
香月泰男のことば[2023年03月06日(Mon)]
末恐ろしい末期に来てしまつたのではないか。
滅びが間近に迫ったといふ気がする時がある。
一人の人間の死といふこともさうだが、予言者
ではない私ですらこのままでは滅びだとさう感
じるのだ。といつても絵を描くだけだが。
――画家・香月泰男のことば
![香月泰男「久原山雪」1974[画家のことば].jpg](/poepoesongs/img/E9A699E69C88E6B3B0E794B7E3808CE4B985E58E9FE5B1B1E99BAAE3808D19745BE794BBE5AEB6E381AEE38193E381A8E381B05D-thumbnail2.jpg)
香月泰男「久原山雪」…久原山(くばらやま)は香月泰男の自宅裏の山
谷川俊太郎・編/香月泰男・絵と文『春 夏 秋 冬(はるなつあきふゆ)』より
(新潮社、1993年。初出は『画家のことば』新潮社、1974年)
上のように、香月の絵とことばとがセットで収められている。
◆「世界終末時計」が〔1分30秒前〕を指したままだ。
東西冷戦時代の1953年、米ソが水爆実験をした時でさえ〔2分前〕であったというのに。
◆結びの一文、「絵を描く」の代わりに、自分が日々続けていること、生きがいとしていること――趣味だって全くかまわないだろう――をあてはめてみようとする。
例えば《といっても飯を食うだけだが。》……サマにならない。
《新聞を読む》、もそう。《音楽を聴く》もしかり。
どうにも《絵を描く》には太刀打ちできないようなのだ。
この違いは何なのだろう。日々ひたむきに続けている――それも創造的な――仕事であるか、そうでないか、ということだろうか。
目に見えて生産的でなくても良いが、少なくとも消費するだけの行為は、「末恐ろしい/間近に迫った/滅び」にブレーキをかけることもできなければ、「その日」に人間らしいありようで臨むことにも役には立たないように思える。