田中郁子「水かさ」[2024年09月08日(Sun)]
水かさ 田中郁子
梅の実にぱらりぱらり塩をふり
重石ひとつ中ぶたにのせ
ひとつの夜があけふたつの夜があける
母が使った木の樽に
梅酢があがるのを待った日
ちいさな息を三つして
あなたの心臓がとまったかなしみは
梅の実をはるかな梅の実にしてしまう
やがて漬かった実と実と実
とうめいな水底から
まっすぐ わたしに向かってくる
あなたが閉じたまぶたのおくのまあるい
生きてきた日のつぶとつぶ
ひっそりと異次元に沈んでいる
しかし まぎれもない樽の中
山もりの実はひくく首をまげ
微動だにしない水かさは
鋼鉄のようでなければならない
朝も夕も霧の日も
死んだあなたと顔をならべてのぞくのだから
『田中郁子詩集』(思潮社・現代詩文庫、2015年)より
◆この詩も母の死がテーマだ。
梅を漬けた樽は母がながく使ってきたもの。
それを見ること母の仕草を今度は自分が繰り返す。
単に受け継ぐ、とかバトンを受け取る、ということではない。
ときに並走、ときに正対し、ときに包み・包まれ、そのようにして母と樽の水かさをのぞいていくことだ。