谷川俊太郎「空」[2024年07月25日(Thu)]
空 谷川俊太郎
空はいつまでひろがっているのか
空はどこまでひろがっているのか
ぼくらの生きている間
空はどうして自らの青さに耐えているのか
ぼくらの死のむこうにも
空はひろがっているのか
その下でワルツはひびいているのか
その下で詩人は空の青さを疑っているのか
今日子供たちは遊ぶのに忙しい
幾千ものじゃんけんは空に捨てられ
なわとびの輪はこりずに空を計っている
空は何故それらのすべてを黙っているのか
何故遊ぶなと云わないのか
何故遊べと云わないのか
青空は枯れないのか
ぼくらの死のむこうでも
もし本当に枯れないのなら
枯れないのなら
青空は何故黙っているのか
ぼくらの生きている間
街でまた村で海で
空は何故
ひとりで暮れていってしまうのか
『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫、2013年)より
◆この詩を読む直前に身の回りに起きたこと、聴いていた音楽、TVで見たニュース、その日の天気……などなどによって、印象をそのつど変える詩。
TVで白い布にくるまれて母の腕に抱えられた死せるガザの子ども、それは昨日のニュースだったが、その場面が目の前から消えない今、この詩はレクイエムのように思われる。
青い空のもと遊ぶのに忙しい子どもたちの姿は歌われているのだが、ここに子供たちの歓声は聞こえない。
空が「遊ぶなとは云わない」のも「遊べとも云わない」のは、この子供たちは「死せる児」たちであるからだ。
それゆえに青空は「黙っている」しかない。
読む者には、泣き叫ぶ母の声が空を切り裂いたまま、いつまでも聞こえているし、彼女に語りかける言葉など、何をどう探したところで見つからない。
たぶん、空にもその嘆きは聞こえている。
空が自らの青さに耐えているとしたら、私たちは何に耐えているというのだろう?