頭の少年が
これからどこへ行くんだか
手を振りながら歌いゆく
聴いたことがないのに懐かしい
異界の歌に耳澄ます
夕まぐれ
墓山から下を見れば
硝子瓶の欠片のような湾岸へ
あの頃のように
オールバックの髪光る
斜め肩の兄貴に背を押され
振替輸送でやってくる
冬の始まり
『第二章』(七月堂、2023年)より
・船渠……ドック
◆海を見下ろす山の上の墓苑が舞台なのだろう。
白亜のドームは何かのモニュメントか、あるいは灯台のように海上からの標となってもいるのだろうか。
「笑う人たち」や、「坊主頭の少年」の姿が入れ替わるように現れるが、それらはモノクロの映画を見ているように、現実感が希薄だ。
古い、自分の表層の記憶には存在しないはずのものたちを見たり聴いたりしているのだが、懐かしい気がするのは、その映像や歌声が、実体験なのか、それとも繰り返し聞かされてできあがった記憶なのか区別しがたいほどになっているからだ。
◆戦後間もなくだろう、復員した男たちももうこの世には居ない――「影もなく/雲間に消え」といった表現がそのことを示している――であるなら、「坊主頭の少年」は、遠い日の自分なのかもしれない。
彼らを懐かしく思う自分――それは、人々の往来する現代の街に、破壊されたドックや焼尽した家々の映像を二重写しにして見下ろしている自分である。
ならば、ずいぶん前から、とうに異界の者の眼をもって暮らしていたのだということになる。
◆回想ではない。追懐とも違う。
墓山の上から見える、人や街、父母や兄弟、記憶の底から幾重にも堆積している時間の層、そこに自分も彼らも居たし、今も居る、という意識のありようだ。
そのように感じ、受けとめながら老年を生きること、それが「冬の始まり」の意味だ。