
ショウジョウソウ(猩々草)[2023年09月09日(Sat)]
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![]() ショウジョウソウ(猩々草)[2023年09月09日(Sat)]
![]() 田村隆一「保谷」 [2023年09月09日(Sat)]
保谷 田村隆一 保谷はいま 秋のなかにある ぼくはいま 悲惨のなかにある この心の悲惨には ふかいわけがある 根づよいいわれがある 灼熱の夏がやっとおわって 秋風が武蔵野の果てから果てへ吹きぬけてゆく 黒い武蔵野 沈黙の武蔵野の一点に ぼくのちいさな家がある そのちいさな家のなかに ぼくのちいさな部屋がある ちいさな部屋にちいさな灯をともして ぼくは悲惨をめざして労働するのだ 根深い心の悲惨が大地に根をおろし 淋しい裏庭の あのケヤキの巨木に育つまで 現代詩文庫『田村隆一詩集』(思潮社、1968年)より ◆台風がもたらした雨がともかくも治まった。 この詩がいうように「灼熱の夏がやっとおわって」、虫の声も耳に付く夕刻を迎えた。 ◆詩中の「保谷/武蔵野」という地名の組み合わせを他所に移してみたら――などと不埒な考えが一瞬浮かんだのだが、そんなものは武蔵野を吹き抜ける風にたちまち吹き飛ばされた。 枝を揺らし葉の色を失わせるその風は、「ぼくのちいさな家」をも揺さぶり、「ぼく」の「悲惨」をかき立てずには居ない。 となれば、「悲惨をめざして労働するのだ」と開き直る以外に何ができよう。 吹き飛ばされぬために、大地に根を張る――そうしてわが「悲惨」を、土中深く大地への養分として注入し尽くすことだ。 ◆吹く風がつむじを描いて「ぼく」のなかを吹き抜ける。 そのまま土に潜り根毛の隅々まで太らせた果てに、再び地上に噴き上がり、太い幹を現出させる。 ――この詩を読みながら、武蔵野にまつわる記憶のあれこれをよみがえらせようとすると、どれもクルクルと風に吸い上げられ、そのまま、聳え立つ一本のケヤキの中に溶け込んでゆくように思えてくる。
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