サーメル・アブー・ハウワーシュ「もういいんだ私たちは 誰に愛されなくても」[2024年10月18日(Fri)]
もういいんだ私たちは 誰に愛されなくても
サーメル・アブー・ハウワーシュ
もういいんだ
今日から後では
私たちが誰かに愛されるなんて
大いなる天使に
澄み切った空の中で愛されれば十分だ
私たちの中の子どもたちには見える 彼方に立つあの天使が
両手をハートの形に組み合わせる
するとみなが微笑む
私たちの中の女たちには見える 天使が白いジャスミンの小枝を振る
それでみな瞳を一度閉ざすと
二度と開くことはない
私たちの中の男たちには見える 青い
空のように澄み切った天使の翼が
するとみなが心臓をつかみ取られて
天使を目指して旅立つ
もういいんだ私たちは 誰かに愛されるかなんて
爆弾によって私たちはまさに耳から解き放たれた
その耳でかつて愛の言葉を聞いたものだった
ミサイルによって私たちは目から解き放たれた
その目で愛のまなざしを見つめたものだった
どす黒い言葉によって私たちは心臓から解き放たれた
その心臓の中で愛の魔法の言葉を育んだものだった
もういいんだ 私たちがこの世の
誰かに愛されるどうかなんて
「いずれにせよ報われない愛だったようだ」
と言うのは 土地という観念に疲れ果てた私たちの中の年寄りたち
私たちの中の詩人は遙(はる)かな地平に立ち
「このむごい愛から私たちを救いたまえ!」と叫ぶ
そしてつぶやくのだ
かつての若気の至りの楽観を詫(わ)びて
――この地には
そのために生きるに値するものなどない
もういいんだ 他の誰かに愛されるなんて
私たちにはたくさんだ 言われていながら言われてはいない言葉も
もうたくさんだ 差し伸べられていながら差し伸べられてはいない手も
見ていながら見てはいない目も
たくさんなんだ
この永い夜の中にいる自分自身も
私たちの残骸に
母親たちがしがみつくことも
久しく解きがたい呪いとして
背負うこの岩もだ
負ったまま私たちは進みゆく 深淵(しんえん)から深淵へ
死から死へ
そして決してたどりつくことがない
もういいんだ 今日から後では 誰かに愛されるかなんて
あるいは 誰が私たちの弔いに立ち会うかなんて
おお私たちは行く 沈黙して最後の彷徨へ
私たちは互いに手を取り合い
この世界という砂漠の中 ただ私たちだけで進みゆく
あるとき
私たちの中の子どもがひとり振り返り
瓦礫に最後の一瞥(いちべつ)を投げかけ
ただひとつぶ 涙をこぼしてこう言うだろう
――もういいんだ私たちは 誰にも愛されなくても
「もういいんだ私たちは誰に愛されなくても」
(原口昇平訳/渡辺真帆・山本薫監訳)
『現代詩手帖』2024年5月号〈特集 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聞く〉(思潮社)より
◆詩人Samer Abu Hawwashは、1972年、レバノンでパレスチナ難民の一家に誕生。レバノン大学卒。ベイルートからアラブ首長国連邦に移住の後、現在は末韻のバルセロナに在住とのこと(原口昇平氏の解説による)。
解題によれば、この詩は2023年10月25日、レバノン・ベイルートの新聞「アン・ナハール」にアラビア語で載ったもの。英語訳文はフダー・ファハルッディーンが作成し、「ALABLIT」に初出したものという。
◆「もういいんだ私たちは」と繰り返すこの詩を前に、うなだれ立ち尽くすしかないのか、私たちは?
耳・目・心臓を爆弾に奪われることを「解き放たれた」と言ってのける詩人に、返す言葉が果たしてあるのか?
かけられる言葉も、差し伸べられた手も、向けられる目も、何一つ事態を変え、命を地上につなぎ止める力になっていない――事実をかくも厳しく指摘されて、打ちのめされたまま沈黙するほかないのじゃないか?
――恥ずかしさはページを閉じれば、やがて収まる。やましさや無力感だって翌朝には薄まって、身を起こして深呼吸の一つも付ける――そうじゃないのか、君は?――そう自問せずにこの詩を読むことはできない。
最後にもう一度記される「もういいんだ私たちは 誰に愛されなくても」――これに対して、返す言葉・差し伸べる手・向ける眼差しを持とうと、心から思いますか、あなたは?
――そのように自問する地点に立たされずにいない。
***
◆この詩の第四連の後半に「私たちの中の詩人」と記された人物はパレスチナを代表する詩人、マフムード・ダルウィーシュMahmoud Darwishを思わせる、と原口昇平氏は言う。
原口氏による解題の後半を下に写しておく。
この詩に出会った者がなすべきこと、その手がかりを、愛をこめて示してくれる文章だ。
否定されること、それこそが、この詩が賭けているものだ。正確に言えば、一人称複数の深い諦念に満ちた集団的自己否定に対し、否定の否定が世界中の三人称複数から強く巻き起こることが待たれている。詩人はまさにそのために、パレスチナ独立宣言(一九八八)を起草した代表的詩人マフムード・ダルウィーシュ(一九四一-二〇〇八)を思わせる人物を「私たちの中の詩人」として登場させ、パレスチナの分離壁にグラフィティとして描かれるほど愛されている彼の詩行「この地には、そのために生きるに値するものがある」(溝川貴己訳)さえも否定文に書き換えて、詩に挿入しているほどだ。読者がこの否定を否定し、人類により作り出された「世界という砂漠の中」共に去りゆく「私たち」を一人ひとり名前で呼んで引き止めるべく行動を始めたなら、そのとき初めて、人間性といわれるものが肯定される契機がひとつ、この世界に訪れる。
◆「私」もまた「世界という砂漠の中」に共に在り、一人の人間として名前を呼ばれるべき存在であるゆえに、「岩」の重さを共に担い、そのまま立ち上がること。