山田隆昭「似る」[2024年09月01日(Sun)]
◆前回の「雨のように」と対をなすような山田隆昭の詩を同じ詩集の後半から一篇――
「水」というものを介して、死をめぐる感情を、なまなましい夢のように表現している。
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似る 山田隆昭
旅先である 乗り合わせたバスに 見知った
顔がひとりもいない だが どの顔もどこか
で見たような気がする 肉体もまた水に似て
触れるものに従う バスに乗ればバスに乗っ
たぞ という顔になる 停車発進右折左折
そのたびに乗客は藻のように揺れる 午後の
陽の光合成によって睡魔が作られる 居眠り
する体から芯が抜けてしまって みんな椅子
の形をなぞって坐っている 車体が消えたと
想像してごらん ᒧの形をした幾体かの人間
が 地球の丸みに沿って走っているのが見え
るだろう
漁村である 海に近い停留所と知って 降り
てみたくなる 握り棒の形に体を整えて 膝
を折り曲げながら降車する 足はステップに
似ようとする それから小波のリズムに乗っ
て歩く 漁から戻った舟が近づいてくる 漁
夫の顔が鱗におおわれてかがやいている 豊
漁だったのだ 捕らえられても魚はひとの顔
に似ない ひとは海に入れば泳ぐけれど魚は
水から出ても歩かない
葬列が通る 一団の体が透けている 蒼白の
冷たい手足をぎこちなく動かして 穴に向か
う 死者は空にゆかない 大地をまねて こ
れから土のなかに横たわる さてぼくはなに
に似ればよいのか 風になびかせた髪はすで
にワカメのようで 全身潮の香りにまみれて
苦味を帯びている 似るだけでよい 海その
ものになりたくない ああ 足の下を抉る波
は どうしてそれがわからないのか
『詩集 伝令』(砂子屋書房、2019年)より
◆人間はさまざまなものの形に似せて存在しているだけで、決してそれらそのものになることはない。たとい死んだとしても。
本音を言えば、「似る」ことで充分なので、それらのものに完全になりきることを望んではいない。「死んだら土に還る」などと言って死への準備はとっくに出来ている、と見せてはいるが、それは本心ではない。
そんな気休めが通用しないことが分かっているからだ。
2連目の終わり「ひとは海に入れば泳ぐけれど魚は水から出ても歩かない」――このジョークの背中には、底知れない恐怖がピッタリと張り付いている。