田中郁子「山峡の空」[2024年09月09日(Mon)]
山峡の空 田中郁子
山峡の空に一度もツルはやって来なかったが
わたしはツルになることを誰から学んだのだろう
いつからか片足で立ちつづけている
こうりょうと風に吹かれ立ちつづけることがどんなに苦痛であるか
あるいは悦楽にひたるにはついばむ餌を断たなければならないこと
そうすれば描かれた絵のようにいつまでも生きられること
しかし あっけなくバランスをくずす日がくることなど
けっして自分に知らせなかった
(誰もが知ろうとしないものなのだ)
こうして白い羽を胸にたたみ来る日も来る日も水平線を見つめた
波がしらが砂に吸われることの他
名づけがたい静けさの方へ少しずつ降りていった
それだけで充分だった
これが 何年何十年片足だけで立ちつづけていることの理由である
だがいつか たっぷりと盛り上がった海の背を
我を忘れてはばたく己を見たいと思う
はるか上空の気流に乗り異郷の山なみを越え
我を忘れて遠ざかって行く己を見たいと思う
わたしのツルが次々と飛び立っていくのを見たいと思う
山峡の窓に映る空からはそれがよく見えるのだ
『田中郁子詩集』(思潮社・現代詩文庫、2015年)より
◆いつまでも片足で立ちつづけるツルであるためには、バランスをくずす日が来ることなど、けっして自分に知らせないことだ、と言う。
――水上を歩行するには体が沈まぬうちに右、左、右、左と次々に足を前に繰り出す骨法を会得すること、みたいな話で、可笑しい。
だが、何十年と立ち続けることができるツルならば、いずれ必ず、飛び立っていくに違いない。
飛べない、などと自分で己の限界を設定したりするのでなければ、はばたくことを知っているに決まっていて、ならば、上空に浮かび異郷へと飛び立って行けるに決まっているはずなのだ。
◆長崎「被爆体験者」(!!!)への、シミッタレた、というしかない判決を聞いて、ふとこの詩が思い合わされた。