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小田桐孫一「疾風怒濤」より和辻書簡[2024年11月02日(Sat)]

◆高校時代の恩師・小田桐孫一先生(1911〜1982)が我々の在学中に上梓された随想集『草沢の心』(鏡陵刊行会、1971年)に「疾風怒濤」という一篇がある。
大学卒業後、1937年に文藝春秋社に入社、足かけ八年にわたる編集記者生活を回想している。
いやも応もなく日中戦争の泥沼に突入していく時局のなかで、愛する弟を失った。
そのくだりを引いておく。

***

 昭和十三年三月二日に弟の良治が戦病死した。一週間して長男が生まれた。子を得て弟を失ったのである。私は数え年二十七であった。
 応召前、弟は腹膜炎でしばらく入院していた。入隊の日、申し出たら、あるいは即日帰郷になったにちがいない。が、弟はこのことを申し出なかったという。そういう彼の心事がなんであったか、いまは想像するしかないが、多分、現役として入営し除隊して間もないころの下士官の肩章が彼を国防の第一線に立たしめたのであろう。それに、彼は部落の召集第一号であった。「小隊全員、同期の桜、散るならば弘前城の桜のように散りたい。」原隊からこんなことを書き送ったまま、弟は出て征った。しかし敵前上陸のあと、うちつづいた塹壕生活、降り出せば長い中支那の雨でそこがたちまちにしてクリークと化すなかに三日も、四日も文字どおり「水漬く」ことがくりかえされて、 弟の持病は再発した。ぬかるみのような下痢の連続であった。
 東京の陸軍病院に送られてきた。私は每日のように弟の病室を見舞うた。彼は多くを語りたがらなかったが、もちろんうちに欝積したものがあって、語り出せば激することもあった。
「兄置、こりゃ大変な戦争だな。こっちはチャンコロといって小馬鹿にしているが、とてもとてもそんなんじゃない。大変な抗日意識だよ。おれたちの塹壕のすぐ近くまで、手なげ弾をぶちこみにくるんだ。それがアンダーシャツ一枚なんだぜ。いまの日本人にあのまねができるかな、兄貴。」
 私はつばを呑んだ。弟がたしかにその眼で見た、彼と同じゼネレーションの中国人の徹底抗戦の姿に打たれた。中野正剛の「東亜政治の悲劇」という言葉がよみがえってきた。しかし、この悲劇を解決する指標はそのころの私にはまだなかった。novaのきざしすらなかった。が、鴻毛の軽きにいた弟のこのときの述懐などは、ひょっとしたら、novaへの架け橋の一つのつなぎ目になっていたのではあるまいか。
     *nova…輝星、新星
 弟の病状は日ましに悪化して行った。大部屋から個室へ移された。ある日、彼の部屋の扉に木製の赤玉がぶらさがっていた。面会謝絶のしるしである。それでも監視の眼を盗んで、私は弟の枕元にしのび寄って、彼の手をにぎった。弘前中学時代陸上競技部の選手だった弟の腕はいまは私のより細くなっていた。私は嗚咽をおさえる自分の手のわななきが弟の手につたわるのをおそれながら、彼を助ける方法はないものかと考えた。私は、弟を除隊させてもらおうと思った。父と相談して田畑を売りはらって弟の治療費にあてようと思った。軍はそれをゆるしてくれなかった。あきらめるほかなかった。せめてこの暗い部屋を少しでも明るくしたいと、花を買って訪ねたりした。そういうある日、花を持った妻にむかって弟はいった。
「姉さんのおなかの子供、男の子であればいいなあ。男の子なら、おれの身代りみたいなもんだ。」
 妻は花を落とした。
「なにをいうんです、良治さん、そんな、……」
 弟は私より三つ年下であり、妻より二つ年上であった。妻にとっては兄が死にかけているようなものであった。妻はとっくにその死期を予感している。私も予感していた。弟はもちろん予感していた。
 いよいよその死期が近づいた。そのときになって父と長姉とが上京してきた。二晩、不寝の看病がつづいた。四日目に、私は妻と彼女の腹のなかの子供を残して、弟の骨壺と父の背を抱いて帰郷した。部落中召集第一号だったが、戦死第一号でもあった。行年二十四、村葬だった。陸軍軍曹に昇級していた。
 父が先祖代代の墓の傍に一段高く新しく墓石を建ててやった。
「昭和十二年八月応召以来中支戦ヲ転戦 赫々ノ戦功ヲ樹ツ  十一月三日ニ病二罹り上海兵站病院ニ入院 同十三年三月二日東京第二陸軍病院二於テ歿ス」
 弟の死は私をうちのめした。酒中の夜がつづいた。酒間にはきまって室生犀星の「小景異情」の一節が唇を出た。
  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
 この歌声が高くなれば高くなるほど、ふるさとへ飛んで帰りたいと思った。そこにはこの戦争で末子をうばわれて私以上にうちのめされていた、七十近い父がいた。私は妻と生まれて間もない長男を連れて、飛んで帰ってこの父を守るべきだと考えた。



これに続けて、和辻哲郎からの昭和十三年十月二十三日付けの手紙が写されている。
書簡の写真も収めてある。弟の死を伝えた手紙への恩師からの返信である。

「お手紙拝見。御令弟が戦病死せられました事を承はり 貴下のお心持を深くお察し申上げます。『田舎か戦地で死にたかったなあ』といふ御令弟の最後のお言葉には強く打たれました。そのお気持は私にも好く解る様に思ひます。
 この月初めに、貴下よりあとの卒業生の奥山健三君が戦地で戦病死せられたとの報知を受取りました。五月廿八日ださうです。
 この春以来、沢田、霞、吉野、佐々木等の諸君が出征せられ、蔭ながら安否を気附つてゐます。吉野、佐々木両君はたしか感化院でお一所だったかと思ひますが、君の方へたよりがありますか。
 お手紙に、二三年の内に帰郷して故郷で働きたいとのお言葉がありましたが、私は大変賛成です。農村から好い人々が脱出して都会へ出て消耗される事は、色々な点から残念な現象に思はれます。真に意義のある仕事は農村の地味な質実な教化や組織にあると思ひます。しっかり腹をきめておやりになる事をおすゝめします。
 先は一寸御返事のみ。 早々
   十月廿三日   」

 これは大学時代の恩師和辻哲郎博士の書翰の全文である。


感化院…1936年に孫一先生が半年ほど勤めた国立多摩少年院。

◆小田桐孫一宛て和辻書簡は1992年刊の「和辻哲郎全集」(岩波書店)では第25巻に、上掲書簡を含め、二通収録されている(下の写真は小田桐孫一『草沢の心』より)。


和辻書簡1右A.jpg


和辻書簡2左ページ(圧縮済み).jpg






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