文月悠光「誰もいない街」[2024年09月14日(Sat)]
誰もいない街 文月悠光
誰もいない教室、誰もいない観客席、
誰もいない劇場、誰もいない卒業式、
誰もいない街で きみは立ち尽くす。
見ていてくれる人がいたから、
きみはきみを演じ通すことができたのに。
役割を奪われたように、まぶたを閉ざす。
よるべないわたしたちは不安を手放せなくて
互いを遠ざけては ぴったりと口を覆う。
この現実を手懐けてはいけない、と
瞳だけで 示し合わせた。
窓の向こう、夜が流れているのを肌に感じる。
身体ごと闇に溶け落ちて、
静けさがひとつの宇宙になるまでを待つ。
薄明のわたしは きみの窓になろう。
きみの独りごとを聴く壁になろう。
きみの背中を抱く椅子になろう。
ドアになろう、きみがここを出るための。
誰もいない街で。
春となって きみを照らそう。
きみの声を遠く運ぶ風になれたなら――。
まぶたは 光をさがすことをやめない。
文月悠光(ふづきゆみ)『パラレルワールドのようなもの』(思潮社、2022年)より
◆コロナ禍のさなかの閉塞と沈黙、孤立と不安――押し黙った空気そのものが小刻みに震えているようだ。
それは過ぎ去ったのではない。いつでもそれが、そこにもここにもある日常を、私たちは生きることとなった。
それだけに、閉ざしたまぶたを確かに明るませる「窓になろう。」というかすかな声がどんなにありがたいか。
「ドアになろう、きみがここを出るための。」という語りかけがどんなに尊いか。