秋山洋一『第二章』より「第八圏」[2024年09月04日(Wed)]
「第八圏」 秋山洋一
「蠅が蚊に入れ替わる」
夕まぐれ
誰が箸を使ったのか
人の食卓に残された焼魚の
うつくしい骨の城に
赤い灯火がしみる
そこへ小さな波のように
うっすらとほっそりと
一つまた一つ
窓べりを過ぎていったのは
「影か
影のような人か」
「開く鍵」を首に下げ
裏通りを渡れば
翅あるものが鳴いている霊の園
もう包むものも
包まれるものもなく
その後は知れぬ終りの始まり
「閉じる鍵」を出すべき時
住みなれた町は
住みすぎた町
「空の煙や水の中の涙」のように
消え失せた
お姉さんたくさん
お兄さんたくさん
窓べりに一人残され歯を磨く
『第二章』(七月堂、2023年)より
◆タイトル自体が「大発見」という同音異義語を背中に張り付かせているのを皮切りにして、この詩には対を成すものが多く点綴されている。
第一連でいうと「蠅」と「蚊」、「食卓」(という日常が営まれる家の中)と「赤い灯火」(非日常である飲み屋街界隈)などである。
第二連でも「影か/影のような人か」という表現が出てくる。
本体である「人」が、「影」と対にされることで、抽象化される。もしくは存在が希薄化すると同時に陰影を帯びて奥行きが生まれる。捉えどころがなくなることで、幻想へと導く、と言っても良い。
第三連では「開く鍵」と「閉じる鍵」、「包むもの」と「包まれるもの」(両者の不在もしくは死)、「終りの始まり」。
「鍵」はふつう、「開く」のも「閉じる」のも一本で足りるはずなのに、ある世界の中に入ってしまえば、入った扉をわざわざもう一本の鍵で内側から閉じなければならないようにしてある。
扉を挟んだ二つの世界が、自由に往き来できるのではなく、いったんどちらかの世界を選んだら、それまでの世界を自分の意志で閉じなければならないように出来ている。
◆このように見てくれば、最終連の「住みなれた町」と「住み過ぎた町」。二通りの表現を与えられる理由が飲み込めてくる。
「町」を出た自分と、「町」に取り残された自分――町を出たのは自分の意志で、扉を閉めて訣別したのだが、向こう側には取り残された自分が、いつまでも「弟」として生きている。
過去への懐かしさと嫌悪という感情が伴う。現在の苦悶と回想の交錯。
◆あるいは、自分の意志として死後の世界(それは常に生と背中合わせだ)を選び取ったことを暗示しているのかもしれない。
改めて第一連と最終連を並べて見れば、映画で暗示的に示されたシーンが、最後に再び登場して、もろもろの出来事が回収されるように、第一連の食卓のシーンは、最終連の「歯を磨く」シーンに接続する。日常そのもののようなセットやアクションは時間の操作という紗幕の向こうに映し出されたものだ。
そのようにして、次に起きる幕切れを演出する。