新川和江「問」[2024年08月25日(Sun)]
◆昨日の詩「いっしょけんめい」の、子どもの真っ直ぐな「問い」に応答するような詩に出会った。第一詩集『睡り椅子』から6年後、「詩集『絵本』」の中の一篇である。
問 新川和江
われらに答があり得ようか
われらにあるのは
永劫に問ばかりです 眼に見えぬ偉大なおかた
うず高い計算書 帳簿のかげに太陽を紛失し
ふとうろたえて
きょう一日の疲労の廻転椅子をまわす時
期待に反いて背後はいつもがらんどうなのだ
人を捨てると
すぐさま性急に走り去る電車
人はなにやら惨(みじめ)な気持になるけれど
そそくさと歩き出すのを忘れない
それぞれに ちいさな答を求めながら
狭雑な裏町に夕霧がたちこめる
溝川の水は澱んで冷たいのに
橋の下 老人は何を飽かずに抄(すく)うのか
毀(こわ)れた花瓶 ふやけたぼろ靴
そんななかからちょろりと匍(は)い出す
たったひとつのざりがにが欲しいため
ダイヤルを廻すX
金属性のノブに手をかけるZ
燐寸(マッチ)を探す彼 言葉を失くす私
どこかでけたたましく鳴りわたるベル
吠えやまぬ犬
てるてるぼうずを小枝に吊るす少女や
鉛筆の芯をほそくほそく削りたがる一年生や
手術衣に手を通す外科医
結核病棟の窓々
きのこ雲……
爪のように
はこべのように
われらの問は
のびるばかりです それでも尚食い足らずのどんらんなおかた
絵本『永遠』(地球社、1959年)所収。
〈新川和江文庫5 睡り椅子/絵本『永遠』〉(花神社、1988年)に拠った。
◆カメラが近づき、また遠ざかるようにして点描されて行くのは、仕事に追われ倦み疲れた人びとの姿。
大人たちにも問いはある。それどころか、問うことをやめたくなる日々の中で、問わないのは人間として生きることをやめるに等しいことを知っている――それがどんなに小さな問いであろうとも。
◆子どもの問いは大人に向けて発せられるだろうけれど、では大人たちの問いは誰に向ければ良いのだろう。
詩人はその相手として、仮に「眼に見えぬ偉大な/どんらんなおかた」を想定してみる。
その「おかた」が実在するかどうかは問わない。
問わずにいられぬ以上、それに答を与える存在を仮に措くのでなければ、やりきれないからだ(――「答えがある」と仮に想定することと、実際それが得られるかどうかは別のことだ)。