新川和江「橋をわたる時」[2024年08月21日(Wed)]
橋をわたる時 新川和枝
向ふ岸には
いい村がありさうです
心のやさしい人が
待ってゐてくれさうです
のどかに牛が啼いて
れんげ畠は
いつでも花ざかりのやうです
いいことがありさうです
ひとりでに微笑まれて来ます
何だか かう
急ぎ足になります
1953年刊の第一詩集『睡り椅子』所収。
『生きる理由』(花神社、2002年)に拠った。
◆この詩のように、逝きし人びとはやはり橋を渡っていったのだろうか。
こちら岸とつながっているようでありながら、道の一箇所に截然と画された境があって、それはいくら目を凝らしても見えはしない。
渡った先に「いい村がありさう」と思うのは、予感というより、祈りのようなもので、橋をわたる時に急ぎ足になる感じなのは、向こう岸が、れんげ花ざかりの常春で、心のやさしい人ばかりが棲む村でありますようにと願うこと以外、心には浮かばないからだろう(そう願わない人もいるとしたら、それは橋とは無縁の人だ)。
いずれにしても橋は渡るためにあるので、中途に佇むことは許されていない(ように思う)。
◆さて、渡った先の世界について良くは分からないし、こちらの力や念の及ぶ処でもない以上、後ろ姿を見送ったのちは、己に橋を渡る資格があるのかないのか心もとない気分のまま、こちら岸をちっとはマシな世界にするほか、やることは残っていない。
先立たれた者の言葉として「私もじきそちらに参ります」などと述べる人がいるけれど、アレはどうもしっくり来ない。
向こう岸に行けるか、本当はよく分からないのだし、仮に再会を約束するにしても、「そちらに行くまで、もう少しまともな人間になっておきます」と誓い精進するのでなければ、歓迎されないのじゃなかろうか?