旧川喜多別邸=旧和辻哲郎邸[2024年11月01日(Fri)]
鎌倉市川喜多映画記念館(高峰秀子展を開催中:2025年1月13日まで)
◆10月30日の「鎌倉ミニ修学旅行」、川喜多映画記念館に続いて、旧川喜多別邸を見学させていただいた。
◆ここを最初に訪れたのはずいぶん前、鶴岡八幡宮の鎌倉近代美術館(いわゆる「鎌近」。現在は「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」)に向かう途中だった。
現在も閑静なあたりで、バス通りの混雑を避ける格好の抜け道にもなっている。
当時は黒い板塀が長く続いていて、中がどうなっているのか全く見えなかったように思う。ところがその日は、一角が開いていて、公開中と案内が出ていたので、立ち寄ってみたのだった。
◆この別邸は川喜多夫妻没後、その広い敷地とともに鎌倉市に寄贈されたが、映画記念館が実際に形になるまでは時間もかかり、設立に向けて市民に募金の呼びかけもされていた。そうした取り組みの一環として、先に別邸の公開が実現した、という順序だったと思う。
その折には、もと農家の建築だったこの建物の土間部分に、アラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーヴなど、ここを訪れて川喜多夫妻と談笑する名優たちの写真が展示されていた記憶がある。
(現在は、それらの資料は映画記念館の方に移されている。)
旧川喜多別邸=旧和辻哲郎邸(映画記念館の西側の山裾に建つ)
◆その時に、この質朴な建築は、もと江戸時代の豪農の家であったのを、哲学者の和辻哲郎(1889〜1960)が練馬に移築して居宅としていたものだ、ということを知って驚いた。
自分たちの高校時代の恩師である小田桐孫一先生(1911〜1982)が大学時代に出会い、終生、学問のしるべとして仰いだ人こそ和辻哲郎であったからだ。
練馬区南町にあったこの家を、孫一先生も訪ねたことがあったかも知れない。
ならば、いつの日か、同期の面々と一緒にここを訪ねたい、と思うに至り、今回それが実現したわけである。
◆実は、川喜多別邸の一般公開は年数回と限られている。
「鎌倉ミニ修学旅行」を設定した10月30日は、本来、公開予定はないのだが、ダメモトである。予約時の電話で、和辻哲郎⇒小田桐孫一⇒我々不肖の弟子、という一筋のつながり――大げさに言うならば「孫弟子」となる旨を伝え、ぜひ見せていただけないだろうか、無理なら外観だけでも……とお願いしたところ、「大丈夫ですよ。ご案内します。」との返事を頂戴したのだった。(電話のあとで、「孫」の一字を駄洒落のように弄んだことに気づいて己の不遜に恥じ入った。意図したわけでは全くないけれど。)
そのようにして同期の面々との見学が叶ったのは有り難く幸せなこと。実現させてくれた川喜多映画記念館の皆様には感謝しかない。
◆案内の方のお話では、最近、建築専門の研究者に建物をつぶさに調査してもらったそうだ。それによれば、江戸も中期もしくはそれ以前、これまで想像されていた以上に古い時代の建築だろうとのこと。
◆雨戸を開け放ってくれた屋内にたたずんでいると、雨上がりの縁側の方から、波打つような昭和の窓硝子を通して、柔らかい日の光と、しっとりとした空気が室内にゆっくり入って来る。
建物・前庭ともに演奏会など様々に活用されているとのこと。
「ベルリン 天使の詩」などで知られるドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして制作したドキュメンタリー「東京画」(1985年。日本公開は2021年)では、南の縁側で笠智衆へのインタビューを撮影したとのこと。言葉を選びながら質問に答える笠の話には長い間(ま)が挟まりがちだったが、その間もカメラを止めないので、フィルムをムダにさせる、と笠自身は気にしていたというエピソードは、長い役者人生をしみじみ感じさせるものがあった。
◆書斎の書棚には和辻全集が並んでいた(恐らく没後間もなく刊行された20巻の全集)。
建物の北側にも縁側がしつらえてあって、台所からまっすぐ西北隅のトイレに行ける作りになっていた。あるじの思索や執筆を妨げることがないように、との配慮であろうか。
◆路地状の裏庭には三体ほど石仏が点在していて、それらを眺めながら何を思ったことだろうと想像したくなる。
南には遊歩道が整備されて、現在は開放されているので、前庭のなだらかな傾斜や木立を背負う建物を眺めることができる。右が映画記念館(西側から見たかたち)。