遠塵離苦(おんじんりく)[2024年08月07日(Wed)]
◆従兄の通夜、導師による法話の言葉が印象に残った。
遠塵離苦(おんじんりく)
法華経第二十七にある言葉だという。
生きているあいだに身にまとわりついた汚れを、きれいに流す、死を契機に、逝ける者も弔いに集った者たちも、塵を洗い流し、身と心を浄めるようにつとめること。
死が極めて私的な出来事でありながら、同時に社会性を帯びたものでもありうるとするなら、それは、一個体の終焉を、ゆかりの深浅・有無に関係なく、我がこととして――魂に刻み込まれる我が痛みとして――受けとめ、記憶を共有する体験によって可能だろう。
弔いも喪もそのためにある。
逆に言えば、それを許さない理不尽な死――ガザやウクライナで日常となってしまっているところの「死」――は、決して肯んじられないものとして断固拒絶することが要請される。人間であることを放棄しないならば、そのように行動することこそが必要になる。
◆通夜を終え帰路に就くころ、思いがけず雨に見舞われた。
石畳も立木もすっかり雨に洗われた。
だが不思議なことに、遺骨が再び戻ってきた村は、雨の気配も痕跡も全くなかった。
逝ける者も参列した者も、天の差配による〈遠塵離苦〉をし終えての帰還となったわけである。